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第三章 ③ 制服

 そんなことがあったのが、数時間前だ。後夜祭を終え、クラスの打ち上げでしゃぶしゃぶの食べ放題に行った。二次会はカラオケに行くらしいが、伊槻は一次会で離脱した。事前に約束していた通り、あのミントグリーンのスクーターで、迅は伊槻を迎えに来た。  昼間は汗ばむ陽気だが、夜はまだ風が冷たい。学ランを第一ボタンまでしっかり留めた。  真っ直ぐ家に帰るのだと思っていたが、バイクは交差点を右折する。皇居を回り、上野公園を過ぎ、隅田川を南下する。川向こうに、電波塔の明かりが見えた。水色から、薄紫、橙色へと、ゆっくりと色が変化していく。  やがて川沿いを離れ、都心を駆け抜け、湾岸沿いへと進んでいく。ビルの狭間に、赤い電波塔が覗いた。ループ橋を越え、埋め立てて造った人工の島へと渡る。いよいよ海風が冷たく、伊槻は迅にしがみついた。  こうして、バイクの後ろに乗せてもらうことにも慣れてきた。初めは重く感じたヘルメットも、今は馴染んでいる。迅の駆るバイクで風を切っていると、自由になれる。自分でバイクを転がせば、もっと自由を感じられるのだろうが、今はまだ、この狭いタンデムシートが心地よかった。   「っし。この辺か」    いくつかの橋を越えて運河を渡り、港湾の埋立地を走ってきたが、迅はようやくハンドルを切り、バイクを停めた。  埠頭の広場から、臨海の夜景を見渡せた。たった今渡ってきた吊り橋が、ライトアップされて波間に揺れていた。まるで、朝露を帯びた蜘蛛の糸だ。真四角に切り取られた高層ビルのガラス窓が、金や銀に縁取られていた。高架を走る鉄道や、橋梁を渡る自動車のヘッドライトが、鮮やかな運河のように流れていた。時折、赤い光が明滅し、青や緑や紫の光が、そこら中に散りばめられているのだった。  星の見えない都会において、この光こそが天の川だ。辺りには街灯もなく、対岸の明かりは一際眩しい。暗闇の中へ氾濫してくるようだった。  海べりの手すりにもたれて、迅は煙草を咥えた。胸ポケットからライターを出して、火をつける。氾濫する光の中で、唯一伊槻の手が届くのは、この小さく温かい炎だけだ。  そう思うと、気が遠くなる。無数に重なる光の粒、無限に広がる光の海、その一つ一つに、人一人の営みがある。あのガラスの一枚一枚、テールランプの一滴一滴、果てしなく連なって見える街路灯も鉄塔も、誰かの営みそのものなのだ。そう思うと、途方もないように思えてくる。  しかし同時に、冷たく、よそよそしく、息苦しいばかりと思っていた街並みが、少しばかり親しみやすく感じられた。あの無数の光のどれか一つに、伊槻の人生も重なっている。そしてきっと、迅の人生も。  この無数の光の中にあっては、どれもこれもが取るに足らない人生で、しかし、どんなにくだらない生であっても、丸ごと懐へ抱え込んでくれる。それだけの度量が、この街にはある。そんな風に感じられた。   「……おい」 「ん?」 「とぼけてんじゃねぇ。何だよ、この手は」 「んー、まぁ。昼間の続き、してやろうと思って」 「んだよそれ」    呑気に煙草をふかしながら、迅の手は伊槻の腰に回っていた。きつく抱き寄せるというよりは、輪郭を確かめるように撫でられる。下から上、上から下へ、大きな手が滑っていく。   「はっ。制服のがウケがいいって、マジだな」 「おー。年相応って感じがして、いいよな」 「ヘンタイ」 「脱いでもいいんだぜ」 「寒ィからヤダ」 「ふーん」    体を弄られてはいるが、あまり性のにおいは感じなかった。それこそ、犬猫を撫でる時のような……いや、そこまでの慈しみも感じられない。ただの手慰みか、制服のごわついた感触を懐かしんでいるのかもしれなかった。  現に、迅は伊槻を見もしない。目の前に広がる夜景か、唇に咥えている煙草の味か、その両方に集中していた。   「……あんた、前にも誰かとここに来たのか」    伊槻が言うと、迅は初めて振り返った。その質問自体が意外だという風に、目を丸くする。   「いんや? 初めて来たけど」 「そうかよ」 「なに。