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第5話 涙の季節、肌の匂い
しとしと、ぽつりぽつり――。
ついに、梅雨入りした。
毎年のように決まって訪れるこの季節は、まるで何かとの約束を果たすかのように、律儀にやって来る。
もし空にも「悲しみ」という感情があるのなら、この雨はきっと「自由を奪われた涙」。
むしろ、義務として流される涙。
泣きたいときに泣けず、定められた時期にしか流せない――そんな涙は、どこか気の毒に思える。
そんなことを思った自分がおかしくて、伽理紗はふっと笑った。
空のことを哀れんでどうするの、私。
厚い雲が空をまるごと呑み込み、陽の気配はすでに消え、朝の光さえも届かない。
キッチンの音もまた、雨に溶けていく。
じゅうじゅうと油の跳ねる音すら、いつの間にか奪われていた。
——まるで世界が薄い水膜の向こうにあるかのようだった。
色も、匂いも、手触りさえも、次第に遠ざかっていく。
朝の台所が、どこか寂しげに沈んで見える。
湿気が、静かに忍び寄る。
目に見えない糸のように空気の中に張りめぐらされ、蜘蛛の巣のように繊細で、けれど逃れられない。
心の奥に潜む小さなざわめきまでも、そっと絡め取っていった。
男が背後から伽理紗の肩に手を添えた。
「……どうしたの?」
伽理紗は何も答えず、ただコーヒーを口に運びながら、窓の外の雨に目を奪われていた。
「また……相馬のことを――」
「違うわ」
伽理紗はカップを静かに置き、彼の言葉を遮った。
「後輩に映画、誘われたの。ただそれだけ。……なんだか、懐かしいなって思っただけ」
そして少しだけ、遠くを見つめながら続けた。
「でも……ミナを置いてまで行くこと、ちょっと……」
そのひとことに、男の表情がかすかに翳る。
――新しい男、か。
彼はそれ以上何も言わず、しばらく佇んでから、静かに踵を返した。
――伽理紗は、その背中に気づかなかった。
ミナが洗面を終えて、ダイニングにやって来た。
「ママ、雨きらいなの〜?」
「どうしたの、ミナ?」
「ママ、げんきなさそうだったから……」
「ミナは、雨好き?」
「うん!ミナね、雨の日におともだちと水たまりで遊ぶの、いちばんすき!」
「ありゃ、ママ、ミナの名前つけ間違えたかも〜」
「えっ、なにそれ?」
「ミナ、自分の名前の意味、知ってる?」
「ううん、しらな〜い」
「『ミナヅキ』ってね、水がない月って書くの。水無月っていうのよ」
「え〜、ママのいじわる〜……そんなに梅雨がきらいなの?」
「そうでもないよ。ただ、梅雨になるとね……ママ、つい相馬おじさんのこと思い出しちゃうの」
「ママ、相馬おじさんのこと、好きだったの?」
「どうかなあ……」伽理紗はふと天井を見上げ、ぽつりと呟いた。
「昔は、たしかに大好きだった。でも……今は、好きとか嫌いとか、あんまり意味ない気がするな」
ミナは首をかしげて、じっとママの目を見つめた。
「昔好きだったなら、なんで相馬おじさんをミナのパパにしなかったの?」
「……ミナにはまだちょっとむずかしい話かもね。ママはね、相馬おじさんに、ホントは背負わなくていい責任を背負わせたくなかったの」
「でも、ママだってミナのパパじゃないでしょ? なんでママだけが、ふたり分の責任をぜんぶ背負うの?」
伽理紗は、驚いたようにミナの顔を見つめた。
「……そんなこと、どこで覚えたの?」
「みんな言ってるよ。ママって、がんばりすぎだって」
「……そうか。偉い子ね、ミナ。」
「でもね、ミナのパパを『失くしちゃった』のは、ママなの。
ママが、自分でそういう選択をしたの。
だから、それはママひとりで背負わなきゃいけないことなのよ」
ミナは口をとがらせた。
「……パパって、なくしちゃうものなの?」
「大丈夫。いつかきっと、ママがミナのパパを見つけてあげるからね」
「やだ!ママ、むりしないで。ミナはママがいれば、それでいいよ。
それに、相馬おじさんもいるでしょ?……それだけで、ミナは大丈夫だよ」
弁当のフタを開けた瞬間。
ふんわりと焼かれた厚焼き玉子の、やさしい光を帯びたような黄色が目に飛び込んできた。
失くしたと思っていた朝の光が、ぽつんとここに射し込んできた気がした。
「この男、ほんっと最低!」
いつものように、明音の毒舌が遠慮なく飛んでくる。
ひとくち口に運べば、やわらかな食感がふわっと心に染みていく。
「女の子のプライベート動画をネットに晒すなんて……」
目を閉じてもう一口。
身体がふわっと宙に浮くような気分。
「ほんとさ、なんでいつも女ばっか責められんの?」
――今日の私は、なぜだか、全身の毛穴がひらいていくような心地よさを感じている。
これって、もしかして……期待してるから?
