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第二章 ③ 鍵

「行くとこなくて困ってんならうち来れば?」    そう言って、迅が合鍵を渡してきたのは、あの日から半月ほどが過ぎた頃。警察に追われていたわけでも、兄から逃げてきたわけでもなかったが、伊槻は再びここにいた。玄関の前でうずくまり、家主の帰りを待っていた伊槻を、迅は追い返しはしなかった。   「飯は」 「まだ」 「何がいいんだよ」 「何でも」 「それが一番困るっつーの。もう病人じゃねぇんだから、いつまでも優しくすると思ったら大間違いだからな」    そうやってぼやきながら、迅はフライパンを取り出した。冷凍していた肉と野菜、今日買ってきたらしいモヤシを全てぶち込み、ざっと炒めて、塩胡椒を振りかける。熱い油の絡んだ、できたての野菜炒めが食卓に並んだ。味付けは濃い目だった。   「食ったら帰れよ」    そう言って、迅はビールを開ける。プシュッと炭酸の抜ける音がした。  食事の後、当然のようにシャワーを借りた。部屋に戻ると、迅はまだ晩酌の続きをしていた。少しだけ開いた窓から風が入り、煙草の煙を蒼く揺らめかせていた。   「テレビつけていい」 「音量小さめにな」    リモコンを取り、チャンネルを回す。ニュースやドラマ、バラエティ。どれもぱっとしないが、画面に猫が映ったので、手を止めた。  何も、動物が好きというわけではない。犬も猫も飼ったことはないし、動物園も好きではなかった。が、今回は興味を引かれた。世界各国を旅して、そこで出会った猫の姿を撮影するという、ただそれだけの番組だった。  こういうのでいいのだ。夜の時間を共にするのに、芸能人のオーバーリアクションも、薄っぺらい感想も必要ない。猫の姿と、そこに暮らす人々の姿と、そんなものを淡々と映すだけでいい。  迅の視線も、テレビへと向いていた。24インチの画面に映る、ヨーロッパらしい石畳の街並み。野良猫か、放し飼いなのか、茶トラのオスがカメラを追いかけてくる。   「……日本人なら、やっぱ三毛猫だろ」    ふいに、迅が口を開いた。言われてみれば、畳に三毛猫はよく似合う。   「おれは黒猫がいい」 「飼ったことあんの」 「ねぇけど。なんかかっこいいだろ。夜に目だけ光ったりして」 「中二病かよ」 「っせぇな。じゃあ、あんたはなんで三毛猫がいいんだよ。侘び寂びだからか?」 「そんなんじゃねぇよ。普通に、かわいいから」    迅はあっさりと言い、灰皿に灰を落とした。   「かわいいんだぜ。丸くて、ふわふわでさ。あの模様も、世界に一つだけだもんな」 「飼ってたことあんのか」 「……さぁ、どうだったかな」    迅は遠い目をして言う。   「ガキの頃、飼ってたんだ。元は野良で、ずっと俺が世話してた」 「……」    今ここにいないということは、おそらくそういうことだろう。長くても、二十年は生きない。   「名前は?」 「……さぁな。おら、ガキはもう寝る時間だぞ」    エンディングテーマがかかり、スタッフロールが流れ始めていた。迅は立ち上がり、部屋の隅に布団を敷く。   「食ったら帰れっつってなかったか?」 「こんな時間に、外追い出されてぇのかよ。分かったら黙って寝とけ」 「あんたは?」 「これ飲み切るまで寝れませーん」    缶を振ると、中で液体の跳ねる音がした。あれで何本目か知らないが、やたらと長い晩酌だ。  伊槻が布団に潜ると、電気が消された。煙草の火が、暗闇を赤く灯していた。   「なぁ」 「まだ起きてんの。さっさと寝ろって」 「あんたの猫の話、してくれよ」 「おもしろくも何ともねぇぞ」 「それでいいから。おれが眠くなるまで。どうせ暇だろ」 「お前な、それが人にものを頼む態度かってんだ」    出会いは雨上がりの路地裏で、ぐっしょり濡れて震えていた。親に内緒で連れて帰り、温めたミルクとかつお節をあげた。すぐに親の知るところとなったが、責任を持って世話することを条件に、飼うことを認めてもらい、そこでようやく名前をつけた。   「今思えば、もっと凝った名前でもつけてやりゃあよかったが、あん時はあれが一番いいと思ったんだよな。ま、ガキでも呼びやすかったし、ミーコも呼ばれりゃすぐ来たし、よかったんだろうけど」    迅は言葉を切る。伊槻は、いつの間にか眠っていた。迅は、もうほとんど空になったビールを、最後の一滴まで飲み干した。  夜も深まった丑三つ時。枕元に気配を感じた。伊槻は目を瞑ったまま、耳をそばだて、神経を研ぎ澄ませた。  ほんの僅か、衣擦れの音を響かせて、枕元に腰を下ろす。寝顔を覗き込まれ、じっと見つめられる。目を瞑っていても分かる。視線が痛かった。  呼吸を確かめるように、口元に手をかざされる。その手はやがて頬に触れ、首筋をそっと撫でられる。体温と、おそらく脈拍とを、確認しているようだった。  気配をさらに近くに感じた。ゆっくり、ゆっくりと、距離が縮まる。やがて、迅の吐息を唇に感じ、輪郭がそっと重なった。  唇は、僅かに触れただけで離れていく。ぱちっと目を開けると、鼻先の触れ合う位置で目が合った。迅の瞳に動揺の色はなかった。伊槻は、迅の胸倉を掴んで、引き寄せた。   「……別に、いいんだぜ」 「……」 「おれは、最初からそのつもりだった」 「……後で泣いても、知らねぇからな」    二度目の夜。