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第三章 ① 春

「なんか、最近毎日来てねぇ?」 「別に、普通だろ」    あれからひと月が過ぎている。初めは週に一、二度だったのが、三日に一度、二日に一度と増えていき、確かに迅の言う通り、このところはほとんど毎日、このボロアパートに入り浸っていた。   「大体、あんたが来ていいっつったんだぜ」 「そりゃ言ったけど。まさか毎日来られるとは思わねぇじゃん」    迅は荷物を置き、服を脱ぐ。仕事の作業着らしいジャンパーを、鴨居のハンガーに掛ける。   「つか、先来て暇してんなら、家事の一つでもやってくれりゃあいいのによ」 「対価は別で払ってんだから文句言うなよ。それに、今日は風呂掃除してやったぜ。感謝しな」 「おーおー、そりゃありがてぇこって」    帰ってくると、迅はまずシャワーを浴びて、それから食事の用意に取り掛かる。献立は大体決まっており、定番は野菜炒めだが、味付けを少し変えさえすれば、毎日同じ献立でも、案外飽きずに食べられる。  待つ間、伊槻が何をしているかといえば、まちまちだ。ぼんやりとテレビを見たり、迅が定期購読している漫画雑誌を読んでみたり、図書館で借りた本を読んだり。勉強するのは、気が向いた時だけだ。   「ていうかお前、俺が仕事行った後も、ずっと家にいたりすんの? 人が働いてる間、家でごろごろしてるわけ?」 「勝手に決め付けてんじゃねぇ。春休みだから暇なだけだ」 「春休みぃ? 響きが懐かしすぎて死ぬわ。ったく、学生は羨ましいな」 「あんたにだって、こんな時代があっただろ」 「さぁな」 「はぐらかすんじゃねぇよ」 「まぁでも、のんびりできんのはガキの特権ってこった」    迅の料理は、どれも平均してうまい。が、味付けは毎回少し濃い目だ。けれど、それにももう慣れた。二人で囲む食卓も、いまや見慣れた風景である。       「出かけるぞ~。支度しろ」    そんなある日のこと。迅が突然、ヘルメットを渡してきた。   「……んだよ、これ」 「いやね? お前があんまり暇そうにしてるもんだから、優しいお兄さんは考えました」 「おっさんの間違いだろ」 「お兄さんな? せっかくの春休みに暇してるだけってのももったいねぇし、どっか連れてってやろうと思いまして」 「どっかってどこだよ」 「どっかはどっかよ。お前、行きたいとことかある? 今んとこ、海か山かで考えてんだけど」    銀色に光るヘルメット。傷一つない、新品だった。よく目にするものより一回り小さく、女性用か、子供用といったサイズ感だった。   「……なぁ、本当に大丈夫なんだろうな」 「なに、怖いの」 「バカにすんな、怖くねぇ。怖くはねぇけど……こんなの乗るの、初めてだし」    迅の愛車の、ミントグリーンのスクーター。朝に夕にと見慣れてはいるが、実際に乗るのは初めてだった。思った以上に車高が高い。その分、車体も大きくどっしりとしているので、安全といえば安全なのだろうが……   「ほーら、早く」 「わ、分かってる」    迅に支えてもらいながら、恐る恐る、後部シートにまたがった。案外勢いがついてしまったが、バイクはびくともしなかった。   「んじゃ、しっかり掴まってろよ」 「どこに」 「俺に!」    ガコン、とスタンドが外れる。ハンドルを握ると、エンジンが唸り、重い車体がゆっくりと動き始めた。  風を切って走る。春の風は、こんな匂いがしたのか。爽やかで、ほんのり甘い。花や、草木や、柔い日差しや、芽吹き始めた何もかも。そんな匂いがした。普段と何も変わらないはずの街が、ほんの少し色づいて見えた。  