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第一章 ① 残暑

 あれから、十五年が過ぎている。記憶の中のあいつは、いつまでも変わらない。永遠に少年のまま。世界中どこを探したって、二度と会えないと分かっている。それでも、探し続けている。いつだって、あいつの面影を追っている。     『逃避行~15の夏~』      冷たい雨が降っていた。夏の終わり、残暑は厳しく、しかし夕立は冷たい。西宮伊槻は、夜の街を走っていた。  何かを追って、いや、何かに追われて、何もかもから逃げていた。背後に響くのは、交番の巡査の怒号。待ちなさいと怒鳴られて、立ち止まれるはずがなかった。   「うわっ」    角を曲がったところで、何かにぶつかった。何か、大きな壁のような、それでいて優しく、暖かかった。弾かれて尻餅をつきそうになった伊槻を、二本の大きな腕が抱きとめた。   「すいません急いでて──」    顔を上げる。目が合った。どこかで、会ったことがあるだろうか。男は、伊槻の顔を食い入るように見つめた。肩を抱く手に力が入った。指が食い込んで、跡になるかと思うほどだった。   「あの、おれ……」 「やっと追いついた。急に逃げ出したりして、ダメじゃないか」    追いかけてきた警官が、膝に手をついて息を切らしている。   「とりあえず、署まで来なさい。親御さんに連絡して、迎えに来てもらうから」    警官の手が伸びてくる。伊槻は、たった今会ったばかりの男に、縋るように抱きついた。   「それなら、必要ないですよ」    思いも寄らない言葉が、男の口から飛び出した。伊槻は頭上を見上げる。   「この子の保護者、俺なんで」    当然、警官は訝しんだが、男は嘘八百をぺらぺらと並べ立てる。   「歳の離れた、腹違いの兄弟ってやつですか。俺が責任持って連れて帰るんで、わざわざお巡りさんの手を煩わせるまでもないですよ」    そうは言ってもね、と警官は簡単には引き下がらない。とりあえず身分証だけでも見せてもらえますか、と言った時だ。遠くで女の悲鳴が聞こえた。それから、何か揉めているらしい物音が響く。警官は溜め息をつき、「戻ってくるまでここで待っているように」と言い残して、行ってしまった。  せっかく解放されたというのに、馬鹿正直に待っているやつがいるだろうか。この隙にちゃっかり逃げ出そうとすると、そうはさせまいと、男は伊槻の腕を掴んだ。凄まじい力で、関節が軋んだ。   「っ、んだよ、離せよ!」 「暴れんな。こっち見ろ。顔よく見せてみろ」 「は、はぁ?」    男は伊槻の頬を掴み、無理やり上を向かせた。暗がりの中、街灯の明かりに照らして、伊槻の顔をまじまじと見つめる。科学者が研究対象を観察するように真剣に、しかし、その眼差しは無機質とは程遠く、切実なまでの熱を帯びていた。   「くそっ、離せって! きめぇんだよ!」 「お前、名前は? どこから来た? 歳はいくつだ?」 「っせぇな! てめぇこそ、誰だっつーんだよ!」    男の手を振り払い、突き飛ばした。興奮から、息が上がった。   「ベタベタ触りやがって、気色わりぃんだよ。兄貴だとか何とか適当言いやがって、結局全部このためかよ」 「……このため?」 「……」    伊槻は大きく舌打ちをし、男を突き飛ばして駆け出した。  ああ、全てが最悪だ。何もかもが嫌になる。全てを投げ出して、誰もいない、知らない場所へ、逃げ出したい。今すぐ隕石が降ってきて、街一つ消し飛ばしてくれればいいのに。家も、学校も、何もかも。全部なくなって、帰るべき場所がなくなってくれれば、そうすれば、本当の意味で自由になれるのに。  しかし、男は再び伊槻を捉える。先程よりもずっと優しい力で、伊槻の腕を掴み、引き寄せた。   「ごめんごめん。いきなり俺が悪かった」    そう言って軽薄な笑みを浮かべた男の瞳には、あの切実さは消えていた。   「……何なんだよ、あんた。マジで気持ちわりぃな」 「いや、お前がね、古い知り合いに似てたもんだから。ちょっとした勘違いっつーか。そんだけだから」    溜め息と共にそう漏らした男の声音は、聞いているこちらの胸が締め付けられるほどに、哀しかった。   「……あんたの知り合いって、どうせもうおっさんだろ」 「失礼だな。俺だって、一応まだ二十代よ」 「……」 「なぁ。夕飯、俺はまだなんだけど。お前は?」 「……別に」    強がってみたが、腹の虫を黙らせるのは至難の業だ。男は微かに笑みを零した。   「つっても、あんま高ぇもんは無理だけど」    社畜、貧乏学生、そして家出少年にとっても、牛丼チェーンは強い味方だ。いつでも明かりがついていて、安い値段で満腹にさせてくれる。この男も、ここの常連らしかった。  食事の後、何となく、男の後をついて歩いた。また補導されるのはごめんだった。親に連絡が行くのも、学校に連絡が行くのも、あの家に帰らされるのも、どれもこれも耐えがたかった。そんなことになるくらいなら、どこぞで野垂れ死んだ方がマシだった。   「ここ、俺ン家だけど」    男が急に立ち止まったので、その背中にぶつかった。  いつの間にか、極彩色のネオンサインが氾濫する歓楽街を離れていた。光といえば、青白い街灯程度のもの。露草がさざめき、川がせせらいでいた。   「お前、こっからどうすんの。帰るなら、傘くらい貸すけど」    雨脚は強まっていた。パーカーのフードはぐっしょり濡れて、雨が裏地へ染みていた。   