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第4話 揉まれる雄っぱい、揺れる決意
カン、カン、カン——。
また、キッチンに金属のぶつかる音が響いた。
変わらずそこにあるのは、その音だけ。
まるで、すべてが元通りになったかのような錯覚さえ覚える。
伽理紗が中へ入ると、彼はすぐに駆け寄ってきた。
身にまとっているのは、まだ昨日のままの服。
——ほんの些細なことかもしれない。
けれど、その何気ない仕草から、彼がどれほど自分の視線を欲しているかが、痛いほど伝わってきた。
「伽理紗……」
男は優しさをたたえた声で彼女の名を呼び、そっと抱き寄せた。
伽理紗は彼の胸に手を伸ばし、厚く盛り上がった雄っぱいをゆっくりと揉みしだく。
程よく張りがあり、むっちりとした弾力が手のひらに心地いい。
それは、かつて相馬にもした仕草――彼女が本能で惹かれてしまう、「男」の身体だった。
男の全身がびくりと震え、くぐもるような吐息が唇から漏れる。
その瞬間、彼は激流のように唇を重ねてきて、その勢いのまま、タンクトップとぴたりと張りついたボトムスを一気に引き裂いた。
伽理紗がその肉体を、思うままに貪れるように。
哀れな衣服たちは床に散らばり、まるで最初からそのために生まれてきたかのように、静かにその役目を終えた――。
そして、しばしの貪り合いが始まった。
身体の温もりと朝の光が溶け合い、ふたりは聖なる光を浴びるまま、ただ静かに、ひとつになっていった。
やがて光は脈打つように揺れ、波となってふたりを包み込む。
内と外が幾度もせめぎ合い、重なり合うたびに、境界は融けて曖昧になっていく。
世界そのものがひとつの震動となって崩れ落ちるように、幾層にも重なる震えののち——。
酔いのような沈みが訪れた。
歓びの余韻が薄れゆき、神の吐息もどこかへと消えて――。
男は、タンクトップの名残さえ映さず、いつしか白いシャツを纏っていた。
先ほどまでの光景が幻影にすぎなかったかのように、その背中は伽理紗の視線を拒むでもなく、ただ静かに日常へと溶け込んでいった。
伽理紗はその背中を見つめながら、胸の奥がざわりと揺れるのを感じた。
「どうして……またそんな格好してるの?」
男は振り返ることなく、穏やかに答える。
「ずっと……伽理紗の好みに合わせてるんだよ。」
「……私の好みなんて、どうしてわかるの?」
一拍の間。
男は静かに言った。
「僕は――君の心そのものだよ。知らないはずがないだろ?」
「こんなにも、文句ひとつ言わずに……私のことを支えてくれて、あなたはいったい、何のためにそんなことしてるの?私は何も返せていないのに……」
「伽理紗……どうしたの?俺、何か悪いことした……?」
男の手がふと止まりかける。
「あなたは、何も悪くない。ただ……あなた自身が、本当に追いかけたいものって、ないの?趣味でも、仕事でも、友達でも……今の生活に、本当に満足してる?」
「なんでそんなこと聞くの?俺は、伽理紗のために専業主夫になるって、心から決めたんだよ。」
「でも……専業主婦でも、主夫でも、どっちにしても『自分』を犠牲にしてるんじゃないかな。」
「えっ……君、もう……俺のこと、いらないの……?」
男の手がぴたりと止まり、その大きな体が、今はなぜか――小さく、頼りなく見えた。
伽理紗は彼の寂しげな顔を見つめ、胸の奥が、きゅっと締めつけられるように痛んだ。
哀れにも思えたし、どこか、切なさが混じっていた。
「……寂しくない?たまには、苦しくなったりしない?我慢してるって、自分で感じることも……あるでしょ?いつも黙ってヤキモチ焼いてるの、私、ちゃんと気づいてたよ。」
伽理紗は一歩近づき、彼の整った、そしてどこまでも無垢なその顔に、手を伸ばした。
「私たちって、本来、ひとりひとりが……ちゃんと『自分』でいるべきなんじゃないかな。」
