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第一章 ② 援交
「どうしたのさ、イチくん。ぼんやりしちゃって」
少し、夢を見ていた。あの男。青山迅のことだ。もう何か月も経っているのに、今でも時々思い出す。
「疲れちゃった?」
「ん……少し」
「そっか。ごめんねぇ、ばたばたしちゃって。本当はもっとゆっくりしたいんだけど」
首筋や胸元に散る赤い痕。青山迅がつけたものではない。まるで桜吹雪のように、全身に散っていたというのに、いつの間にか肌に馴染んで、跡形もなく消えてしまった。今残っているこれは、目の前にいる中年親父がつけたものだ。
「イチくん、次はいつ会えそう?」
「……おれはいつでも。忙しいのは、あんたの方だろ」
「プレゼント、忘れないで持って帰ってね。今日は家に帰るの?」
「さぁ……どうかな」
男を見送ってから支度をした。夜には猥雑なだけのホテル街も、昼になると閑静で、どこか寂れた雰囲気さえある。
プレゼントとして渡された袋を開ける。事前におねだりしていたギフトカードと、要らないのにブランド物の腕時計が入っていた。
あの中年男には妻子がいる。しかも、伊槻と歳の変わらない、高校生の娘がいる。だが、あの男にとって、それは足枷にもならない。妻子がいようと、男を買う。娘と同世代の少年を買う。何も特別な意味はない、あの男にとっては当然のこと。いくら妻の手料理がおいしくても、それはそれとして外食はする。きっと、その程度のことだ。
「あれっ、伊槻」
若い男女が腕を組んで、ラブホテルから現れた。女の方は知らないが、男の顔には見覚えがあった。見覚えがあるどころではない。伊槻がこっちの世界へ足を踏み入れる際、色々と世話になった男だ。
「トーマ、知り合い?」
「まー、オレのかわいい弟分ってとこ」
「え~、ちっちゃ~い。かわい~い」
トーマと呼ばれた男は──もちろん、本名だなどと思ってはいない。伊槻がイチと名乗ってウリをしているように、トーマもおそらく源氏名か何かだろう──伊槻の肩に手を回した。
「んだよ、こんな時間から仕事か? 精が出るなぁ」
ふうっと息を吹きかけられる。煙草なのだろうが、変に甘いにおいがした。
「この後ヒマか?」
「……まぁ。つーか、これ、どうにかしたくて」
「ふーん……」
伊槻がプレゼントの袋を揺らすと、トーマは女に向かって言った。
「オレ、こいつと話があっからよ。お前、先帰ってろ」
「なんでよぉ。アタシとのデートはぁ?」
「すぐ終わっから。どうせお前、メイクだの髪巻いたりだので、二時間はかかんだろ」
「そんなにはかかんないし。も~、絶対来てよね。じゃなきゃ、次シャンパン入れてあげないんだから」
緩いウェーブの茶髪を靡かせた女の後ろ姿を見送り、たった今出てきたばかりのラブホテルへと、トーマは伊槻を連れ込んだ。
「すぐ終わる話じゃなかったのかよ」
「まーま、立ち話も何だしな」
こうなる予感はしていた。伊槻としても、抵抗する理由がなく、大人しく連れ込まれてやった。
「で、伊槻……じゃねぇや。イチだっけ? 変な名前つけやがってよ。その中身、なに」
プレゼントの腕時計を、箱ごとトーマに渡す。
「ははっ、こりゃまた。女が着けるような時計だな。お前の細っせぇ腕にはお似合いじゃねーの」
「んなのもらっても困るし、いらねぇっつったのに。おれが行ってもどうせ買い取ってもらえねぇから、あんた代わりに行ってくれよ」
「それで? 手数料は体で支払うってか」
部屋へ入るなり、舌を入れるキスをされた。変に甘い煙草の味が鼻につく。バニラフレーバーだとか何とか。女にはこういう香りがモテるのだろうか。
「さっきの人はいいのかよ。彼女じゃねぇの」
「んー、まぁ。彼女は彼女だけど、こういうのは別腹だろ」
別腹。その理屈は、分かる気がした。さっきの中年男との行為は、単なるビジネス。トーマとのこれは、遊び感覚。では、あの男は。青山迅と過ごした一夜は、あれは、何だったのだろう。
「う、ぁ゛……っ」
「はっ。おっさんザーメンでぐじょぐじょじゃねぇか。入れやすいのはいいけどよぉ、さすがに気持ちわりぃぜ。ちゃんと掻き出せって、最初に教えただろーが」
うつ伏せに押さえ付けられ、押し潰すような後背位で抱かれる。肚の奥を抉られ、自然と呻き声が漏れる。
