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第3話 純粋な男、純粋じゃない夜
「ミナ、早く〜」
男が伽理紗のそばに歩み寄り、「どうしたの?」と声をかけた。
けれど伽理紗は彼に目もくれず、黙々と食卓に食器を並べていた。
「ほら、早く着替えて顔洗って。相馬おじさんと約束してる時間、もうすぐだよ」
「……え?」
手伝おうとしていた男の動きが、そこでピタリと止まった。
驚いたのか、戸惑ったのか、彼自身も理由はうまく言えないのだろう。ただ、その場に立ち尽くした。
「……あの人に、会いに行くんだ」
その時ようやく、伽理紗は顔を上げ、彼をまっすぐに見つめた。
今日の彼は、まるで別人のようだった。
シャツは消え、胸元の大きく開いたタンクトップに、体へぴたりと張りつくショートパンツ。
——ジムで初めて見た頃の相馬を思わせる姿。
盛り上がった胸筋の谷間が、これでもかと存在を主張し、細いストラップの下からは、色づいた乳首がちらりと覗いている。
けれど伽理紗は、その艶めかしい光景に見惚れる余裕すらなかった。
彼の表情に、かすかな寂しさが宿っていることに気づいたからだ。
思わず近づき、脇から腕を回し、その背中をしっかりと抱きしめた。
「うん、ミナと約束したの。今日は相馬に会いに行くって」
「……今日は、そばにいてくれないの?」
「平気よ。それに、彼に会うのも、今回が初めてじゃないんだし」
「でも……なんでそんなに急ぐの?」
伽理紗はふっと笑った。
「別に、急いでるわけじゃないよ。ただ、ちゃんと時間決めてたからね」
そう言って、彼の俯いた顔を両手で包み、軽く唇を重ねた。
「あなたが何を気にしてるか、ちゃんとわかってるよ。でも大丈夫。私のこと、誰よりもわかってくれてるでしょ?」
彼はその言葉に応えるように彼女を強く抱きしめ、キスしようとする。
だが伽理紗はくすっと笑いながら、その手をすり抜け、ちらりと階段の方へ視線を向けた。
「……ミナに見られたら、どうするの?」
そのとき、ミナが小さなリュックを背負って、ぱたぱたと階段を降りてきた。
「ママ〜、行こー!」
「相馬おじさんに会うのはいいけど、その前にごはんでしょ?」
「えぇ〜、やだ〜〜」
「ほらっ、は・や・く・ご・は・ん!」
しぶしぶリュックを下ろしたミナは、むすっとした顔で椅子によじ登り、口をとがらせながら、もぞもぞと食べ始めた。
「ごはん食べないと、相馬おじさんが心配しちゃうよ?」
伽理紗はミナのふくらんだ頬を軽くつまみながら、くすっと笑った。
「それにしても、なんでリュックなんて背負ってるの?」
「ミナね、幼稚園で描いた絵があるの。相馬おじさんにプレゼントするの!」
「えっ、どんな絵?ママ、そんな話聞いてないけど?」
「それはね、ミナと相馬おじさんの──ひ・み・つ!」
「え〜っ?ママにもナイショなの?」
「だ・め・〜!」
ミナがマネして言い返してくる調子に、伽理紗は思わず吹き出した。
「え〜、じゃあ、ママのぶんはあるの?」
「ミナ、いーっぱいママにあげたのにね?ママがぜ〜んっぜん大事にしてくれなかったじゃ〜ん!」
「そんなことないよ〜。ママ、ちゃ〜んと、ぜ〜んぶ大事にしまってあるもんっ?」
食べ終えると、ミナは勢いよく玄関から飛び出していった。
「ちょっと、走らないで〜!」
伽理紗が後を追い、戸を閉めかけたそのとき——。
部屋の中に、ぽつんと立ち尽くす男の姿が目に入った。
静寂。
彼はただ、伽理紗をじっと見つめている。
ふたりの視線が数秒間絡み合ったあと、男は黙ってタンクトップの裾を握り、ゆっくりと頭の上へと脱ぎ上げた。
そして無言のまま、ショートパンツの端にも手をかける。
その瞬間——伽理紗は、音もなく鍵をかけた。
遠くに、たくましい体つきの男の姿がゆっくりと近づいてきた。
「相馬おじさん!」
ミナは待ちきれない様子で駆け寄っていく。
相馬がミナを高く持ち上げるその光景を、伽理紗は黙って見つめていた。
その表情には、喜びが滲んでいた。
でも、まったく嫉妬がないかといえば――そんなことは、きっとない。
ひとりで子どもを育てるということが、どれほど大変かなんて、他人にはわからない。
それでもミナは、相馬という「仮のお父さん」に、あれほどまでに懐いている。
そう思うと、胸の奥が、ほんの少しだけ苦しくなった。
……やっぱり、母親だけじゃ、足りないのかな。
でも――誰が、そんなことを引き受けてくれるだろう?