高層ビルやタワーマンションの林立する都心を横切り、湾岸線を南下して、あっという間に多摩川を越える。高架線を通り、地下道を抜けて、横浜の街を一周する。みなとみらいのビル群や、船の停泊する港を後にして、迅は迷いなくハンドルを切る。  道は内陸へと進み、景色はやがて郊外へ。トンネルを抜け、峠道を越え、やがて再び、郊外の街へ出る。   「なぁ。まだ着かねぇのかよ」    迅の背中にしがみついて、声を張る。ヘルメット越しに、風を縫って声が届く。そろそろ疲れた、休憩したい、という意味を込めて言ったのだが、迅の返答は呑気なものだ。   「もうちょいだから。大人しくしてな」 「言われなくても……ガキ扱いすんな」    再び、峠道に差し掛かる。勾配はさほどきつくはない。緩やかに続く坂道を、蛇行しながら登っていく。  やがて、開けた場所へ出た。白線の内側にスクーターを停める。乗る時と同様に、迅に支えてもらいながら、伊槻は恐る恐るバイクを降りた。地面はひどく固く、いつの間にか風はやんでいた。  どうやら、山頂に公園があるらしかった。駐車場から広場の方へ歩いていく。  桜の花は今が盛り。乱れ咲きに咲いている。花の重みで枝が垂れ、桜の雨が降っている。少し視線を上げてみれば、淡い木漏れ日が降り注ぐ。春風に舞い上がり、青空へと燃え上がる、薄紅が美しかった。  穴場的スポットなのだろうか。意外にも、花見客は少ない。地元民らしい老人が散歩をしている程度だった。  ふと、嗅ぎ慣れない匂いがした。けれど、知らないわけではない。花と緑に囲まれた広場の一番奥に、視界の開ける場所がある。眼下に海を見渡せた。  海か山か、どちらがいいかと問われ、海と答えたのに、どんどん山の中へ入っていくから不思議だった。山から海を見下ろそうという魂胆だったのだ。そうなると、ここは山というより岬だ。岬の頂上から、三方に海を見晴らす。  岬の斜面に、満開の桜が咲き誇る。まるで桜の海のようだった。桜の海の向こうには、青い海が澄み渡っている。水平線を接して、青い空が広がっている。白いベールの雲がたなびき、桜の海を淡く霞ませる。  時間を忘れて、いつまでもぼんやりと眺めていた。展望台の手すりから身を乗り出して、桜の谷を覗き込む。花吹雪が潮風に踊り、手を伸ばせば届きそうだった。  突然、襟首を掴まれて引き戻された。振り向くと、迅が蒼褪めた顔で睨んでいる。伊槻も負けじと睨み返すと、ぱっと手を離された。「落ちるなよ」と迅はおどけて言った。   「落ちるわけねぇだろ。おれがそんな間抜けに見えるか」 「お前って結構、危なっかしいとこあるじゃん」 「……大体、この高さから落ちたって、大したことじゃねぇだろ」    緩やかな斜面が続いているだけだった。うっかり転がり落ちたところで、打撲と掠り傷で済む。満開の桜や、生い茂る草木が、クッションになってくれるだろう。迅もまた、柵の向こうを見下ろした。   「……あんた、前にも誰かとここに来たか?」 「さぁ。どうだったかな」 「はぐらかさなくてもいいだろ」    この広い海は、相模湾だ。太平洋に面している。南を見れば三浦半島。西へと目を向ければ、なだらかな海岸線が繋がっている。時折、海へ突き出た岬が見えて、そのさらに向こうには、雄大な富士山が控えているのだった。この季節、山頂はまだ雪を被っている。迅は、遠い目をして海を眺めた。   「中坊の頃、そん時のダチと来たことがある。あそこの、江ノ島の辺りまでな」 「バイクでか?」 「まさかだろ。んな不良じゃねぇよ。普通に、自転車で」 「普通は電車だろ。遠かった?」 「遠いなんてもんじゃねぇよ。