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第1話 彼の身体と目玉焼き、どちらに唇を寄せたいか

朝——目玉焼きの焼ける音ほど、人を幸福へと誘うものがあるだろうか。 月嶋伽理紗は、ふとそう胸の内でつぶやいた。 ブラインドの隙間からこぼれるやわらかな光が、油の香りを抱きとめるように漂い、部屋の空気をゆっくりと温めていく。 静かで、満ち足りた朝だった。 ジュウ、ジュウ、ジュウ。 目を閉じても、その情景は鮮やかに浮かんでくる。 卵がフライパンに落ちた瞬間、泡は軽やかに跳ね、白い煙はゆるやかに立ちのぼり、香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。 卵白はとろけるように広がり、ぬくもりに抱かれてゆるやかに揺れる。 その輪郭は、やがて霞のようにほどけ、 金色の核をやさしく包み込んでいく。 ——それは、朝の空気のなかでひっそりと交わされる、誰にも見せない、やわらかな営みのようだった。 伽理紗はコーヒーをひと口含み、どこか愉しげな目つきで、目の前で目玉焼きを焼く男を眺めていた。 朝食の準備をしているというのに、彼はすでに身なりを整えている。 髪は束感のあるショートで、自然なまとまりのなかに、ほんのわずかな乱れを残していた。 無造作に落ちた前髪が、その整った顔立ちをふっと引き立てる。 鼻筋に沿ってかけられた極細のフレーム眼鏡が、視線をわずかに覆い隠し、抑制された静けさを纏わせていた。 白いシャツと薄いグレーのスラックスに包まれた身体は、細身ながら均整がとれ、すらりとした印象を与える。 一見すれば、文系気質の穏やかな男のようにも見えた。 ——静謐をまとった、朝の佇まいだった。 だが、視線をもう一度落とせば——。 背は高く、肩は広く、そして腰は、すっと引き締まっている。 シャツの下に潜む身体は、緻密に設計された彫像のように、美しい逆三角形を描いていた。 調理の手元が動くたび、布越しに二の腕の筋が淡く浮かび、視線は自然とそこへ吸い寄せられる。 ただフライパンの前に立っているだけなのに、その体には、ごく自然にしなやかな曲線があらわれていた。 まくり上げた袖口からのぞくのは、白くなめらかな前腕。 ——もし視線が、その奥へと入り込めたなら。 その先にある素肌のすべてを、この目で確かめてみたいと思ってしまう。 けれど、腰に巻かれたエプロンは、あたかも意地悪く、その身体を奥へ奥へと覆い隠そうとしているかのようだった。 彼の身体と、目玉焼き。 いまこの瞬間、どちらに唇を寄せたいかと問われたら、ほんの一瞬、答えに迷ってしまいそうだった。 もし背後に回り込み、シャツのボタンをひとつずつ外して、隆起した胸筋に手を添えたなら——。 返ってくる感触を、想像するだけで胸がわずかに高鳴る。 夜ごとに何度もその温もりを手にしてきたはずなのに、 今朝の光に照らされた控えめな膨らみは、不思議とまた違う艶を帯びて見えた。 ——あるいは、素肌にエプロンだけを纏い、このキッチンに立っていたら。 その姿を思うだけで、心の奥に甘やかなざわめきが広がっていく。 そんな光景を思い描いていたその最中、耳元に、澄んだ幼い声が飛び込んできた。 「ママー、ごはん、まだー?」 伽理紗は冷めかけたコーヒーを乱雑に飲み干すと、向かいの少女のコップに牛乳を注いだ。 そのとき、横のノートパソコンの画面隅に、チャットの通知がいくつも立て続けに立ち上がった。 わずかな間だけ取り戻していた静けさが、音もなく、また現実に押し流されていく。 伽理紗はノートパソコンに指を走らせながら、早口で言った。 「今朝の件で、編集部またてんやわんやでさ……さっきやっと指示出し終わって、今すぐ行かなきゃ。ミナ、ごめんね、急いでごはん食べて、お支度して。