「サー……君が僕を思ってくれてるのは、分かってる。でも……それって、本当に『君の気持ち』なの?前の君なら、きっと、こんな言い方はしなかった。……なんとなく分かるんだ。たぶん、もう僕のことを、前ほど必要としてないんだなって。」
彼は眉をわずかに下げて、どこか哀しみに満ちた眼差しで、まるで助けを求めるように伽理紗を見つめていた。
「違うの……ただ、毎日あなたを見ているうちに、私……」
「君が本当に僕を必要としていたなら、きっと、そんなふうには話さないよ。『君のためを思って』とか、『君のことが気になってる』とか……そういうセリフってさ、別れ話のときによく出てくるじゃない?」
「そんなふうに言わないで……そんなあなたのこと、嫌いになれるわけない。何も求めず、黙って支えてくれて……そんな人を、どうして好きにならずにいられるの?でも、それでも……それを、どうして心から受け取れるっていうの……?」
「サー……今の君は、きっと誰かにそばにいてほしいんだよね?だけど……『自立』なんて言い出したら……俺たちはもう、お互いを必要としなくなるのかな……って。そんな未来を、想像してみたことがあるんだ。伽理紗……そのときになったら、俺たちはきっと、お互いにとって――どうでもいい存在になってしまうんじゃないかって。……怖いんだ、本当に、すごく……」
そのとき、ふわりと焦げた匂いが漂ってきた。
男は慌てて火を止め、がっかりした表情で焦げた卵を捨てようとする。
けれど――伽理紗はその手首を掴んだ。
焦げ色の卵を見つめながら、肌の温もりを宿した朝の記憶と、フライパンの前で慌ただしく動いていた後ろ姿とが、頭の中で交互に浮かんでは消えていく。
心がざわつく。
「いいの……焦げてるくらい、好きだよ。」
――本当に、私はもう彼を必要としていないのだろうか?
私が気にしているのは、彼のこと?それとも、自分の中にある罪悪感?
男女がお互いに、自分の人生を歩み始めたとき――ふたりの「交差点」は、いったいどこにあるのだろうか。
「自分らしさ」と「自分勝手」、その境界線は――いったい、どこで引かれるのだろう。
伽理紗は、答えのない思考の渦へと沈んでいった。
一口のごはんを、まるで百回も噛んだかのようにして、ようやく飲み込んだ。
「先輩、そのごはんに……なんか恨みでもあるんですか?」
明音が身を乗り出して、顔を覗き込んでくる。
「……」伽理紗は上の空で、返事もしない。
「絶対なんかありましたね!もしかして、あの新……」
明音の目がくるくると動く。
伽理紗は彼女をじろりと睨みつけ、わざとらしく顎に手を当てて言った。
「彼?まあ、正直……悪くないわよね。」
「えっ!ほんとに……?」
明音は目をきらきらさせて、わくわくした声で言った。
伽理紗は明音の頭をポンと軽く叩いた。
「何でも知ってる風に言わないの。」
「え、ほんとに? ほんとに……?」
「最近、何回か誘われたのは確かだけどね……」
思わず、明音は口を手で覆う。
伽理紗はふっと微笑んで言った。
「でもね、私の元気が出ない理由は、彼じゃないの。」
「それって……?」
「さっき、上司と話してきたんだけどね。昇進の話、たぶんダメになりそう。会社としては、外部からマネージャーを入れる方向で動いてるみたい。」
「えっ? そんなのひどすぎます!先輩の実力なんて、みんなわかってるのに!」
「そんなふうに言わないでよ。……今の私の状態じゃ、会社も簡単には任せられないでしょ。」
「でも……もう一回、上と話してみるとか……」
「私だって、ちゃんと掛け合ったわよ。」
「それでもあんまりです!本来なら、先輩みたいにひとりで子育てしてる人こそ、もっと配慮されるべきじゃないですか!」
「……もう十分、配慮してもらってるよ。みんなが協力してくれるからこそ、仕事とミナを両立できてる。感謝してるし、これ以上会社にわがまま言うつもりはないの。」
「先輩……」
「なによ、私より焦ってるんじゃない?ミナを産むって決めたとき、どんな嵐が来ても受け止める覚悟は、もうできてるつもりだったの。……でもね、想像以上に、どうにもならない時って、あるものなのね。」
