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第三章 ② 学校
「よぉ、伊槻。久しぶりじゃねぇの」
ネオン輝く夜の街で、トーマに会った。確かに久しぶりだった。数か月ぶりに顔を合わせた気がする。脱色した髪を金に染め、元々明るい茶髪ではあったが、派手さに磨きがかかっていた。
「珍しいじゃん、制服なんて。やっぱそっちのがウケんの?」
「そんなんじゃねぇよ。今日は別に、そういうのじゃねぇから」
「ふぅん」
往来で立ち止まり、トーマは煙草に火をつけた。変に甘い、バニラフレーバーの煙が香る。けれど、本物のバニラとは似ても似つかない。焦げくさくてほろ苦いばかりの、嗅ぎ慣れたあの匂いとも、まるで違う。無意識にそう思ってしまったことに、伊槻は内心舌打ちをした。
「噂じゃ聞いてたけど、マジだったんだな」
「……何が」
「最近ご無沙汰だってよ。ジジイ共が嘆いてるぜ」
「……」
迅の元へ入り浸るようになって、ウリをすることはなくなった。そんなことをする必要がなくなってしまった。高い小遣いは魅力だが、四畳半の気安さには到底敵わないのだった。掲示板への書き込みもやめ、アプリは閉じたままになっている。いまだにしつこく連絡を寄越してくる相手もいるが、ことごとく無視している。
「……そんな噂、どこから仕入れてくるんだよ」
「噂の方からオレの耳に入ってくんの」
肩を抱かれ、ふうっと煙を吹きかけられた。けほ、と軽く咽せた。
「ひょっとするとお前、本命でもできた?」
「っ、なわけ」
「あっそ。この後ヒマ?」
「暇じゃねぇ」
馴れ馴れしく肩に回された腕を払いのけた時だった。突然、背後から声が降ってきた。
「ちょっと~、うちのにチョッカイかけないでもらえる?」
迅だった。強く肩を抱き寄せられた。
「てかお前、なんでこんなとこにいんの。西口じゃなかったのかよ」
「っせぇな。あんなとこ、落ち着かねぇだろ」
「こっちの方が落ち着かなくない?」
伊槻は迅の手も払って、トーマに背を向け歩き出した。「やっぱり好い人できたんじゃん」という呟きには耳を塞いだ。
「どうだったよ、打ち上げは」
「退屈」
「二次会は?」
「カラオケ」
時刻はまだ八時半。夜の街をバイクで飛ばした。
今日は、高校の文化祭だった。去年までの伊槻なら、絶対に参加しなかった。学校も、教師も、クラスの人間も、大嫌いだった。あんな場所に伊槻の居場所などなく、自分を知りもしない相手と慣れ合うなんて、馬鹿のすることだとさえ思っていた。
けれど、今年は少し事情が変わった。何といえばいいのか、今年の教室は、さほど居心地の悪いものではなかった。誰も伊槻の事情を知ろうとしないのは以前までと変わらないが、クラスメイトは好意的に接してくれた。担任の教師も、退屈な大人ではあるものの、ただそれだけだ。学校は、案外悪いものでもないのかもしれない。
そんなわけで、今年は文化祭に参加した。いつの間に決まっていたのか、おそらく、ホームルームをサボっていたか居眠りしていたかのどちらかなのだが、クラスの出し物はアメリカンダイナーをテーマにした喫茶店に決まっていた。
店内装飾や、写真映えスポットの設置はもちろん、特に力が入っているのは、ホールスタッフの衣装だ。赤ストライプのシャツに、白いエプロン。裁縫の得意な生徒がいたのか、既製品なのかは知らないが、当日にはしっかり完成しており、伊槻もまた、これを着て接客することになったのだが……
「……なんであんたがここにいんだよ」
「いちゃ悪いのかよ? ドーナツとワッフルのセット、お願いね」
「……チッ。少々お待ちくださーい」
「え、ちょ、舌打ちした?」
二日目の昼前だった。教室に、迅の姿があった。部屋着と見紛う普段着で、しれっと席に座っていた。
招待した覚えはない。ただ、このところ、放課後は文化祭の準備で忙しく、家に帰るのが遅かった。何をしているのか、と問い詰められたことは一切なかったが、何か察するところがあったのだろうか。単純に、駅かどこかでポスターを見て、それで冷やかしに来ただけかもしれないが。
「お待たせしました~。デザートセットでーす」
紙皿に、温めただけのドーナツとワッフル。生クリームを絞り、カラースプレーがかかっている。迅は目をしばたかせた。
「……なんつーか、まぁ……」
「学生の模擬店なんざこんなもんだ」
「お前が言うなよ。なんか他におすすめねぇの」
迅がメニューを開いて言うので、伊槻はページを指し示した。
「一応、クリームソーダだな。三種類から選べる」
「じゃあ、普通の緑のやつで」
「はいはい。ちょっとお待ちくださいねー」
「この店員さん愛想悪くない!?」
スタンダードなメロン味の他に、ピンク色のイチゴ味と、真っ青なブルーハワイが選べる。作り方はどれも同じで、かき氷シロップを炭酸水で割り、最後にバニラアイスを浮かべるだけ。単純だが、色鮮やかで目を引く商品だ。しかもそれを、男が一人で飲んでいるのだから、余計に目立つ。おかげで、他のテーブルからも注文が入り、クリームソーダは大いに売れた。
昼時を過ぎ、客足も落ち着き、シフト交代の時間になった。エプロンを脱ぎ、制服に着替える。堅苦しいだけの服が、今は落ち着いた。
当然、迅の姿は教室にはない。もう帰ったのか、まだ校内にいるのか。いるとしたら、どこで何をしているのか。男一人でお化け屋敷に入っているとも思えないが。
