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第2話 チョコの男、誰かに食べられる前に……

ジジジ……。 ふたたび朝の静けさを破り、油の跳ねる音が、ぬるりと空気に滲み出す。 舌の根元では、微かな熱がゆるやかに脈打ちはじめていた。 伽理紗は、その音に吸い寄せられるように、静かにキッチンへと足を踏み入れる。 ——もう、ただ見つめているだけではいられなかった。 背中越しに男の気配を感じながら、まっすぐその腰に腕を回す。 指先がシャツの前立てに触れ、ひとつ、ふたつ、みっつ——。 ボタンが外れるごとに、夜の余韻をまとった白い胸元が、朝の光の中にゆっくりと浮かび上がる。 張りつめたその肌には、微かな汗が煌めき、——まるで夢と現がまだ溶け合っているかのように、神秘的な光沢を放っていた。 男の息が荒くなり、手を止めて火を落とす。 横顔だけをこちらに向け、かすかに尋ねた。 「ミナは……?」 「目覚まし止めたから、もうちょっと寝てるわ。」 伽理紗はそうささやきながら、その張りのある胸筋を、愛おしむように撫で続けた。 そのたびに、男の喉から、抑えきれない吐息がこぼれる。 「……伽理紗……もっと……」 掠れる声が耳に触れた瞬間、彼女の指先はさらに深く沈んだ。 両手でその胸元を包み込み、まるで彫像を刻む彫師のように、幾度も幾度も弄ぶ。 「……あっ……あ、ああっ……」 キッチン台に手をついた男の身体が、快感の波に呑まれて震える。 伽理紗の掌には、火照った鼓動とともに、彼の身体がゆっくりとほどけていくのが伝わっていた。 彼女はシャツを肘までたくし上げ、その広い肩にそっと唇を落とす。 指先はためらうように、しかし確かに乳首の輪郭をなぞった。 「……伽理紗……」 名を呼ぶ声はかすかに震え、身体が小さく揺れる。 伽理紗は肩を引き寄せ、正面に向かせ、迷いなく腰を抱き寄せた。 深く唇を重ね、背を抱きしめる。 掌は鍛え抜かれた背中をやさしく撫で、熱をたどりながら包み込む。 ——まるで震える肉体を抱えたまま、その魂さえも静かに救おうとしているかのように。 ……そのとき、二階で扉の開く音が響いた。 伽理紗はすぐに動きを止め、階段へと向かい、現れたミナを迎える。 「ミナ、おはよう。」 「ママ、おはよ。なんで起こしてくれなかったの。」 ミナは目をこすりながら、ぽかんとした顔で見上げてきた。 「今日は急がなくていいの。一緒にゆっくり幼稚園に行こうね。」 そう言って伽理紗はミナの手を取り、キッチンを振り返る。 男はすでに身なりを整え、何事もなかったかのように朝食の準備を続けていた。 さっきまでの熱は、立ちのぼった白い煙のように、朝の陽光へと静かに溶けて消えていった。 ただひとつ——胸元の外れたボタンだけが、まだ留められぬまま、ほのかなぬくもりを吐き出していた。 「ママ、今日はお仕事じゃないの?」 「ううん、仕事はあるけど……ミナと一緒にいたいだけ。」 伽理紗はそう言って、真剣な目でミナを見つめた。 「ママは、暇だからミナといるんじゃないよ。どんなに忙しくても、ミナのそばにいたいって思うの。」 ミナはきょとんとしながらも、少し得意げに言った。 「幼稚園のみんな、ママのことすごいって言ってた。」 「どうして?」 「みんなはパパとママがいるけど、ミナはママしかいないから。」 「……ミナ。」 「なに?」 伽理紗は少し申し訳なさそうにミナの頭を撫でた。喉まで出かかった言葉が、どうしても声にならない。彼女は一度、窓の外を見てから、そっと男の方を見やった。男は静かにうなずいた。 伽理紗はようやく言葉を選びながら口を開いた。 「ミナ、パパがいたらどう思う?」 ミナは不思議そうに首をかしげた。 「パパがいたら、どうなるの?」 思わぬ問い返しに、伽理紗は一瞬言葉を失った。 「ほら、幼稚園のお友だちはみんなパパとママがいるでしょ? ミナも、そうなりたいって思わない?」 「ミナ、みんなに聞いたことあるよ。パパがいると、キャッチボールとか、自転車のり方とか、お話読んでくれるって。