再び体を重ねた。       「痛ぇ?」 「別に……慣れてる」 「だよな」    淡々と言い、腰を振る。濡れた肌のぶつかる、生々しい音が響く。  初めての時のような、切実さは感じられなかった。こちらの胸を押し潰すような、哀しみ、怒り、荒々しい感情も、今回は影を潜めていた。それでも、この渇いた瞳の奥に、何かがある。何かを隠している。じっと目を凝らして見つめていると、迅の隠したいものが見える気がした。   「なに、結構余裕そうじゃん」    迅は軽く笑った。汗ばんだ掌が目元を覆う。   「余計なこと考えないで、ただ感じてりゃいいんだよ」 「っ、かんじてなんか、ねぇ」 「そ? 俺は気持ちいいけどね。こことか、」 「あぅ゛……っ」 「ぐりぐりすると、すげぇ締まるもん」 「ぅ、あ゛…っ! やっ、ああっ……」    リズミカルに突き上げられ、媚びるような声が漏れる。この声が、喉から自然と漏れているのか、それとも、いつもそうしているように、計算して演じているものなのか、自分でも分からない。奥へ奥へと、暴き立てるように突き上げられ、舌が痺れて、もはやまともに声を紡ぐこともできない。   「お前、自分の体に相当自信あるみたいだけど、正解な。も少しかわいげがありゃ、もっといいんだけど」 「っ、せぇ……よけいな、おせわ……っ」 「もっと泣かせてほしいって? 言うねぇ」 「ちっ、が……あっ、や゛ぅ……っっ!」    余計なことも何も、考えられない。脳天まで揺さぶられる。微弱な電流が、常に全身を駆け巡っている。逃れられない。   「っは、ガキのくせに……エロいことばっか、こんなに覚えちまって」    迅の渇いた笑いが降ってくる。吐息が頬を掠め、伊槻は無意識に唇を尖らせた。  汗ばんだ掌が手首を押さえる。布団の上に縫い付けられる。視界も、手足の自由も奪われて、その上、呼吸まで奪われた。  長くしなやかな舌を突き立てられる。濡れた口内を掻き回される。痺れて動かない舌を吸われる。唾液の絡む淫らな音が、頭の中に反響する。   「っ、ふ……ん、んぅ……っ」    だらしなく緩んだ口の端に唾液が伝う。その一滴まで舐め取られた。無意識のうちに、後ろを締め付けてしまう。受け入れたものの形がよく分かった。  迅が低く唸る。舌先を噛まれ、甘い痺れが走った。後ろに受け入れたものが、どくんと大きく脈動する。百分の何ミリという薄い膜の内側に放たれた精液の熱と質量を感じ取り、またしても、後ろの穴がきつく締まった。  ガスの抜けた風船のように小さく萎んだ熱塊が、粘液をまとって抜けていく。穴の縁が広げられて、引き攣れる。その感覚にも、妙な声が漏れた。  迅はのそりと体を起こす。前髪を掻き上げると、汗ばんだ額が覗いた。枕元を手探りで探し、個包装されたゴムの封を切った。   「……絶倫が」 「褒めてる?」 「まさかな」 「大人を舐めんなってこと」    まだ快楽の波が引かない。「尻こっちに向けて」という迅の指示に従うのも容易ではない。重怠い四肢を捻って、体を反転させた。どさりと布団に倒れ込む。   「そんなに疲れちゃった? スタミナねぇな」 「あんたが……ねむくなるようなセックスしかしねぇから……」 「んじゃ、今度はばっちり目ェ覚まさせてやっから、覚悟しな」    体勢は変わっても、やることは同じ。いつの間に臨戦態勢になっていたのか、どぎついピンクの膜を被ったそれが、狭い穴を割り開いて、ずぶずぶと沈み込んでいく。「あ、あ…っ」と小さく胸を喘がせながら、伊槻はただ、布団にしがみついて、身を捩じらせることしかできない。  誰も独りでは生きられない。それは何も、この社会が大勢の人の無数の仕事で成り立っているとか、そういう話ではない。  例えば、誰かの手に触れる。そうして初めて、自分の手を認識する。いくら手を伸ばしても、何にも触れられなかったなら、自分という存在を見失う。目に映るもの、手足の輪郭、それに頭の中までも。そこに相手がいて初めて、そうと認識することができる。そこに他者がいてくれて初めて、人間はそこに存在できる。  セックスとは、そういうものだ。少なくとも迅は、伊槻を抱くことを通して、自分の存在を確かめている。今ここに生きている。熱を持って、息をしている。そういったことを、伊槻に触れることで、確認している。何度も何度も、確認している。まるでそれが、唯一の方法だとでもいうように。       「行くとこなくて困ってんならうち来れば?」    翌朝、合鍵を渡された。アパートとおそろいで、年季の入った傷だらけの鍵。銀色に鈍く光っていた。   「……それで? あんたはまた昨日みたいに、おれを好き勝手できるってわけか」 「お前がそうしたいってんなら、付き合ってやってもいいけどね」 「……気に食わねぇな」    伊槻は、いまだ昨夜の余韻が抜け切らない体を叱咤した。   「それの何が不満だよ。もう二回も抱いたくせに」    迅は、寝起きの一服に紫煙を燻らせる。細く吐き出した煙が、カーテンの隙間に差し込む朝日に溶ける。   「ねぇよ、不満なんか」 「……だったら、おれも不服はねぇ」 「んじゃ、交渉成立ってことで」    ふっと煙を吹きかけられ、伊槻は軽く咽せた。迅は揶揄うように笑った。

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