「また来たの? もう、あっち行って! しっしっ!」
明音の追い払いにもまったく動じず、新海はニコニコしながらドカッと腰を下ろした。
「伽理紗先輩〜、いっそミナちゃんも連れて行けばいいじゃないですか? 僕、ミナちゃん、本当に会いたいですよ~」
「大丈夫。もうお願いしてあるの。ミナがよく知ってる人だから、安心してるわ」
「えっ、誰にお願いしたんですか?」
「……ミナのおじさん。」
「怪しい……」
明音の目がすっと細くなる。
「さては、二人きりで、なにか企んでるわね?」
「ただの映画だって……」
「えっ、もうそんな関係に〜!?!?」
「明音さんも、一緒にどうですか? すごく面白い映画ですよ。観たあと、カフェでちょっとおしゃべりでも」
「いやいやいや、ムリムリムリ!映画とか、興味ゼロだし~」
そう言ってから、明音はこそこそと伽理紗の耳元に顔を寄せ、新海を横目でちらり。
「変なビデオとか、撮っちゃダメだからね……?」
新海が吹き出して笑う。
伽理紗は、ニヤニヤしてる明音の頬をつまんで、座席に押し戻した。
「さっきのシーン、やっぱすごかったっすよね……!」
興奮冷めやらぬ声でそう言いながら、新海は伽理紗を自分のアパートに迎え入れた。
だが玄関を上がった途端、伽理紗は彼の身体を台所の作業台へと押し倒していた。
「うわっ――」
よろけて上体を仰け反らせた新海の腰を、伽理紗の腕がしっかりと支える。
――ぱたん。
手からこぼれた紙袋が床に落ちる音が響いた。
「せ、先輩……」
熱を帯びた声を漏らす新海の首筋へ、伽理紗は顔を寄せ、鼻先を押し付けて深く息を吸い込む。
「……ふふ、たまんないな」
こんなシチュエーション、もう何度繰り返しただろう。
少しチープかもしれないけれど。
その瞬間、新海の頬はぱっと赤く染まった。
「せ、先輩、それ……汗だし……」
「ううん、太陽の匂いだよ」
伽理紗は、新海にぎゅっと抱きしめられるのを感じた。
若く、火照ったその身体は小さく震えている。
彼女はそっと手を伸ばし、その頭を抱き寄せた。
坊主頭に、弓のように湾曲した太い眉。
どこか抜けたような愛嬌があり、まるで高校の野球部にいそうな、素朴な少年のようだった。
けれど、その瞳の奥には、欲望と戸惑いがせめぎ合っている。
浅黒い肌は、まるで太陽の光を閉じ込めたかのように輝き、いま、その熱をすべて放出しながら、伽理紗の理性をじわじわと焼き尽くしていく。
――不倫みたいだ。
ふと、そんな言葉が脳裏をかすめる。
けれど、それすらも火種となって、彼女の奥底で炎が広がっていった。
気づけば、四枚の唇がぴたりと重なっていた。
二つの舌は、まるで海に戯れるイルカのように絡み合い、追いかけ合い、波間を遊ぶ。
伽理紗は、自分という存在が、うねり立つ海そのものへと変わっていくのを感じていた。
少年を――いま目の前にいるこの男を、すべて呑み込んでしまいたい。
そんな錯覚にさえとらわれる。
だが、そのいたずら好きな海の精霊は、海水に縛られることなく、自在に泳ぎまわっていた。
相馬やあの男とは違い、新海は、たとえ瞳に恥じらいを宿していても、自ら伽理紗へと向かい、積極的に応えてきた。
いつしか、ふたりの身体は絡み合い、ひとつへと溶けていく。