「……何やってんだよ、こんなとこで」
校内を歩き回り、やっと見つけた。一階から三階まで教室を見て回り、講堂にまで足を運んだ。ちょうど軽音楽部がライブをしていたが、迅の姿は見つからず。もう一度校舎へ戻り、今度は北校舎を、下から上まで駆け上がった。
「ああ。探した?」
迅がいたのは、北校舎の一番端。天文部の研究発表が展示してあった。太陽黒点の観察に始まり、日食や月食、流星群の観測写真などが、解説文と共に展示してある。
「せっかく来たんだし、こういうのも見とかねぇとな」
「見て分かるのかよ」
「んー、まぁ、ちゃんと活動してるっぽいことは分かるぜ」
「全然分かってねぇじゃねぇか」
教室は無人。廊下も静まり返っている。メインの出し物は南校舎に集中しているため、致し方ない。
「一階の、書道部のやつ、見たか」
「ああ。二階は絵が飾ってあったな」
「……なぁ。もっと上、行こうぜ」
「なんかおもしろいもんあんの」
ぱた、ぱた、と足音がついてくる。無人の廊下に、迅の足音が響く。四階の階段を上がり、さらにその上。立ち入り禁止の看板を越えた。迅は、そこで一旦立ち止まった。
「えーっと……どこまで行くわけ」
「屋上」
「立ち入り禁止って書いてあるけど」
「普段は入れるんだ。今日もたぶん、開いてる気がする」
ドアノブを捻ると、簡単に回った。外へ出ると、空が近い。
「ほらな」
伊槻は笑い、振り返る。
「あんたも来いよ」
高台にある学校。屋上は整備され、ベンチや花壇が並んでいる。ちょっとした屋上庭園だ。フェンスの向こうは、見知った街並みが広がっている。この屋上よりも、ずっとずっと背の高いビルに見下ろされる。
「制服かわいかったのに、脱いじゃったの」
迅はベンチに腰掛けた。
「やめろ。寒気がする」
「褒めてんのに。フリフリのスカートとか履かせられなくてよかったじゃん」
「……最初、そういう話もあった」
「マジか」
「けど、そういう奇をてらったもんじゃなくて、普通に王道のダイナーがやりてぇって声のが多くて、まぁ、こうなった」
伊槻は、スラックスの裾を摘まんだ。シャツとエプロンは衣装だが、ズボンは自前である。無論、ウェイトレスの衣装として、ストライプ模様のミニスカートも、何着か用意されているが。
「クリームソーダ、うまかったな」
「おれが作ったわけじゃねぇけどな」
「今度家でも作れよ」
「だから、おれが作ったんじゃねぇって」
伊槻もベンチに腰掛けた。湿った風にそよぐ花。小鳥のさえずり。空を流れる白い雲。鉄道や自動車の走行音。クラクションや、踏切の警報音まで、耳を澄ませば聞こえてくる。
校内の喧騒を逃れて、無人の屋上は静寂だ。けれども、下の教室のような、ひっそりとした息の詰まる静けさとも違う。
「……あんた、なんで今日来たんだよ」
「別に。お前が学校でどんな感じかなーと思って」
「結局冷やかしか」
「なんでそう捻くれた見方しかしねぇかな。その制服もいいと思うぜ」
迅は、ロリポップキャンディをポケットから取り出した。包装を剥いて頬張って、にやりと笑う。
「……きめェこと言ってんじゃねぇ」
「どうせなら学ランも着てほしいんだけど、さすがに暑いか」
「教室まで走って行って取ってきてくれんなら、着てやってもいいぜ」
「冗談きついわ。なんで俺がんなこと」
「……冗談じゃねぇっつったら?」
伊槻は迅ににじり寄る。その手を握り、シャツのボタンの隙間に、指先を滑り込ませた。胸元に、ひやりとした感触が心地よかったが、迅はすぐに手を払った。
「さすがの俺でもそこまでしねぇよ? んな危ない橋渡れるかっての」
「どうせ誰も来ねぇよ。立ち入り禁止の看板、見えなかったのかよ」
「それ飛び越えたのお前な? 俺はちゃんと注意しました~」
「ついでに小遣いせびろうと思ったのに」
「どうせそんなこったろうと思ったわ。つか金ねぇし。学校でなんかするわけねぇだろ」
迅は呆れたように肩を竦める。
「……別に大したことじゃねぇだろ。あんただってどうせ、昔は学校でヤリまくりだったくせに」
「なっ、んなわけねぇだろ。どんな猿だよ」
「……」
伊槻がじとりと冷たい目を向けると、迅は焦ったように取り繕った。
「そっ、そりゃあ、まぁ、多少はな? 俺くらいの色男になりゃあ、あっちこっちから引っ張りダコでよぉ」
「マジかよ。引く」
「はっ? てめ、カマかけやがって」
ぐいと胸倉を掴まれた。薄い雲に散乱した光が差す。目元に影が落ち、伊槻はぎゅっと目を瞑った。
予想通り、唇に熱が触れた。しかしそれは、想像以上に甘く、そして固い。丸い塊を、ずぼっと口内へねじ込まれた。
「……甘ェ……」
「やるよ。差し入れ」
「……つかコレ……隣のクラスが配ってるやつじゃねぇか」
伊槻の隣の教室では、二年生がお化け屋敷をやっており、そこの出口でキャンディを配っているのだ。
「あんた、一人でお化け屋敷入ったのかよ。それこそ正気の沙汰じゃねぇ」
「悪いかよ。よくできてたし、結構怖かったぜ? 飴ももらったし、来場者アンケートで票入れてあげようと思って」
「……こういうのって、賄賂だよな」
甘ったるいばかりのイチゴ味を、伊槻は舌で転がした。
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