今日はママが早めに送ってくから。」 男は静かに言った。 「ごめんね、今日も忙しいのにミナを送ってくれて。俺は何も手伝えなくて……。何かあったの?」 伽理紗は顔を上げず、ノートパソコンの画面を見つめたまま答えた。 「大丈夫、ニュースの仕事なんてこんなもんよ。今日なんか、まだマシな方。」 言いかけて、ふとミナの顔が視界に入る。伽理紗は言葉を一瞬切った。 「……前に行方不明になってた女の子、いたでしょ?見つかったの。」 「……そうなんだ。」 男はそれ以上何も聞かず、静かにキッチンへ戻り、洗い物を始めた。 その目玉焼きはほとんど完璧だった。丸く、白く、焼き加減も申し分ない。 彼の手際の良さには、いつも感心する。 伽理紗はフォークを手に取り、目玉焼きの黄身をそっと突いた。 ぷつりと小さく弾け、熱を含んだ金色の雫が白い卵白の上に飛び散る。 とろりとした液は、ねっとりと粘りながら、やわらかな起伏をなぞるようにじわじわと広がっていった。 伽理紗は視線を上げ、その体をあらためて見据える。 ——もし、この黄身が彼の白い肌に、ぽたり、ぽたりと零れ落ちたなら。 とろりとした金色が、胸の起伏を伝い、乳首をかすめ、腹筋の影へと吸い込まれていったなら。 想像するだけで、ひと口では足りないほどの甘美な味わいを、この朝に重ねられるのに。 「ママ、なんで笑ってるの?」 ミナの声に、伽理紗はハッとして、口元をナプキンで隠しながら笑った。 「ふふっ……ナイショ。」 「またナイショばっかり!」 ミナがぷくっと頬をふくらませる。 伽理紗はミナのほっぺを軽くつまみ、くるりと目を動かして、「はいはい、ちょっとね、相馬おじさんのことを考えてたの」と言った。 「え〜、やっぱりママの笑い方、ヘンだったもん!……でもね、ミナも相馬おじさんに会いたいな。いつ会えるの?」 「ママのことも、そんなに想ってくれてる?」 「だって、ママは毎日いるもん。」 「やれやれ、ミナったら」 伽理紗はくすくす笑いながら、ミナの髪を優しく撫でた。 時計を見て、伽理紗は一つめの目玉焼きをフォークでぐいとすくい、そのまま口に押し込んだ。 急いで飲み込んでから、ふと残りの一枚に目を落とす。少し焼きすぎていた。縁が焦げて、色も不揃い。 そのいびつさ、か。 伽理紗は一瞬、フォークを持った手を止めた。 なぜ、自分はこんなにも目玉焼きが好きなのだろう。 記憶の奥にある味は、決して完璧な焼き加減ではなく、むしろ、もっと香ばしくて、縁の焦げ目がしっかりついたものだった。 そして、そのフライパンの前に立っていたのは…… 筋肉が厚く盛り上がった、もう少し荒っぽい男のシルエット。 ――早く、朝ごはん作ってよ。 ――これ、ちょっと焦げてない? ――細かいこと言うなって。 もういい…… 伽理紗は首を軽く振って、余計な思考を追い払い、もう一度フォークを手に取る。 残った卵の黄身に、迷いなく突き刺した。 「かわいそうに……あんなに長い間、床下に……」 慌ただしかった午前中がようやく落ち着き、昼休みもとっくに過ぎたころ。伽理紗は、ようやく弁当を取り出した。 「別れたいとか言っただけで、命がけなの?女って。」 隣の後輩がぶつぶつと独り言のように呟く。伽理紗はそれには応えず、ただ黙って弁当を開けた。 ごはんは、まんまると整えられていて、まるで満月のように美しかった。中央には薄切りのニンジンが彩りとして添えられ、その鮮やかなオレンジ色が白い米とよく映えていた。 その横には、整然と並んだ漬物、赤く煮込まれた豚の角煮、とうもろこし、そしてオクラ。 ――やっぱり、あの人の仕業ね。 豚の角煮を見ると、彼のお尻が頭をよぎる。 下品に落ちきる手前で踏みとどまっていて、けれど、どうしようもなくいやらしい。 ひとたび触れたら最後、きっと手を離せなくなるだろう。 