どちらが先に脱がせたのかさえ覚えていない。
まるで生まれたばかりの赤子のように、何も纏わぬまま――。
指先が、その引き締まった身体をたどる。
触れるたび、ざらりとした感触が残る。
アウトドアで焼かれた日々が刻んだ、陽と風の名残。
その粗さは、不思議と癖になる。何度も撫でずにはいられなかった。
「新海君って、全身ほんとに真っ黒なんだね……」
「え?……あ、あの……先輩……」
一瞬きょとんとした新海だったが、すぐにからかわれたと気づいたのか、耳まで赤くして目を逸らした。
伽理紗はくすりと笑い、その胸元に指を伸ばす。
指先が乳首をつまむと、ふっくらと張りのある粒が応える。
完熟の巨峰のように甘美で、ティラミスに飾られたチェリーのように艶めいていた。
舌先がふれると、甘さが弾ける気がして――ためらう間もなく、口に含んだ。
「せんぱい……」
新海の喉から、若い獣のように荒く甘い吐息が漏れる。
胸を反らせ、両手で作業台の縁をぎゅっと掴む。
腰を軽く乗せ、脚を開いて、伽理紗を受け入れるように身を委ねた。
舌先が乳首をくるくるとなぞるたびに、新海の身体はびくびくと震える。
まるで、もっと強く吸い上げてほしくてたまらないと訴えるかのように。
「っ、あっ……あぁ、せんぱい……っ」
喉の奥から洩れた澄んだ喘ぎ声が、キッチンの壁に反響し、空間いっぱいに甘く広がっていく。
「新海君……ここ、弱いのね」
「せんぱい……あ、あぁ……」
新海は目を閉じ、顔を横に背けた。
その胸は、相馬のように誇らしげに盛り上がっているわけではない。
掌に収めれば、どこか頼りなささえ感じられる。
――なに考えてるのよ、私。
伽理紗は、ふっと笑みをこぼした。
厚くはないが、研ぎ澄まされたライン。
筋肉のひとつひとつが、波を切るように滑らかに動く。
まるで、荒波を縦横無尽に泳ぐ魚のように――しなやかで、自由だった。
伽理紗の手は、しなやかなVラインに沿って滑り落ち、刻み込まれた腹筋をなぞっていく。
その先に待つのは、神器のように鍛え上げられた腿。
岩を砕く波のごとき野性と、緻密に整えられた秩序とが同居していた。
細身に見えていた脚は、いまや想像を裏切るほどの厚みと重みをあらわにし、雄としての存在を誇示している。
――こんなにも誇らしげな雄の匂いさえ、今は私のおもちゃ。
そう思いながら、伽理紗は手を太腿の内側へと滑らせ、ついに――
そそり立つ灼熱を、その根元からしっかりと掴みとった。
瞬間、新海の身体がびくんと大きく跳ね上がる。
電流のような震えが熱を帯びて全身を駆け抜け、掌を焼き、腕を伝い、伽理紗の奥深くへと染み込んでいく。
心も身体も、とろけてしまいそうだった。
彼女は顔を近づけ、新海の耳元に熱を落とすように囁いた。
「新海君……ここも、こんなに……」
くすりと笑みを浮かべ、指先でそそり立つ先端を軽く突く。
「なのに……先っぽだけ、こんなにピンクなんて」
その言葉に、新海の顔は一気に真っ赤に染まった。
まるで挑発に火をつけられたように、新海はコンロから飛び降り、伽理紗をいきなり抱き上げた。
そのまま寝室へと運び、ベッドに放り投げた。
「せ、先輩……!」
伽理紗は微笑を浮かべ、甘えてくる大きな子どもを見守るように、新海の両手をそっと取り、自らの胸元へと導いた。