「もうちょいかわいく喘いだら? っつっても、おっさん相手にはアンアン言ってんのか。腐ってもお仕事だもんな」
あの男との行為は、きっとあれも、ビジネスだったに違いない。ボロボロの財布から抜き取った、なけなしの数千円がその証拠だ。けれどあの時、角の折れた紙幣を手にした時、確かに胸が痛んだのだ。
ずっと、考えないようにしていた。気づかないふりをしていた。たとえ、数千円にしかならなかったとしても、金は金だ。自分の体で稼いだ金だ。いつもなら、少なからず達成感のようなものを得られるはずなのに、あの朝に限っては、ひどく虚しい気持ちになった。
何が気に入らなかったのか、自分でも分からなかった。まだ曖昧だった関係性が、たった数枚の紙幣によって、金銭を介したものだという風に、半ば強引に決定付けられたのが、気に食わなかったのだろうか。
だが、それの何が気に食わないのか。ビジネスだろうが、遊びだろうが、根本は変わらないはずなのに。あの男のことになると、何も分からなくなる。何か月も前に一度寝ただけの男のことが、どうしてこうも、頭から離れないのだろう。
「伊槻ィ……やっぱお前のケツ、サイコーだわ」
ピアスの空いた、長い舌が伸びてくる。舌の付け根を押さえられ、喉の奥をくすぐられる。あいつの匂いは、安酒と煙草の混じった酷い匂いなんて、もう忘れてしまった。
別れ際、トーマは小遣いをくれた。ビジネスでもらう金額よりは少ないが、臨時収入としては十分だ。それに、あの時計を質に入れて十数万になったとして、あの男はそのほとんどを懐に入れてしまうだろう。
もらった小遣いで食事をし、気づけばもう夕暮れだ。このところ、あっという間に日が落ちる。
今日くらい、家に帰ろうか。どうしよう。家族の顔を順番に思い浮かべてみて、伊槻は首を振った。
やめだ、やめ。考えただけで、気分が悪い。やっぱり、今夜も家には帰らない。
帰らないとなると、どこで夜を明かすかが問題だ。最悪野宿でもいいが、この季節、外で過ごすのはかなり応える。
「君が、イチくん?」
公園のベンチで、男に声をかけられた。伊槻は、被っていたフードを脱いで、ゆっくりと振り返る。
「タバコ?」
男が怪訝な顔をした。伊槻は、舐めていたロリポップキャンディを口から出す。
「いくら出せるの」
「うん。五万は余裕かな。イチくん、君、いくつなの」
「聞いてどうするんだよ」
「だって、かわいいからさ。思ったより幼い感じだしね」
「料金上乗せしてくれるなら、教えてやってもいいぜ」
伊槻はベンチから立ち上がり、男の手を取った。
この公園は、所謂個人売春の巣窟で、特に男が多かった。男が客待ちをし、男を抱きたい男が物色にやってくる。そんな場所だった。他にも、ネット掲示板を駆使したり、アプリを利用したりと、色々な方法で一夜の相手を探す。そういった駆け引きや、値段の付け方、裏の世界で生きる方法を、伊槻はトーマに教えてもらった。この場所も、彼の手引きで知ったのだ。
連れていかれたのは、安っぽいラブホテルではなく、高級感のあるシティホテルだった。地上四十七階の角部屋、北西にぶち抜いた二面窓からは、都心の夜景を一望できた。予約もなしに、飛び込みで泊まれるホテルではない。
「……なんで、こんな部屋を」
伊槻が当然の疑問を口にすると、男は寂しそうに笑った。
「ある人と約束をしていたんだけど、来られなくなってしまってね」
相手は男か、女か。恋人なのか。家族がいるのか。そんなことをいちいち確かめることほど、野暮なことはない。
「その人の分も、今夜は楽しもうぜ」
「君みたいな子を見つけられて、よかったよ」
シャワーを浴びる前に、ベッドで一度交わった。
仕立てのいいスーツ。ジャケット、ベスト、スラックスのスリーピース。品のいいネクタイ。皺のないシャツ。しかし、一皮剥いてしまえば、人間なんて皆同じだ。
「イチくん、すごくかわいいよ。こっちもだいぶ幼い感じだったけど、でもちゃんと勃つんだね。気持ちいい?」
公園で一目見た時から思っていたが、こういう予感は大抵当たる。この男のセックスは、顔に似合わず、相当しつこい。前戯だけでも、かなりしつこい。伊槻のものを頬張って、尻に指を入れて喜んでいる。
そういえば、あの男。青山迅の前戯も、相当しつこかった。そんなことしなくていいと言うのに、フェラチオだけでは飽き足らず、尻の穴まで舐められた。
