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第二章 ① 冬
雨が降っている。雪まじりの雨が、夜明けの空に閃いている。赤と青、朝と夜の境界。差し込む光は頼りない。世界はまだ暗い。
どこまで歩いてきたのか、自分でも分かっていなかった。けれど、見覚えのある場所。露草のさざめき。川のせせらぎ。ここは、猥雑な光溢れるホテル街を遠く離れた、どぶ川沿いのボロアパートだ。
駐輪場に停まっているスクーターに見覚えがあった。ミントグリーンとシルバーのツートンカラー。前にここへ来た時に目にして、その後、オフィス街でも一度見かけた。あの男は、ちょうど今と同じように、作業着らしいジャンパーを着て、小包片手に走っていたっけ。
どうして、こんなところへ足を運んでしまったのだろう。元はと言えば、何かから逃げてきたはずだが──そうだ。兄の大輝に、ホテルへしばらく監禁されて、抱き潰されたのだった。春季休業中、サークルの合宿や彼女との旅行で忙しいから、その前に好きなだけ犯させろという、無茶な要求をされたのだ。
こんなことは、何も初めてではない。長期休暇に入る度、似たようなことは過去にもあった。それにしても、今回のプレイはかなり苛烈で、長期に及んだ。
粘着テープで拘束され、無理な姿勢で犯された。顔にもテープをぐるぐる巻かれ、息苦しさに悶える伊槻を見て、兄は笑っていた。どこで手に入れたのか、乗馬用の鞭を振るわれ、全身がミミズ腫れだ。首も絞められたと思うが、記憶がない。たぶん気を失っていた。兄が食事に出る際も、バイブやディルドを突っ込まれて放置された。失神しかけると容赦なく頬を張られ、たとえ気を失っていても、そんなことは関係なしに犯された。まるで肉の人形だ。手頃な穴のついた、ただの人形。
そんな行為が終わる頃。いや、あれはまだ中盤だったかもしれない。兄の背中に、赤い引っ掻き傷が見えた。あれは、伊槻がつけたものだろうか。激しく揺さぶられていたせいで、自分でも訳が分からないまま、兄にしがみついていたのだろうか。青山迅の背中にも、伊槻の爪痕は残っているだろうか。
そんなこと、あるはずがないのに、不意にまた、あの男のことを思い出していた。あの晩、伊槻はあの男にしがみつき、背中に手を回した。激しい突き上げに耐えながら、背中をガリガリ引っ掻いた。その記憶は、確かなものだ。けれど、そんな小さな爪痕など、もはや残っているはずがない。あれから何か月が過ぎているのだろう。
けれど、きっとそのせいだ。足が自然と、あの男の元へと向いていたのは。背中の引っ掻き傷なんて、どうでもいいと思うのに、そのことを考えていたら、いつの間にかここにいた。
目を覚ますと、見知らぬ天井。いや、一度だけ目にしたことがある。ここは……
「ようやく気づいたかよ」
男が、青山迅が、伊槻の顔を覗き込んだ。ああ、そうだ。ここはこいつの部屋だ。
「びっくりしたぜ。いきなり引っくり返るから。あー、起きなくていいから。辛いだろ」
「っ……おれ……」
喉が渇き切っており、絞り出した声が引き攣った。けほ、と乾いた咳をすると、コップを差し出される。煮出して作った冷たい麦茶が唇を濡らす。
「……なんで……」
「そりゃこっちのセリフなんだけど。どうせ行き倒れるなら、よそでやってくんねぇかな。なんでよりによってうちの前でさぁ」
ぶつくさ言いながら、迅は立ち上がる。伊槻が倒れた時、この男はちょうど出勤するところだったのではないか。意識の途切れる寸前に見た光景が夢でないのなら、作業着らしいジャンパーを着ていたはずだ。
「……しごと?」
自分でも情けなくなるくらい、か細い声が出た。しかも、迅が自分を置いて仕事へ行ってしまうのかどうか、そんなことを気にしているなんて、我ながらひどく女々しい。
「お前が一人で平気そうなら、全然仕事行ってもいいんだけど」
「……」
「うそうそ。ちょっと買い物行ってくるだけ。冷蔵庫空っぽだからさ。お前、なんかほしいもんあるなら、買ってくるけど」
「……梅干し」
「ん。じゃあ、いい子で留守番してろよ」
バタン、とドアが閉まり、鍵が掛けられた。四畳半の一室に一人きり。なぜか、自由になった気がした。
小型の電気ストーブが焚かれている。足元には湯たんぽがあり、布団を温めている。濡れた髪は乾かされ、オーバーサイズのスウェットに着替えさせられていた。
迅は、伊槻の体を見ただろうか。粘着テープを巻かれた跡。首を絞められた跡。鞭に打たれて切り裂けた肌。消えることのない傷痕を。
できることなら、知られたくなかった。可哀想な子供だと思われたくなかった。根掘り葉掘り事情を聞き出されるのも面倒で、それに何より、迅の求める“あいつ”とは似ても似つかない、傷物にされた紛い物だということを、知られたくはなかった。
本当は逃げ出したいのに、伊槻が兄から逃げられないのは、初めて犯された時の記憶が、鮮烈に焼き付いているからだ。あの日の恐怖に、いまだ支配されている。今でも兄に逆らえない。きっと一生、死ぬまでこのままなのだろう。