――どうして、こんなにも心がやわらかくなるのだろう。
彼の手は力強く、動くたびに腕の筋肉が小さく波打つ。
その律動は誘惑の拍動となって、伽理紗の奥深くまで甘く響いてくる。
身体の芯がふわりとほどけ、境界はあいまいになっていった。
まるで自分が空気に溶け、花の香りとなって滲んでいくような感覚だった。
――相馬、今ごろミナと何してるのかしら。
ふと、そんな思いが脳裏に差し込んできた。
もし、二人が……。
でも――いいじゃない。
もう、いいのよ。
これまで大事にしてきた誇りも、意地も、虚勢も、すべてこの瞬間だけは脇に置いて。
ただ素直に、この快楽に身を委ねよう。
そんなことを考えていたそのとき――
伽理紗は、足のあいだから熱い奔流が湧き上がり、頭のてっぺんまで一気に駆けのぼっていくのを感じた。
新海が、命の泉を啜っている。
その一滴ごとに、思わず全身が震える。
いま、この身体が湧き水となって、彼の渇きを潤している――
そんな確かな感覚に、伽理紗は包まれていた。
「新海君……」
「……先輩……」
――私は、今、広くて静かな入り江になったような気がしていた。
潮の満ち引きを待つ海のように、すべてを受け入れる準備ができていた。
だから、伽理紗は思わずもう一度、彼の名を呼んだ。
「新海君……来て。もう……」
新海は再び身を寄せ、伽理紗の胸元に顔を埋める。
「……先輩……」
その瞬間、伽理紗の内に潮騒のうねりが押し寄せた。
満ち足りた温もりが、荒々しくも甘く、身体の奥で溶け合っていく。
その動きには迷いがなく、まるで最初から定められていたかのように――力強く、必然だった。
雲は流れ、空は淡く色を変えていく。
今がいつかなど、もはやどうでもよかった。
ふたりの肉体は、いままさに――
海と空が溶け合う水平線のように、完全にひとつとなっていた。
境目はとうに失われ、どこからが彼で、どこまでが自分なのかもわからない。
丸みを帯びた張りと、引力のような膨らみを湛えた尻が律動するたび、
波は寄せては返し、また寄せては返す。
そのたびに、空気には甘くとろける吐息が満ちていった。
――あの尻が、風と波を支配している。
ひと波、またひと波と、快感が伽理紗の奥へ打ち寄せ、
理性の縁を容赦なく揺さぶりながら、彼女を深く、深く呑み込んでいく。
伽理紗は目を閉じた。
空を仰ぎ見るように。
風が巻き、雲が湧き上がる光景を心に描きながら、
嵐のような激しさを、いまかいまかと待ち構えていた。
* * * * *
三人の男。伽理紗の欲望は、どこへ傾くのか。
唯一無二の相馬――その神々しい肉体は、再び伽理紗と燃え上がり、壮麗な交わりを刻むのか。
家に潜む謎の男――彼の存在は、ついに伽理紗の聖器となり、禁忌の扉を開いてしまうのか。
そして、新海――若き肉体に秘められた熱は、伽理紗をどこまで狂わせるのか。
続きは有料配信ページにて。
伽理紗の選択、その瞬間をどうか見届けてほしい。
💠無料連載はここまでとなります。
これまで応援してくださった皆さま、本当にありがとうございました。
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