「それとも……」    男が全て言い終わる前に、伊槻は自ら、アパートに足を踏み入れた。  家へ帰るくらいなら、このボロアパートで夜を明かす方がマシだった。そう、ずっとマシだ。赤錆の浮いた階段も、建付けの悪い玄関も、あの家よりずっといい。四畳半の一室からどぶ川を見下ろす方が、あいつの顔を拝むよりずっとマシだった。  先にシャワーを借り、念入りに体を洗った。こんなことは初めてではないのに、なぜだか少し緊張した。リンスインシャンプーのチープな香りが懐かしかった。借りたタオルはごわごわして、柔軟剤のきつい香りがしなかった。  部屋に戻ると、男は一人、電気もつけずに晩酌していた。卓袱台の上には、発泡酒の空き缶が並んでいた。一本だけ、まだ栓の空いていない酒があり、男の正面に置かれていた。常夜灯の薄赤い光だけが、唯一の頼りだった。   「……あんたも、シャワー、浴びてくれば」    伊槻は沈黙を破ったが、男ははっきり答えなかった。部屋の隅に敷いた煎餅布団を指し、「おやすみ」と呟くように言った。   「……何のつもりだよ」    まだほとんど目立たない喉仏を、伊槻は精一杯震わせた。   「何様のつもりだよ」    男はこちらを見もしない。ただ大きな背中を丸めている。   「哀れなガキとっ捕まえて、恵んでやって、助けてやって、それであんたは満足か。善人にでもなったつもりかよ」 「……何を急にキレてんの」 「キレてねぇ。てめぇが急に、訳分かんねぇことを言い出すからだろ」 「訳分かんねぇのはお前の方だろ。俺は、何も変なことは言ってねぇよ」 「っ……」 「飯食って、風呂入って、服だって貸してやっただろ。後は寝るだけだろうが」 「……んなこと、本気で思ってんのか」 「思ってちゃ悪いのかよ。悪いけど、お前の言いたいこと、俺ァ何一つ分かんねぇな」 「てめぇ……とぼけてんじゃねぇぞ」    伊槻は男の胸倉を掴み、唇に噛み付いた。安酒と煙草の混じった、酷い味がした。   「てめぇ、こういうつもりでここまで連れてきたんじゃねぇのかよ」 「……なんで、そういう話になるんだよ」    また、あの目だ。切実なまでの熱を孕んだ瞳に見つめられ、少し怯みそうになる。   「なんでって、他に理由がねぇだろうが。兄貴だとか言っておれを庇って、飯も食わせて、家にまで上げたのは、全部このためだったんだろうが。認めろよ」 「……まぁ、薄々分かってたけど」 「あんたの古い知り合いは、こんなことしなかったか?」    男の目が見開かれた。あの目とはまた違う。熱というよりも、どす黒い何かを宿していた。   「おれに似てるっつーそいつとは、こういうことはしなかったのか」 「黙れ」    男は、軽々と伊槻を組み敷いた。   「言っとくけどな。俺は善人なんかじゃねぇよ」    伊槻を見下ろすその眼差しは、怒りよりも、深い哀しみを湛えていた。   「やっぱり、お前はあいつと全然違う」      *      酷い夜だった。何度、男の迸りを受け止めただろう。ほとんど寝かせてもらえなかった。四肢がばらばらに弾け飛びそうなほど激しく、犯された。  股関節が開きっぱなしで、立ち上がることも容易ではない。重い体を引きずって、伊槻は布団から這い出した。体を起こすと、胎内に放たれた体液が溢れ出てきて太腿を濡らし、その生温い感触に毛が逆立った。  卓袱台の上に、財布や携帯が無防備に置かれていた。昨晩、牛丼屋で見た時も思ったが、ボロい上に薄い財布だ。中を開いて見てみても、高額な紙幣は入っていない。   「おーい、何やってんだよ。コソ泥か」    背後からぬっと手が伸びてきて、財布を取られた。男は、まるで熊みたいに大きなあくびをして、ぼりぼりと背中を掻いた。   「……正当な対価がほしいだけだ」 「対価、ねぇ……」    男は、財布から紙幣を数枚抜き取って、伊槻に押し付けた。   「ほらよ。持ってけドロボー」 「……あんだけやって、こんだけか」    伊槻が言うと、男は苦い顔をして、千円札を一枚追加した。   「はい。いくらごねられてもこれが限界。これ以上は出せないから」 「……」 「お前も見ただろ。ジリ貧なわけ。無い袖は振れねぇの」 「……さすがに、全財産ってわけじゃねぇだろ」 「じゃあなに。ATM行って現金下ろしてこいって? 明日か明後日になるけど、それまで待っててくれるわけ」    ごねているのはどっちだ。伊槻は大きく舌打ちをし、立ち上がった。腰に力が入らず、足が震えるが、そんな無様を晒すわけにはいかない。   「帰る」 「おー、二度と来んなよ」 「誰が、てめぇみてぇな貧乏人なんか」 「俺だって、お前の面なんか二度と拝みたくねぇよ」    じゃあな、という男の声を遮って、伊槻は力任せにドアを閉めた。  何なのだろう、あの男。考えるほどに腹が立つ。昨晩は、まるで飢えた猛獣のように、伊槻の体を食い荒らして、貪り尽くして、それでいて、切実なまでの熱と、怒りと、哀しみとを、真っ直ぐにぶつけてきたというのに。一夜明けたら、まるで夢から醒めたように、嘘っぽい笑みを浮かべて、飄々として、金なんかのために春を売る伊槻を見下げたような態度を取って、詐欺紛いの額を握らせて、それで終わり。安く買い叩かれたものだ。  全く、考えれば考えるほど、腸が煮えくり返るほど腹が立つ。あの男。あの、男。   「青山……迅……」    きっと、二度と会うことはない。名前も顔も、覚えておく必要はない。その価値も、ない。

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