今の世の中で、他人の子どもを受け入れてくれる人なんて、本当にいるのだろうか?
そして私は、それを誰かに託すことを、本当に納得できるのだろうか?
そんなことを考えているうちに、ミナの手を引いた相馬が近づいてきた。
「リー、行こうか。」
相馬はミナと一緒に紫陽花の茂みを駆け回り、まるで子どものように無邪気だった。
そのたくましい身体がかえって不器用に見えて、どこか滑稽で、伽理紗は思わず笑みをこぼした。
――けれどその笑顔の陰で、ふと脳裏に浮かんだのは、いま家に残してきたあの男の姿だった。
彼の心の引っかかりも、伽理紗には分かっていた。
――そう、彼女はいつだって、相馬のことを思い出してしまうのだ。
理屈でも、感情でも、自分はもう相馬を愛していないと、はっきりと分かっている。
自分をごまかしているわけでもない。
それでも――相馬という男は、やっぱり自分にとって、どこか特別な存在だった。
忘れたくても、どうしても忘れられない。
そして、無意識のうちに、これまで出会った男たちと彼を比べてしまうのだ。
――考えてみれば、少し滑稽な話かもしれない。
だって、相馬は、自分の「初恋」だったのだから。
坊主頭で過ごした学生時代、恋なんて、まるで縁がなかった。
そして彼は、自分にとって、唯一の恋人でもあった。
そういう意味では、彼は――たった一人、自分を深く傷つけた男でもある。
もちろん、それは彼に悪気があったわけじゃない。
むしろ、あの人自身が、自分の気持ちにまだ気づいていなかったのだ。
相馬の肉体に強く惹かれていたのは、否定しようのない事実だ。
あの頃の私は、若さに満ちていて、仕事も順調、編集部ではまさに中核的な存在だった。
誰よりも輝いていて、「これが私の人生だ」と心から思えるほど、上昇気流の真っただ中にいた。
オフにはランニングにピラティス、そしてジム通い。
それさえやってれば、自分は強くて自立した女なんだって、どこかで思ってた。
そんなある日、初めてジムで相馬を見かけた。
タンクトップのわずかな布地では、とても隠しきれない。
山のように隆起した筋肉が、まるで「見せつけるために存在している」とでも言わんばかりに、そこにあった。
——いっそ脱いでしまえばいいのに。着てる意味、ある?
その時の私は、本気でそう思った。
肉食系。
今思えば、あれは確かに、私自身のことだったのかもしれない。
それまで、相馬のように鍛え抜かれた男を目にしたことがなかった。
恵まれた体躯に、誇らしげに膨らむ筋肉。
それでいて、全体のバランスは驚くほど整い、プロポーションは均整を極めていた。
まるで古代ギリシャの彫像。
美しく、力強く、そして崇高で——。
彼はまさに、生きた「古典的男性美」そのものだった。
——こんな男こそ、落とす価値がある。
そう思った私は、迷わず彼の前に立った。
「ねえ、私のトレーナーになってくれない?」
「えっ……?」
実際、彼は本物のジムトレーナーだった。
けれど、受付も通さず、いきなりそんなことを言い出す女なんて、そうそういない。
案の定、彼は固まって、どう反応していいのか分からず困っていた。
——その戸惑った顔が、たまらなく好きだった。
精悍な顔立ち、鍛え上げた肉体。
男らしさの塊のような見た目と、純粋で不器用な中身。
そのギャップが、何よりも私を夢中にさせた。
そして今の相馬も、あの頃と変わらない——。
迷子のような目をしていた。
ミナとはしゃぐ無邪気な笑顔の奥に、私の視線が触れた瞬間だけ、ふっと影が差す。
あの、戸惑ったようなまなざし――あの頃とまったく同じだった。
――何を思い悩んでいるの?