「っ、んん゛……ッ」
「これ好き? お尻締まるね」
違う、そこじゃない。もっと浅いところを、優しく撫でてほしいのに。男の指は、見当外れの場所をぐりぐり擦る。そこも悪くはないが、もっといいところがあるのに。
そういえば、あの男は。あの晩初めて交わったのに、伊槻の好いところを心得ていた。いや、きっと偶然なのだろうが、それにしたって、なぜあんなに的確に、伊槻の弱点ばかりを探り当てることができたのだろう。長くしなやかな舌をねじ込まれ、ほじくられ、舐られて──
「あっ、あっ…、ああっ……!!」
そうだ。あの時も、呆気なく絶頂させられた。思い切り吸い上げられて吐き出した精液は、今頃あいつの腹の中に……いや、とっくに消化されてしまっているか。
「濃いの出すね。やっぱり、若いからかな」
一旦口に受け止めた精液を、男は掌に吐き出し、それから、いきり立ったペニスへと塗りたくった。
「ふふ。君のザーメンでぬめぬめだ。搾りたてだから、あったかいね」
これから、あれに蹂躙される。肚の奥まで暴かれるのだ。伊槻は黙って足を開いた。
一旦休憩を挟み、交代でシャワーを浴びた。その後、髪が乾く間もなく、今度は窓際で抱かれた。
男の荒い息が首筋を掠め、自然と背筋が反った。顔を上げると、室内外の明るさの違いによって、鏡の役割を果たしている窓ガラスに、己のだらしない姿が映った。その背後には、興奮から目を血走らせた男の姿が映っていた。
「ほら、ごらん。素晴らしい眺めだろう? あの子に見せたかったんだ」
夜景など楽しむ余裕はないが、伊槻は意識を外へ向けた。地べたを這う赤や青は、全て自動車のヘッドライトか。高層ビルの銀や金。明滅する東京タワー。スカイツリーの蒼白い灯。遠くに霞んで見えるのは、あれは、レインボーブリッジだろうか。
「んぐっ、う゛…ぁ、あ゛っ……」
細い腰に爪を立て、舌を噛みそうなほど激しく上下に揺さぶられる。ただでさえ膝が笑っているのに、とても立っていられない。ピカピカに磨かれた窓ガラスに、伊槻はべったりと手をついた。
ひんやりとした窓ガラスに、外気の冷たさを感じた。火照った体を冷ますのにはちょうどいい。少し冷静になって、媚びるように腰をくねらせれば、案の定男は食い付いた。夢中で腰を振りながら、唇へ噛み付いてくる。その必死さが、なんだか間抜けで、少し笑えた。
「イチくん、本当はいくつなの? プロフィールでは十八って書いてるけど、絶対もっと若いよね」
二発の汚濁を受け止め、ベッドへ伏している伊槻に、男は冷えたミネラルウォーターを差し出した。蓋を開けてもらい、一口飲む。
「お手当増やすからさ」
「……十五」
伊槻が答えると、男は鋭く目を細めた。
「やっぱり。僕の目に狂いはなかった」
お休みムードだと思っていたのに、男はベッドを軋ませて、再び伊槻に覆い被さった。まだ敏感な肌を撫で、力の入らない足を開かせる。
「君、まさに今が食べ頃ってわけだ。本当、会えてよかったよ」
触りもしないのに、ペニスがむくむくと張り詰める。眠りにつくことができるのは、まだ先になりそうだ。
二面の窓から差し込む朝日に目が覚めた。男は先に起きて、モーニングコーヒーを飲んでいた。伊槻が起きたのに気づくと、フロントに何やら電話をかけた。すぐにドアがノックされ、ルームサービスが運ばれてきた。イチゴののったショートケーキがワンホール。男は得意げに胸を張る。
「予約しておいたんだ。無駄にならなくてよかったよ」
そういえば、今日はクリスマス。昨晩見下ろした夜景の中にも、キラキラのイルミネーションが、きっと交ざっていただろう。それでも、いくら目を凝らして探してみても、決して見つけられなかったに違いない。
「ほら、食べてごらん。ここのパティシエは一流だよ。それに、この景色を眺めて食べるんだ。格別じゃないか」
一切れ切り分けてもらい、伊槻はそれを受け取ったが、正直なところ、全く食指が動かない。起きてすぐにケーキなんて、そもそも、朝は食欲がないというのに。どうせなら、昨日食べたかった。腹は汚濁で膨れているのだ。これ以上、何も入れる気にならない。
「どうしたの。食べないのかい」
「……ケーキよりもおれの方が、ピンクで甘いかも……と思って」
伊槻はナイトウェアをはだけ、白い肩を露わにした。胸元のささやかな尖りをちらりと覗かせると、男は生唾を飲み込んだ。