伊槻は十二で、兄は高校生だった。五歳の差は圧倒的で、腕力の差も歴然だった。あれから数年が経ち、伊槻も少しは大きくなったが、あの頃の兄には到底及ばず、そして今でも、兄との体格差は歴然だ。
この、白く細いばかりの腕で、どうやって闘えばいいのだろう。敵うはずがない。あの大きな体に押さえ込まれることを想像するだけで、動けない。抵抗する気力も失せる。どうせ勝てるはずがないと、長年の経験で刷り込まれている。
そんな中で、無断外泊を繰り返し、夜な夜な男と遊び歩き、違法な売春に手を染めていることは、伊槻のせめてもの抵抗だ。とはいえ、兄を怒らせると酷い目に遭うのは分かっている。兄を怒らせないギリギリのタイミングで家に帰り、望んでもいない行為に身を投じている。結局のところ、いくら自由になったつもりでいても、兄の支配からは逃れられない。
トントン。コトコト。物音がして、伊槻は目を開けた。いつの間に帰ってきたのか、迅が台所に立っている。布団のそばにあったストーブは、迅の足元へ移動している。
何を作っているのだろう。丁寧な包丁捌き。軽いリズムが心地いい。鍋で何か煮ているらしい。お玉で掬って混ぜている。
「起きたなら何とか言えよ」
迅が鍋を持ってきた。卓袱台に置こうとして逡巡し、伊槻に雑誌を取るよう言う。なるべく厚いのを頼むと言われ、本棚の前に転がっていた漫画雑誌を置くと、迅は鍋の下に敷いた。
「……いいの」
「何が」
「その本」
「まぁ、読み終わったから」
鍋の蓋を取ると、白い湯気がもくもくと上がり、視界を遮った。続けて、ふわりと出汁が香る。伊槻が食べたいと言った、梅干しの入った雑炊だった。
「初めて作ったから味は保証できねぇけど、よければ食えよ」
茶碗によそい、伊槻の前に置いた。飲み物はまたしても麦茶だ。
「……いらねぇ」
「そう?」
迅は、自分の分もお椀によそう。一人暮らしで、茶碗は一つしかないのだろう。味噌汁の椀に雑炊をよそい、スプーン片手に、ふーふー言いながら食べ始めた。熱すぎたのか、涙目になって麦茶を飲む。今度はよく冷ましてから、慎重にスプーンを咥える。
「……やっぱり、食う」
伊槻はスプーンを握った。そこでふと気づく。伊槻の前に置かれたスプーンは、所謂食事用の一般的なサイズだが、迅の持つそれは、うんと小さい。猫の額ほどの匙で、ちまちま雑炊を掬っているのだった。一人暮らし故に、同じ食器はいくつも持たないのだろう。
「おれ、そっちがいい」
「あんだって?」
「そっちの、小さいスプーンがいい」
「ああ、これ? 俺はいいけど。いいのかよ」
「これだと、でかすぎる」
伊槻は、スプーンを口へ運ぶジェスチャーをして見せた。「おちょぼ口かよ」と迅は笑った。
空腹を感じる神経がイカレていた。思えば、昨日は何も食べていない。いや、ゼリー飲料を無理やり食べさせられた。それがおそらく昨日の朝。体は疲れ、胃も萎んでいたが、迅の食べる姿と、この匂いが、死んでいた食欲を刺激した。
出汁の風味と、梅の酸味、昆布の塩味。ふわふわの卵に、新鮮なネギ。栄養とおいしさをたっぷりと吸い込んだ、柔らかいご飯。温かさも相まって、優しい気持ちになる。心が解けていく。何かが決壊しそうになる。
「一応デザートもあんだけど」
迅が言い、伊槻ははっと顔を伏せた。
「まぁ、そんな大したもんでもねぇけどな」
冷蔵庫から出してきたのは、桃の缶詰だった。プルトップ式の缶を開けると、甘く華やかな香りが広がった。透明なガラスの器に空けると、まるで宝石のようだった。
デザート用の小さいフォークを渡された。軽く刺して、口に運ぶ。噛んだ瞬間、果汁が溢れた。舌の上で、甘みが弾ける。桃が躍る。甘くて、冷たくて、瑞々しくて、つるりと喉を通った。
「……あんた、いつもこんなもん食ってんの」
「いや、今日はたまたま。つか、病気ン時は桃缶だろ。違う?」
「……知らねぇ。そんな常識」
「俺もすげぇ久しぶりに食うけどね。やっぱうまいな、桃は。缶詰でも全然うまいわ。高級な味がするもん」
「……」
近所のスーパーで売っている安い缶詰のはずなのに、どうしてこんなにおいしいのだろう。果肉が甘く蕩けるように、心まで蕩けそうになる。こんなの、絶対におかしいのに。
雑炊を何杯かお代わりし、桃も全て食べ切った。死んでいた胃が動き始める。久しぶりのことで、腹が重たく感じた。
「お前ってさ」
食後、換気扇の下で一服しながら、迅が言った。壁が邪魔して姿は見えなかった。何を聞かれるのかと、伊槻は身構えた。
「……いや、やっぱいいや」
ふう、と溜め息をついて聞こえるのは、煙を吐いているのだろうか。煙は全て換気扇に吸われているようで、居室へは全く流れてこない。ただ、あの燻った煙の香り。焦げくさいような、ほろ苦い香りは、しっかりとこちらへ伝わってきた。
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