それに、夏休みだったもんだから、そりゃもうすんげぇ暑くってさぁ。脱水なりかけで、死にかけたぜ」 「バカだな」 「だよな」 「今も大概だけどな」 「おい」 「でもおれも、江ノ島の先まで行ってみてぇ」    手を伸ばせば、届く気がする。江ノ島も、富士山も、海も、空も、こんなに近い。    駐車場に戻り、ヘルメットを被って、再びバイクにまたがった。緩やかな坂を下り、ゆっくりと山を下っていく。麓の町を横切って、やがて海に出た。  海沿いの道を、潮風を浴びて走る。さざ波の音がのどかに響く。海の色は、真っ青というよりももっと淡く、柔らかく、透き通って見えた。  岬を越えて、砂浜を横目に見ながら、スクーターを走らせる。海水浴をするにはまだあまりに寒すぎるし、潮干狩りにもまだ早い。春の海、白く滑らかな砂浜は、ただただ穏やかだった。  やがて、左手に江ノ島が見えてくる。岬の頂上からもぼんやりと見えていたが、よりはっきりと姿を現す。砂の道で繋がった、相模湾に浮かぶ小島だ。  海岸沿いのコインパーキングに、迅はバイクを停めた。ヘルメットを外せば、遮るものは何もない。伊槻は深く息を吸い、肺いっぱいに潮風を満たした。青々として、爽やかで、ほんの少しほろ苦いような香りがする。海に来るのが初めてというわけではないが、どこか新鮮に感じられた。  「飯でも食うか」という迅の声も耳に入らず、伊槻は砂浜に降りた。堤防の上から見るよりも、海が近い。潮の香りも濃く感じる。寄せては返す優しい波が、春の日差しに微睡んでいる。渚に青く溶けていく。   「せっかくだから、お参りでもしてこうぜ」    堤防の上、パーキングの手すりにもたれて、迅が呼んだ。  橋を渡れば、すぐに着く。定番の観光スポットというだけあって、神社参道の商店街は活気に満ちていた。  吸い寄せられるようにして、迅の足は海鮮料理の店へ向く。伊槻もその後をついていく。今朝獲れたばかりの生しらすが、店頭に並んでいた。迅は迷わずそれを買う。伊槻も同じものをと言おうとして、透明な小魚がぎっしり盛られている様に躊躇した。結局、しらす入りの中華まんにした。「酒がほしい」と迅は言った。  それから、名物らしいたこせんべいを、行列に並んでまで買った。一トンの圧力でタコを丸ごとプレスして焼き上げるという。サイズは伊槻の顔より大きく、磯の風味と仄かな塩味で香ばしかった。またもや、「酒が飲みてぇ」と迅は呟いた。   「飲酒運転で事故なんざごめんだぜ」 「わーってるよ! だからサイダーで我慢してんだろ」    参道をしばらく歩いていくと、鮮やかな朱塗りの鳥居が見えてくる。そしてその先には、長い階段が壁のようにそびえているのだった。   「……これを登るのか」    下から見上げただけで、冷や汗が伝う。それでも、ここまで来たからには、島の頂上にある神社をお参りせずには帰れない。   「あっちにエスカレーターあるってよ」    迅が呑気に言った。なるほど、有料のエスカレーターに並ぶ行列ができている。迅はすっかり、楽な方へ流れるつもりらしい。   「あんなのに頼るのは負けだ」 「いや、別に勝負とかじゃないからね?」 「なに言ってんだ。こういうのは自力でやらなきゃ意味がねぇだろ」 「うぇ~。おじさん自信ないんだけど……」 「お兄さんじゃなかったのか。いつもはスタミナお化けのくせに、なに弱気になってやがる」 「ちょ、こういうとこでそういうのやめてくんない? もしかして青姦が趣味ですか、引くわ~」 「んなつもりで言うわけねぇだろ。脳が下半身についてんのかよ」    途方もなく続く階段。迅を蹴飛ばしたり、逆に小突かれたり、気紛れに現れる踊り場で休憩したりしながら、ついに辿り着いた。   