妬いてんの」 「んなわけ」 「そ? 俺はちょっと気になるけどね」    腰回りを弄っていた手が、いきなり、足の間へ滑り込む。思わず膝を閉じてしまうが、そんなことでは反抗にもならず、さらに深い侵入を許してしまう。手首の辺りまで、太腿で挟み込む形になる。   「さっきの金髪。あれ誰? とか、ちょっとは思ってるけど」 「っ、ん……」    際どいところを撫で回される。膝が震えそうになって、伊槻は欄干を握りしめた。  道中、迅は何も言わなかった。あの男、トーマについて、一言も尋ねなかった。だから、興味がないのだと思っていた。あの男の手引きでウリをしていたことも、あの金髪に、抱かれたことがあることも。伊槻が誰と関係を持とうが、どうでもいいと思っているのだと思っていた。  そもそも、そんなことを気にする方がおかしな話だ。所詮は、肉体ありきの関係。セックスから始まった関係だ。同世代の少年少女が、クラスメイトや部活の先輩に淡い恋心を抱いているのとは、根本的に異なる。そんな初々しさ、純粋さとは、比べるのも烏滸がましいほどにかけ離れている。  それに、迅はとっくに知っているのだ。伊槻が、不特定多数の男と関係を持っていたことを。この股がどれだけ緩いか。この尻がどれだけ軽いのか。知らないはずはない。出会いからして、そうだったのだから。   「真っ昼間の学校よりは、まだ健全だろ」    いつの間にか、手は太腿を離れて、尻を揉みしだかれていた。確かに、昼の学校よりは夜の埠頭の方が、不健全な自分達にとってみれば、幾ばくか健全だろう。  スラックス越しにも、迅の手の温かさや、頑丈さが伝わってくる。いい加減に見えて、丁寧な指の動きも。自然と腰が揺れてしまう。   「こんなに感じやすくて、大丈夫か?」 「っ、せぇ……ん、ぅ……っ」    だったら手を離してほしい。違う。自らこの手を叩き落せばいい。なのに、それができない。与えられる快楽に身を委ねて、抗うことすら考えられない。ただ欄干にしがみついて、揺らぐ水面を見つめ、しゃがみ込まないようにするだけで精一杯だ。   「ぁ、そこ……」 「気持ちいいんだ」 「や、ぅ……やっ、やっ……」 「ヘンタイはどっちだよ」    穴でもなく、性器でもない。その中間に位置する、何もない場所。何もないはずなのに、ぐりぐりとほじくるように擦られると、前立腺を直接刺激されているかのような感覚に襲われる。まともに声を発することもできない。甘ったるく掠れた吐息が漏れるだけだ。   「あ、ぅ……あっ、ぁ……」    無数に散らばる都会の明かりが、滲んで、ぼやけて、瞬いた。煙草の火の、弾ける音がさやかに響いた。  呆気なく、イかされた。媚びるように腰が揺れ動く。足に力が入らず、地べたへと崩れ落ちる。どうにか声だけは噛み殺したが、迅には全て伝わっただろう。綺麗なままの手で、伊槻の頭を撫でた。   「理由なんかねぇよ。ちょっと遠回りしたかっただけ。レインボーブリッジも渡りたかったしな」    懐から携帯用の灰皿を出す。長く積もった灰を落とし、ほとんど燃え尽きていた煙草を消した。ぐったりと欄干にもたれて息を切らしている伊槻とは対照的な、涼しい顔に腹が立った。   「用もねぇし、そろそろ帰──って何してんだ!?」    力が入らないながら、伊槻は迅の足元ににじり寄り、ベルトのバックルに手をかけた。カチャカチャと金属を擦れさせ、ベルトを外す。すぐに迅の手が伸びてくるが、唇でジッパーを下ろし、そしてそのまま、その奥に眠っているものに噛み付いた。触りもしないのに、既に兆し始めていた。   「ふん……どっちがヘンタイだよ」    伊槻が口角を上げて挑発すると、迅は若干気まずそうな顔をしながらも、挑発を受けて立つという風に、口の端を意地悪く歪めた。   「言ってくれんじゃん」    頭を押さえ付けられる。逞しい指に、癖のない黒髪が絡む。唇で摘まんで下着をずらすと、雄の象徴が飛び出てきて頬を打った。ぱくりと口を開き、舌を差し出す。ちらりと視線を上げると、迅の視線が注がれていた。  熱っぽい視線、というわけではなかった。ただ、伊槻の一挙手一投足に注目していた。