通勤電車は、男たちのファッションショー。 毎朝、無数の身体が流れていく。 瞳は猫、目尻は狐——艶と毒をひとつに宿した眼差しで、誰もが心を奪われそうになる男。 清潔感のある端正な顔立ち。なのに、口元のほくろが妙に艶めかしく、胸の奥をざわつかせる男。 浅黒く焼けた肌に、汗の匂いすら男の色気を孕ませている男。 スーツの下に「ジャパンズ・チェスト」を隠しきれず、誇示するかのように立つ男。 ——けれど結局、彼以上の男なんていない。 この世に、彼の身体を超える造形など存在しない。 整っていて、艶があって、過不足ひとつなく、ただ在るべきものが、そこに在る。 それだけで、完璧な美だった。 ……なに考えてるのよ、あたし。こんなときにまで——。 伽理紗は、自分の妄想に、思わず笑ってしまった。 「わあ、先輩、今日のお弁当もめっちゃ美味しそう!」 彼女の目はまるで星でも飛び出しそうなほどキラキラしていた。 そんな彼女を見て、伽理紗の胸にふと小さな嫉妬が芽生える。 自分は子どもの頃から、こんなふうに明るくて可愛らしい女の子になったことなんて一度もなかった。 学生時代なんて、ずっと坊主頭で、誰よりも男の子っぽかったっけ。 伽理紗は笑いながらお弁当箱に手を被せた。 「だ〜め。」 「え〜、先輩ってば、けっこうケチなんですね〜!」 彼女はいたずらっぽく目を細めて、謎めいた笑みを浮かべた。 「また『幻の彼氏』の愛情弁当とか?」 伽理紗は素早くお弁当から豚の角煮を一切れ取り、彼女の口に押し込んだ。 「はい、口封じ!」 「んーっ……はぁ、最高……。これくらいの腕じゃないと、先輩にふさわしい男とは言えませんね〜」 彼女は目を細めて、口の中の角煮を大事そうに噛みしめていた。 ――「わっ、わっ、わっ……」 手元がおぼつかなくて、卵を皿に移すだけでもひと苦労。 不器用な後ろ姿が、ふと脳裏に浮かぶ。 焦げ目がついて、黄身も少し潰れていた。 「えへへ……」 なのに、不思議といい匂いがした。 ――いったい、どっちが私にふさわしいのかしら。 そう思ったとたん、口元に笑みがこぼれた。 ちょうど言い返しかけたそのとき、視界の端をふわりと黒い影がかすめた。 伽理紗の目は、思わずその動きを追う。 すらりと伸びた背中、通った鼻筋、陰影を宿した目元。 揺れるたびに研ぎ澄まされた曲線が浮かび上がり、流れるようなヒップラインが自分のすぐ脇を通り過ぎていく。 抗う間もなく、視線は奪われた。 ——まるで、舞台に立つバレエダンサーの身体のように。 「……警察って、なんであんなに――」 そのとき、隣からまた小さな独り言がこぼれた。 「明音。」 伽理紗は、ついに口を開いた。 「編集にとって一番大事なのは何か……朝のミス、あれだって、警察と比べてどうこう言える立場じゃないでしょ。」 そう言いながらも、伽理紗の目は、ずっと遠くの「ある一点」を追い続けていた。 「……ですね。朝は本当に頭に血が上っちゃって……先輩のツッコミがなかったら、大変なことに……」 明音は肩を落としつつも、ふと隣を見やった。 ――けれど、その横顔はどこか上の空だった。 まるで、話なんて耳に入っていないみたいに。 「……って、ちょっと、先輩?」 目の前で手をひらひらと振ってみる。……反応なし。 不思議に思って明音が身を乗り出すと―― 視線の先。 廊下の向こう、誰かと話している長身の男性の姿があった。 高っ……肩幅しっかり……足のラインずるっ。 っていうか、絶対顔も良いでしょ、あれ…… 「……はっ!? 先輩、まさか……ガチ!? イケメン相手にはガン見って、ズル……!」 伽理紗は笑いながら、明音の頭を片手で押さえ、そのまま席に戻した。 「え〜〜っ、ちょっと、そういう女だったんですか!?」

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