あと、おんぶとか、肩車してくれるんだって。いいなぁ、たかいたかいとか、楽しそう……でも、ママも全部やってくれるし。それに……いつも相馬おじさんが遊んでくれる。」 幼い言葉のはずなのに、まるで伽理紗の心の奥を見透かすようで、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。 何か言い返そうとしたが、伽理紗はただ微笑んで言った。 「やっぱり、相馬おじさんが一番なんだ。」 「ママ、やきもちやかないでね!」 伽理紗は弁当箱の蓋を開けた。 箸を手に取ったものの、動きはどこか上の空だった。 脳裏から離れないのは、今朝の未遂に終わったセックス。男のシャツを最後まで脱がせられなかった、その未完の感触――。 「……女の子、病院に運ばれてそのまま……」 隣で明音が、またぶつぶつとつぶやいている。 ――あのキッチンでのセックス。あれほど美しい光景が、他にあるだろうか。 「こんな母親が、あんな男と付き合うなんて……」 明音の声が遠ざかるにつれ、脳内の男の輪郭がぼやけはじめる。 その代わりに、もっと逞しい、より野性的な身体が浮かび上がってきた。 「どうして止めなかったの……」 その胸は岩のように硬く盛り上がり、伽理紗は思わず手を伸ばして掴んでいた。 火照った熱の感触の中で、彼女の全身は、とろけるように沈んでいく――。 引き締まった肉体の奥底から、火山のような激情が噴き上がった。 ぼんやりと妄想に沈んでいた伽理紗の目の前に、突然、明音の顔がぐいっと迫ってきた。 「先輩、先輩……このあいだ先輩がチラ見してたイケメン、今、うしろにいるよ……!」 「えっ?」 伽理紗が振り返るよりも早く、日焼けした精悍なシルエットが、彼女たちの目の前にすっと現れた。 「ちょっと混ぜてもらってもいいっすか?」 まさか——あのとき目にした、鼻筋の通った彫りの深い目元。 短く刈り込まれた髪の下からのぞく腕は、半袖に包まれながらもしなやかに伸び、視線を自然と奪っていく。 思っていたほど大柄ではない。 むしろ、全体の均整があまりに整っているせいで、脚は長く、腰は引き締まり、実際以上にすらりとした印象を与えていた。 「は? 誰よあんた、ダメに決まって――」 「どうぞ、新海くん。」明音が言い切る前に、伽理紗がすっと受け入れた。 「えっ、もうそんな仲……?」明音は目をまんまるに見開いた。 「ありがとうございます。」新海は手にした弁当を置いて腰を下ろし、にこやかに明音へ頭を下げた。 「明音さん、プロダクト部の新海淵です。よろしくお願いします。」 「わ、わたし……えっ、先輩!?」 明音が混乱したように声を上げるのを見て、伽理紗は思わず声を上げて笑った。 「このあいだ、特集テンプレートの件でちょっとやりとりがあったの。」 その時が、初めての対面だった。 業務上のやりとりにすぎないはずなのに、新海は真正面から目を合わせてくれて——しかも、その視線には、わずかに羞じらいが滲んでいた。 男の人って、いくつになっても、こうして子どもみたいな顔をするんだろうか。 肌は陽光を吸い込んだように艶やかで、まるで溶けかけのチョコレートのようだった。 ——やだ、どうして思わず唾を飲み込んでしまったんだろう。 おいしそう。 けれどそれは、あくまでチョコレートボールのような、一粒菓子。 指先でつまんで楽しむだけの、ほんのひとときの甘さ。 若いって、それだけでキラキラしてる。 ……でも、きっとそれだけ。 「伽理紗先輩から聞きましたよ。明音さんって編集部の『元気印』なんですって?いやぁ、噂に違わぬお方で。」 「はあ? いちいちうるさい!」明音が睨むようにして返す。 気がつくと、朝の熱がそのまま伽理紗の脳裏で再生されていた。 未遂に終わったあの時間が、今も静かに続いている。 そう、この三人で向かい合って弁当を食べている、この場でさえ。 (……私って、ほんとバカみたい。) ——もう、どこにも布はなかった。 濃く甘いチョコレートソースが、ぽたり、ぽたりと男の唇に滴り落ちる。 鎖骨へ、引き締まった腹へ。