「イチくん、君ね……本当に悪い子だよ」
男は舌舐めずりをして、伊槻をベッドへ押し倒す。
「君が本当にケーキよりも甘いかどうか、僕が確かめてあげよう」
ボタンを全て外され、露わになった胸の尖りに、クリームのついたイチゴをのせられる。独特の粘着いた感触と冷たさに身動ぎすると、動かないでと釘を刺される。胸だけでなく、ヘソや腰回り、それから、何の反応も示していない、むしろ寒さに縮んでいる幼い陰茎にも、クリームを塗りたくられ、まるでケーキを頬張るように、ぱくりと咥えられた。
「ははっ。これは確かに、ケーキより甘いかもね」
「っ、ん……」
「動かないでね。これ以上シーツを汚したくはないだろう」
全身に塗りたくったクリームを、今度は順繰りに舐め取られる。体温で溶け始めた生クリームが、男の唾液と混ざって、さらにどろどろに溶けていく。クリームにまみれた最後のイチゴを食べ終える頃には、伊槻の体は取り返しのつかないほど汚れていた。今すぐシャワーを浴びたい。
「さて、次は君のナカを味わってみるとしよう。こっちもケーキより甘いかな?」
促されるまま、男にまたがる。昨夜の名残で緩み切っている穴は、容易く男を呑み込んだ。男は愉快そうに肩を揺らす。
「すごい、すごいよ、イチくん。ずぶずぶ呑み込んでいくじゃないか。まだ子供のくせに、なんていやらしい体なんだ。本当、いやらしくて悪い子だな」
男は笑って、伊槻の尻を叩いた。
あの男も、青山迅も、同じことを思っただろうか。まだ子供のくせに、毛も生えていないガキのくせに、いやらしいことばかりを覚えて、なんていやらしいガキなんだと、そう思っただろうか。
迅の言うあいつは、伊槻とそっくりだという古い知り合いは、伊槻と違って純粋無垢で、清らかで美しいまま、今でも迅の心にいるのだろうか。そうだとしたら、伊槻はどう足掻いたって、“あいつ”にはなれっこない。近づくことすらできやしない。それが分かっていたから、あんな抱き方をしたのだろうか。
「イチくん、はあっ、騎乗位もすっごく上手だね。こんないやらしい腰遣い、どこで覚えてくるのかな? こんなに細くて、小さい体に、僕のが全部入ってるなんて、感激だよ……!」
男は、鼻息荒く唾を飛ばした。遅漏気味なのか、昨晩出し尽くしてしまったのか、伊槻が必死に腰をくねらせているというのに、男はなかなかイかなかった。伊槻の腰を掴んで固定して、奥を捏ねるように突いてくる。
青山迅も、こういう抱き方をしたっけ。けれど、あの時と違って、今日は何も感じない。あの男と、この男と、どこがどう違うのだろう。
あの時は、凹凸のぴったりハマる感覚があった。あんな感覚は初めてだった。互いの欠けた部分をぴったりと補い合うような、そんな感覚だった。あいつのあれが刀なら、伊槻のここはそのための鞘だ。特別に誂えられた、一揃いの番だ。歪な肉体が重なり合い、歪な魂が共鳴し、ほんの一瞬、完璧になれた気がした。
この男とは、全然ハマらない。きっと、歪んでいるのは伊槻の方だ。人間なんて、誰しもどこかしら歪んでいるものだが、その歪み方、欠けた部分が、迅と伊槻はよく似ていた。歪んだもの同士、だからうまくハマる。けれど、迅の求める“あいつ”に、伊槻は決してなれないのだ。
「イチくん、次は君が僕に食べさせてくれるかい?」
早く終わらせたい。その一心で、要求に応じる。下からの突き上げに耐えながら、伊槻はイチゴを咥え、男の口へと運んだ。
「ッ、あぅ…っ」
激しく揺さぶられてイチゴを落としてしまうと、男はそれを摘まみ上げ、伊槻に咥えさせた。汗でぬめった掌が頬を撫で、抱き寄せられる。ぶよぶよと肥った舌が、真っ赤なイチゴに絡み付き、奪い取った。イチゴは酸っぱい。クリームは甘い。そんな当たり前のことが、伊槻には分からなくなっていた。
早く終わらせたかった。何をだろう。何をいくつ終わらせたって、本当の終わりには程遠く、そこには新たな始まりがあるだけだ。車輪が坂道を転がるように、歪な日常が続いていくだけ。一晩に数万稼いだからって、それが何になるというのだろう。虚しいだけだ。くしゃくしゃに握りしめた紙幣を、伊槻はポケットにねじ込んだ。
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