「結構余裕だったな」    見た目ほど険しい道のりではなかった。手水舎で柄杓に水を掬い、手を洗って口をすすぐ。ポケットから五円玉を取り出し、賽銭箱に放った。   「お前……なんで先行っちまうんだよ、待てよ……」 「あんたがあんまり遅ぇから」 「しょうがねぇだろ……くそ、若いからって……」    迅は、この春の陽気には似つかわしくない、使い古した雑巾のようにげっそりとして、息を切らしていた。   「ったく、情けねぇな。この程度で。いいからお参りしてこいよ」 「いやもう、お前代わりにやっといてくんね?」 「それこそ自分でやんなきゃ意味ねぇだろうが」    隙あらばしゃがみ込もうとする迅を、拝殿の前まで引きずっていって、参拝させた。賽銭箱には、ぴかぴかの五円玉が放り投げられた。   「じゃ、帰りこそエスカレーターで……」 「腑抜けたこと言ってんじゃねぇよ。この先にはまだ奥の宮があんだろ。全部見てからじゃねぇと帰らねぇからな」 「マジかよ……」 「中途半端は気持ち悪ぃだろ」 「俺はもうこの辺でいいんだけど……」 「あんたも行くんだよ。何のためにここまで来たんだ」    とはいえ、既にある程度の高さまで登ってしまったため、この先はさほど傾斜はない。しかし、完全に平坦な道を歩めるわけでもなく、坂道や階段を上り下りしながら、案内看板に沿って参道を進んだ。時折、樹々の間に海が見え、何となく神聖な気分になった。  参道沿いには、細々とした土産物屋や飲食店が連なる。「ちょっと休憩~」と迅が足を止めたのは、小さな雑貨屋だった。小物やアクセサリーを売る狭い店内の一番奥に、小さなゲームコーナーがあった。くじ引きやガチャガチャ、クレーンゲームまである。百円から遊べるらしかった。   「……くそっ、全然取れねぇ」    あっという間に、百円を無駄にした。思わず台を叩いてしまうと、迅に背中を叩かれた。   「なーにイライラしてんの。カルシウム足りてないんじゃない?」 「こいつのアームがクソ弱ぇ」 「あー、なるほどね。取ってやろうか」 「いい。そこまでほしいわけじゃねぇし」 「まぁそう言うなって。昔取った杵柄ってやつ、見せてやる」    意気揚々と、迅はコインを投入する。ボタンを押し、アームを動かして、再びボタンを押す。二本のアームは、空気を掴んだ。   「……おい」 「……」 「昔取った杵柄はどうした。全然下手じゃねぇか」 「いやだって、久々だから! 腕が鈍ってるだけだから!」 「信用ならねぇな」 「待って待って、もっかいやらせて。次こそは行ける気がする」 「どうだか」    百円、二百円、三百円と、投入金額は増えていく。普段、どちらかといえばケチくさい面の目立つ迅が、やけにムキになっている。そしてようやっと、何度目の挑戦か分からなくなっていたが、青いクラゲのマスコットを落とすことに成功した。   「どうだよ。これが俺の実力ってわけ」    迅は得意げに景品を渡してくるが、伊槻は渋い顔をした。   「おれが狙ってたのは、黒いシャチだったんだが」 「まーまー、いいじゃないのよ。取れたんだから」 「……なんだこいつ。火星人みてぇな面して……」    とはいえ返品するわけにもいかず、握り潰してポケットに押し込んだ。  島の最奥部まで進んできた。岩屋の社に龍神が祀られている。賽銭は、やはりまた五円玉を。クレーンゲームで無駄金を使ったせいか、迅は賽銭をケチり、図々しくも参拝を済ませた。  帰りは別のルートで戻る。島の周縁部を巡る、緩やかな坂道だ。緑の多い島だが、海に面する部分は険しい岩場になっており、時折、その切り立った岸壁の間から、青い海が見えるのだった。  