私の想像している通りのこと?
それとも……もう、自分の中の「それ」に、気づいてしまったの?
「お前、髭はこんなに生やしてるのに、中身は変わらないのね」
「うるせぇよ」
「ふふ、なに拗ねてるの? あなたって不思議なのよね。強く見えるのに、誰かに寄りかかるのが好きでしょう?」
「そんなことないって……」
「でも、それでいいのよ。そういう相馬が、相馬なんだから」
そのとき、ミナが駆け寄ってきて、伽理紗のスカートの裾をちょんちょんと引っ張った。
「ママ、あじさいって、けっきょく何色なの?」
伽理紗はしゃがみ込み、ミナの髪をそっと撫でながら、静かに答えた。
「何色でも、その花にとって一番素直な色なんじゃないかな」
そう言って、ふと顔を上げて相馬を見ると、
何かが胸に引っかかったのか、彼は一瞬ぽかんとした顔を浮かべた。
その様子に気づいたミナが、唇をとがらせて言う。
「ママ、また相馬おじさんのこと怒ったでしょ?」
「怒ってないよ〜……」
伽理紗が言い終わるより早く、ミナは相馬の手をぎゅっと握りしめた。
「相馬おじさん、行こ! あそぼ!」
相馬という男は、本当に、どうしようもないほど「純粋」な人だ。
そう、「純粋」——少なくとも私にとっては、それは確かに褒め言葉だった。
けれど、他人の目にはどう映るだろう。
ただの子どもっぽさかもしれないし、鈍感、あるいはバカにさえ見えるかもしれない。
こんな時代に、まだこんな男がいるなんて。
最初は、私だって信じられなかった。
むしろ、羊の皮をかぶったオオカミなんじゃないかと、疑ったくらいだ。
……けれど、付き合ってみればすぐにわかる。
彼は本当に、ただただ「抜けている」だけの人だった。
相馬との初めての夜を、私は今でもはっきり覚えている。
あの日、彼が誘ってきたのは——おでんだった。
デートでおでん? 普通なら、ちょっと考えられないでしょう。
でも相馬は、真剣な顔でこう言った。
「俺さ、ああいう小さな居酒屋で、おでんをつまみにビールをちびちび飲むのが一番好きなんだ。
くたくたに煮込まれた優しい味が、たまらなくてさ。
冬なら、ぬる燗と一緒に食べると、心まであったまるんだよ。
君とそんな時間を過ごせたら——きっと、新しい世界が広がる気がする」
……いやいや、それ、焼き鳥でも成立するんじゃない?