とろけるように肌を伝い、腹筋の谷をなぞりながら、やがて脚のつけ根へと滑り込んでいく。 艶めいた香りに包まれた肉体は、まるで生きたスイーツ。 その光景は、見るだけで唾が滲むほどにおいしそうだった。 舌で、味わってみたい。 ひと口——いや、全部。ぜんぶ、舐め尽くしたい。 その肌が、ゆっくりと褐色に変わっていく。 焼けたような艶を帯び、胸から腹筋、太腿へと影が深まる。 そして―― 高く通った鼻梁、くっきりとした目元、精悍で褐色の男の躯へと――。 彼は、黙ってこちらを見つめながら、なにかを語りかけていた。 「ところで、編集部って今日は忙しいんですか? 僕、今日は車で来てるんで……伽理紗先輩、もしよければ送りますよ。」 「ちょ、ちょっと! いきなり何その展開!? 前置きなしに距離詰めすぎでしょ!」 思わず口を挟んだ明音のツッコミに、伽理紗の瞳には、一瞬だけ迷いの色が差した。 ——チョコレート、ひと口くらいなら、いいんじゃない? ……でも、そういうのは後を引くから。 所詮は、ひと粒のおやつ。 そう思っていた。 だけど、たとえおやつだとしても——その甘さに抗える人が、いったいどれほどいるだろう。 たまたま食べなかったからといって、棚に残るとは限らない。 誰かが手を伸ばせば、あっという間に売れてしまう。 しかも、この男は——よりにもよって、「限定モノ」なのだから。 ……今日じゃない。たぶん、まだ「デザートの日」じゃない。 けれど、もしその時が来て、まだ誰のものにもなっていなかったら——。 そのときは、迷わずいただこう。 遠慮なんて、一欠片もなしに。 「新海くん、ごめんね。娘を迎えに行かないといけなくて。」 「伽理紗先輩って、娘さんがいたんですね?」 「ふふ、編集部じゃ別に隠してないよ。」 「新海くん、下調べ甘すぎ〜!」明音がすかさずツッコミを入れる。 「いや、でも……ちょっと聞いたことが……」新海は口を濁しながら視線を逸らした。 「大丈夫だよ。結婚してないってことも、別に秘密じゃないし。」 「そっか……ありがとうございます。あの、シングルマザーって……やっぱり大変ですよね?」 「ちょっと、今の顔なに? 女一人じゃ子ども育てられないとでも思った?」明音がむっとした表情で言い返す。「これでも、うちの伽理紗先輩なんだから!」 「もう、明音ったら……」伽理紗は笑いながら、彼女の口をつまんで軽くひねった。「でもね、まあ実際、大変なことも多いよ。だけど編集部のみんなのおかげで、なんとか毎日送り迎えもできてるし……ダメな母親には、ならずに済んでる、かな。」 「えへへ~、もっと褒めていいよ?」明音が伽理紗の顔ににじり寄る。 「はいはい、よくできました。」 そんなやりとりの最中、明音が急に新海に顔を向けて声を上げた。 「ねえねえ、新海くんって……日焼けサロンとか行ってるの?」 不意打ちの質問に、新海は目をぱちくりさせつつも、すぐに笑顔を返した。 「いやいや、違う違う。湘南生まれで、サーフィンばっかしてるからさ……気づいたらこんがり、って感じ?」 「そっか……だからか……」明音は頬を赤らめながら、ふいっと視線を逸らした。 「え、なに?」 「ほら、どうせ『お尻がかっこいい』って言いたかったんでしょ?」伽理紗が真顔でさらっと言う。 「え、ええっ……あ、うん……それは……まぁ、唯一自信あるパーツかも、です……」 「ちょ、ちょっと先輩ぃ!?!」 * * * * * 伽理紗は、あの男に会いに行く。 彼は誰なのか。二人の間には、どんな物語が眠っているのか。 かつてその身体を、彼女はいかに味わい、支配してきたのか―― 蘇る記憶と、これから訪れる邂逅が重なり合う。 連載進行中、毎週金曜更新予定。 すぐに全話を読みたい方は、有料配信ページをご利用ください。 詳細を知れるブログのリンクは、説明欄の下部にあります。 https://ci-en.dlsite.com/creator/30033/article/1575210

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