「え~っ、先輩にもそんな悩みがあったなんて……!ずっと、先輩のこと、憧れの存在だと思ってましたよ!」
「私だって、神様じゃないわよ。」伽理紗は肩をすくめながら、少し茶化すように言った。「昔はね、自分はもっとサバサバした女になれるって、本気で思ってたの。」
「先輩、落ち込んでちゃダメですよ!」明音は突然、目をくるくるさせながら、いたずらっぽく言った。「助っ人、探してみるってのはどうです?」
「助っ人……?」伽理紗は笑いを堪えきれず、ふっと息を吐いた。「うまいこと言うわね。そんな『助け』、誰がやりたがるってのよ。」
「目の前にいるじゃないですか、一人……」
「ふふ、うまくいけばいいけどね。」
「だって、先輩、けっこう気に入ってるでしょ?試してみなきゃ、わかんないですよ?」
「……まだ若すぎるわよ、あの子。」
「若いって、むしろ良くないですか?」
明音はにこにこしながら、けしかけるように言った。
「若いって、それ自体はいいことよ。でも、私にはそれなりの条件があるの。自分だけじゃない、ミナのこともちゃんと考えなきゃいけないから。彼がそれに応えられるかどうか、ちゃんと見極めないとね。」
「な~んだ、先輩の悩みって、ただの理想高すぎ問題じゃないですか!」明音はあきれたように言った。
伽理紗は苦笑しながら答えた。
「そうね、言われてみれば、私の勝手な思い込みかも。彼みたいに若い子には、選択肢がたくさんあるもの。子どもを抱えた女なんて、どれだけ自信あっても、『最適解』にはなれないわよ。それに今どき、みんな利己的よ。一時の感情なんて、現実には勝てない。せいぜい、身体に対する執着くらいじゃない?『子育てを手伝ってくれる男』なんて、夢物語もいいとこよ。」
「でも、世の中そんなに打算的な人ばっかりじゃないでしょ!」
「結婚ってバーゲンセールじゃないんだから。『ひとり買ったら子どももついてきます』なんて、誰が得するのよ。今どき、結婚率は下がる一方だし、恋愛すら面倒だっていう人も山ほどいる。そんな時代に、他人の子どもごと受け入れようなんて思う人、どれだけいると思う?」
そのとき、明音の顔がぱっと輝き、興奮気味に入口の方へ手を振りはじめた。
「こっちこっち! 新海くん、こっちだよー!」
伽理紗は驚いて小さく声を上げた。
「ちょっと、あなたね……」
「先輩、ちょうどご飯中でした?」新海は明るく爽やかな笑顔でそう言いながら、伽理紗のほうを見て、少しだけはにかんだ。
「さあ、先輩。聞きたいことあるでしょ?今こそ『見極めタイム』ですよ!」
明音はいたずらっぽく目を輝かせている。
「えっ?」
新海はきょとんとした顔で周りを見渡した。
「気にしないで。……それにしても、新海くん、また日焼けした?」
「昨日、日曜だったんで、海に行ってきたんです。」
伽理紗は、彼の身体に宿る生命力を目の当たりにして、思わずごくりと喉を鳴らした。
認めざるを得ない――彼の体は、自分にとって紛れもなく誘惑だった。
波間を駆け抜ける、サーフパンツ一枚の姿。
それを思い描くだけで、頭の奥に熱が広がっていく。
全身にみなぎるエネルギー。
けれど、人との接し方にはまだ若さゆえの拙さが残っている。
だからこそ、その未完成さが、むしろ彼をいっそう魅力的にしていた。
もし、朝の男のように、いま彼の服を引き裂いてしまったなら――。
抑え込んでいた野性が、こちらを振り向くのだろうか。
その美しい身体は、どんなふうに私の視線を受け止めるのだろうか。
――私は、きっとおかしくなっている。
彼はまだ、どこかあどけなさを残す男の子。
「父親になる」などという覚悟は、きっとまだ――持てていない。
「ねえ、ねえ、早く言ってよ〜。新海くんの理想のタイプって、どんな人?」
明音が我慢できずに茶々を入れる。
「えっ、え? ……急に……それ……」