正直、そう思った。
でもね。
あの古臭くて、ちょっとクサいくらいの台詞が、なぜか胸の奥をやわらかく叩いたんだ。
夜になって——。
私が彼の手を自分の胸へ導いたとき、相馬は驚いたように目を逸らした。
まるで、私を直視することができないかのように。
けれど、遠慮する気なんてさらさらなかった。
私は代わりに、彼の大胸筋へと手を伸ばし、しっかりと掴んだ。
——あの感触は唯一無二。言葉では言い表せないほどの手応えだった。
その瞬間、相馬は思わず声を漏らした。
低く、艶やかで、男なのに、どこか甘く濡れたような響き。
「……ん、ぁっ……っふ……」
微かに震えるその喘ぎは、自分でも抑えきれない快楽に翻弄されているようだった。
私は驚いた。
ただ胸を揉まれただけで、こんな声を出すなんて。
さらに手のひらを滑らせ、指先で筋肉の起伏をなぞる。
「っ、く……んぁっ、あ……やっ、だめ……っ」
相馬は堪えきれず、大きな身体を小さく震わせ、腰をくねらせた。
その様子はまるで、自分の身体に驚く処女のようで、見ているだけで背筋がゾクゾクした。
男らしさの塊のようなその体から、あられもない声が零れるたび、
私の中で何かが、燃え上がっていった。
——そして私は、相馬の肉体を、貪るように、試すように、味わい始めた。
彼の吐息がもれるたび、その熱と揺れが皮膚越しに伝わり、私の興奮も止まらなくなっていった。
それにしても、彼の——あの尻ともも。
まさに、その様子に違わぬ破壊力だった。
一度揺れるごとに、私の奥の、もっとも秘められ、もっとも脆く、もっとも敏感な部分を、容赦なく、しかも迷いなく、正確に打ち抜いてくる。
まるで彼自身が「神器」であるかのように。
私という器の奥底に泉を穿ち、そこから絶え間なく快楽を湧き立たせ——
存在そのものを、内側から静かに満たしていくようだった。
あれは、私の記憶のなかでも、いちばん激しく、いちばん満ち足りたセックスだったのかもしれない。
——たとえ、それが、すれ違ったままの愛が交差した、一度きりの行為だったとしても。
でももう、それは……遠い昔のこと。
今の彼は、ミナとまるで本当の親子のように、何の隔たりもなく無邪気に遊んでいる。
それを見つめる私は、逆にミナとのあいだに、どこか越えられない境界を感じてしまう。
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
……もし彼が、本当にミナの父親だったら。
そうだったら、どんなに良かっただろう。
――でも、現実は違う。
「ミナ、さっき何の絵をあなたにあげたの?」
「見せちゃダメって言われてるんだ。」
「ふーん、二人で内緒ごと?……まあいいけど。でも、相馬、今日は本当にありがとう。」
「リー、何言ってるのさ。分かってるだろ、俺は本気でミナの――」
「またそれ?」伽理紗は言葉を遮って笑った。
「あなたさ、まずは自分の気持ち、ちゃんと整理してからにしなさいよ。……そういうことを言うのは、それからでしょ?」
「俺……」
伽理紗は人差し指で、相馬の胸筋を軽くつついた。
「わあ……前より弾力あるかも?」
くすっと笑って、少し首をかしげる。
「でもね、その中に詰まってるものは、自分にしか見えないんじゃない?」
「またそうやって、俺のことからかうんだから!」
伽理紗がミナを呼ぼうと振り返ったそのとき、
相馬が、いつになく真剣な声で言った。
「リー。君の言いたいこと、ちゃんとわかってるつもりだよ。
君が何を怖がってるのかも、なんとなくだけど、感じてる。
でも、安心して。俺は、謝りたいとか、償いたいとか、そういう気持ちで言ってるんじゃない。
ただ……ひとりの友人として、まっすぐな気持ちで伝えたいんだ。
ミナが俺に懐いてくれてるのは事実だし、君がもし大変なときは、俺を頼ってくれていい。
それに、俺は本当に……ミナのこと……リーのことも、大切に思ってる。
だから――リーも、ひとりで背負いすぎないでほしい。
君が無理をすれば……ミナもきっと、それを感じ取ってしまうから。」
伽理紗は、少しだけ驚いた。
相馬がこんなにも言葉を重ねるのは、珍しいことだった。
でも、それが全部、本音なのだとすぐにわかった。
きっと――あの、ミナからもらった絵が関係しているのだろう。
胸の奥が、熱くなる。
どうしてだろう、目の奥が、少しだけ滲んだ。
何も言えなくて、ただ静かに、うなずいた。
* * * * *
家の中の謎めいた男は、己の衣を引き裂き、裸身のすべてを伽理紗に捧げる。
だが、その献身は彼女の心を繋ぎ止めることができるのか――?
連載進行中、毎週金曜更新予定。
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