思わず、足を止める。数歩前を歩いていた迅も、足を止めた。   「どうしたよ。忘れ物か?」 「いや……海でも山でも同じだと思って」    海も、空も、こんなに近くて、こんなに遠い。手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。  迅は今朝、海か山かどっちがいいかなどと問うてきたが、伊槻がどちらを答えても、きっとこの場所へ連れてきただろう。何か理由があるとするなら。遠い目をして海の彼方を見つめて、何を探しているのか。迅の目に映るものが、伊槻にも見えればいいのに。  いきなり、唇を奪われた。突然のことすぎて、反応できなかった。ただ、海の味がした。   「ん、あれ? 怒んねぇの」    指先で唇を拭われて、伊槻はようやく息を吸った。   「……急に何しやがんだ」 「ああ、よかった。気ィ失ったかと思ったわ」 「しかも、こんなとこで。頭沸いてんのか」 「だって、お前があんまり熱っぽく見つめてくるから、応えてやんなきゃと思って」 「なっ……んな目で見てねぇ」 「あっそーですか」 「都合いい解釈してんじゃねぇぞ。おれはほんとに」 「そういうことにしといてやるよ」    迅は、適当にあしらって行ってしまう。幸い、周囲に人影はなかった。地元民が使う抜け道的な扱いなのだろう。商店街に溢れ返っていた観光客の姿もない。  唇はまだ、じんわりと熱を持っている。迅は、かつて誰かとこの場所へ来て、そして、この先へも行ったことがある。海を越え、山を越え、うんと遠い世界の果てまで。そして、誰かというのは、きっと……  目には見えない、海の向こうに思いを馳せる迅の横顔を、伊槻はじっと見つめていた。  麓の商店街まで戻ってきた。喉が渇いてしまって、ソフトクリームを買った。爽やかなラムネの風味を舌の上で溶かしながら、橋を渡り、砂浜に降りる。来た時につけた足跡が、波打ち際に残っていた。   「帰りはどうすんだ。ここからなら、電車でも帰りやすいけど」    ヘルメットを被りながら、迅が言う。   「乗り換えなしで、一時間半くらい? 駅までは送ってってやるよ」 「おい。なんで電車で帰る流れになってんだよ。そいつはどうすんだ」 「俺はバイクでいいけど、お前は疲れたろ。電車なら寝られるし、楽だろ?」 「……気に入らねぇな」    伊槻がむくれて言うと、迅は不思議そうに首を傾げる。   「ここまで連れてきたんなら、帰りも責任持って送れよ」 「そういうこと言っちゃう?」 「言うね。もっとも、あんたが運転に自信がねぇクソ雑魚だってんなら、しょうがねぇから電車で帰ってやってもいいけどな」 「わーったよ。乗りな」 「ふん。慣れたもんだぜ」    迅の愛車。ミントグリーンのスクーター。ハンドルを握ると、エンジンが唸り、重い車体がゆっくりと動き始める。  行きとは違うルートで帰った。横浜の内陸部を横断して、北上する。サービスエリアに立ち寄って、夕食にラーメンを食べた。  多摩川を越えると、やがて見知った風景が現れてくる。無機質なビルの森、アスファルトの運河、天を塞ぐタワーマンション。騒々しいデジタルサイネージだの、煌びやかなネオンサインだの、ほんの半日離れていただけなのに、見慣れた街が懐かしく思えた。  帰る頃には、日が暮れていた。アパートの前を流れる川の対岸に、仄かな白い明かりが見えた。まだ若い、一本の染井吉野だった。今まで全く気づかなかった。こんなどぶ川にも桜が咲くのだ。ひとひらの花びらが、春の風に磨かれて、宵闇の空へ舞い上がった。

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