新海はきょとんとした表情で目を瞬かせたが、「うーん……」とほんの一瞬だけ考え、伽理紗の方を見て、にこっと口元を緩めた。
「……俺、なんか、先輩みたいな人に……弱いっていうか……気になっちゃうんです。」
「きゃーっ!それって、ほぼ告白じゃん!」
明音はニヤニヤしながら声を弾ませた。
伽理紗は、あえて目をそらさず、挑むように言った。
「なかなか大胆ね……ふふ。でもね、世間には、『子連れ女に引っかかった』なんて言う人、いっぱいいるわよ?」
「それが何か問題ですか?僕は自分の意志で決めてるんです。」
「私の方が若い男にたかってるって言われたら?」
「先輩ほどの人が、そんな噂気にします?」
「私が怖いのはね、噂じゃなくて……人の『心』なの。自分の気持ちも、相手の気持ちも。」
「気持ちって……」
「今の時代、みんな自分が何を求めてるか、ちゃんと分かってる。目的がはっきりしすぎてて、余白がないの。ただの女としてじゃなくて、母親として――私にも、いろんな打算がある。……でも、新海くんは、そういう私を見て、怖くならないの?」
「……でもその『打算』って、本当にそんなに悪いことなんですか?」
「例えば――私が、子育てがつらいからって理由だけで一緒にいたいと思ってたら? あるいは……ただミナに『父親』が必要だからってだけだったら? それって、あなたを『都合のいい存在』として見てるだけよね。」伽理紗は、どこか諦めたような、そして少しだけ皮肉の混じった笑みを浮かべていた。
「分かりますよ、先輩が今言ってることって……」
新海は、少しうつむきながら、ぽりぽりと頭をかいた。
普段は無邪気に開いていた額に、珍しく、深く皺が寄る。
「――要するに、やんわりと断ってるってことですよね。俺のこと、信じてないって……正面から言いたくないから、自分のせいにしてるだけで。」
その言葉に、伽理紗はふと意識が遠のいたように感じた。
今朝、男と交わした会話が胸をよぎる。
――私は本当に、相手のためを思ってる?それとも、ただ罪悪感から逃げてるだけ……?
「はは……でも、別に気にしてませんよ。だって、先輩と知り合ってから、まだそんなに時間が経ってないし。これからもっと……いろいろ知っていけるでしょ?」
新海は一瞬、視線を落としたまま沈黙した。けれどすぐに顔を上げ、雲の切れ間から陽が差すように、目が細くなった。
「上手く言えないけど……先輩って、ちょっと職業病なんだと思うんです。ずっとニュースの仕事をしてきたから、社会の流れとか、人の心の機微とか、いろんなことを深く考えすぎてしまうというか……自分に『道徳』を背負わせすぎてる気がして。誰も傷つけたくないし、自分も傷つきたくない。だから……きっと、すごく慎重なんですよね。」
伽理紗はまた思わず吹き出してしまった。
「……で、結局何が言いたいの? まさか私を救いに来たなんて言い出すんじゃないでしょうね?」
新海はちょうどご飯を飲み込む途中で、危うくむせかけた。
図星を突かれたように、照れ笑いを浮かべながら頭をかいた。
「……先輩……俺が言いたいのはですね、感情って、何かしらの動機を含んでるものでしょ?でも、だからって、動機があるから全部が嘘とか、利用とか、そう思わないでほしいんです。もっとこう……『目の前の相手』を、もう少し信じてみてもいいんじゃないかなって。」
「でもね、社会現象って、結局そういう『目の前の一人ひとり』が積み重なってるんじゃない?」
「うう……先輩……」
新海はうなだれるようにして苦笑いする。
明音はというと、右を見て、左を見て、何も言わずに静かに『観客モード』に入っていた。
* * * * *
新海――若く、みなぎる肉体がついに姿を現す。
その熱と躍動は、伽理紗の奥深くに眠る欲望を呼び覚ますのか。
ふたりの間に生まれる火花、その行き先は――。
連載進行中、毎週金曜更新予定。
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