何一つ見逃さないという風に、じっと見つめられていた。唾液を溜めた舌の上に、ペニスの先端をのせて包み込むと、堪え切れなかった吐息が降ってきた。  シャワーを浴びていない。雄のにおいがあまりに濃い。咽返りそうになりながら、喉の奥まで迎え入れた。下生えが鼻に触れてくすぐったい。   「……こんなとこ、誰かに見られでもしたら、即お縄だな」    自嘲気味に呟きながら、伊槻の頭を押さえて離さない。派手な動きではないが、僅かに腰が動いている。喉奥を擦られながら、伊槻は懸命にしゃぶり付く。   「やっぱ、フェラうめぇな」    汗ばんだ手が、後頭部から耳元へ伝う。膨らんだ頬を撫でられ、やがて、首筋に指先が入り込む。学ランの第一ボタンを外される。同様に、シャツのボタンも外される。上から一つ、二つと順番に、ぷちん、ぷちんと外されていく。やがて、無防備になった胸元に掌が滑り込んだ。  薄い胸を手探りで弄られ、敏感な突起を探り当てられる。くりくりと優しく撫でられ、捏ね回されて、右が終われば左、左が終われば右と、手慰みに弄ばれる。絶妙な力加減がもどかしい。思わず胸を反らせてしまうと、痛いくらいの力で抓られ、弾かれ、その後また、指先で優しく甘やかされる。  下着の中が張り詰めていく。先程自分で出したものが、下着の中で擦れている。粘着いて生温かなその感触が、気持ち悪いのに気持ちいい。自然と腰が動いてしまうと、余計に擦れてもどかしい。ただ男のものを頬張っているだけなのに、こんなにも浅ましい姿を晒して、恥だと思うのに止められない。  視線を上げると、前髪の隙間に迅の姿が覗いた。その視線は迷いなく、真っ直ぐにこちらへ注がれている。その証拠に、目が合った。揺れる前髪の向こうに、ばっちりと目が合った。   「っ、ぅ……んん゛っ────ッッ!」    ガクガクと腰が震えた。頭を両手で押さえられ、喉奥まで咥え込まされる。えずきそうになった瞬間、喉が灼けた。  いや、違う。注ぎ込まれた。男の熱が。欲望が。舌先から胃の腑まで、真っ直ぐに流れ落ちていく。溶岩を思わせる、粘着いた熱い体液に、体を内側から炙られる。  頭を両手で押さえられたまま、ゆっくりと性器を抜かれた。濡れた口腔内を、熱を持ったままの肉塊が刺激する。上顎を擦られて、精液を塗り付けられる。咽返るほどに濃厚な性の匂いが、舌先を麻痺させる。この位置から夜景は見えないのに、鈍く滲んだ視界の端に、チカチカと星が瞬いて見えた。   「っ……げほっ、ごほ」    ようやく息が吸える。咳込みながら、口元を拭った。注ぎ込まれたもののほとんどを、不可抗力的に飲み込んでしまったが、青苦いそれは、舌や喉にまだまとわり付いている。  それから、下着の中も。自分でも信じたくないが、喉を突かれて達してしまった。下着の中は大洪水だ。ベタベタのどろどろで、動くと擦れて気持ち悪い。座り込んだまま動けずにいると、迅が手を差し伸べてくる。逞しい腕に掴まって立ち上がる。   「制服汚れてねぇ? クリーニング代もバカになんねぇからな」 「ん……」 「帰ったらさぁ、小遣いやろうか。俺にしちゃめずらしいだろ。特別に奮発しちゃうぜ」 「……いらねぇ」 「なんでだよ、人がせっかく。まぁ、やれるとしても千円だけど」 「やっぱいる」 「どっちだよ」 「いる」 「はいはい。お前って時々分かんねぇよな」    一度振り払った手を握り直した。まだ少し、足元がおぼつかない。頭がくらくらする。今だけ寄り添っていたかった。  帰りは別のルートで、というより、最短ルートで帰った。寄り道はせず、遠回りもせずに、真っ直ぐ帰った。遠くから見えていた夜景は、近くで見ても綺麗だったが、ただ少し、直視するには眩しすぎた。  小遣いをくれると言われて、小さな棘が刺さったように、心臓が痛んだ。その後、金額を聞いて、千円ぽっちならもらってもいいと思った。けれども、刺さった棘はそのままだ。小さい棘でも、ちくりと痛い。  この棘の正体が何なのか、伊槻は考えることをしなかった。いや、違う。考えたくなかったのだ。その正体に辿り着いた時、どうすればいいのか分からない。だから、考えることをやめた。  頭の中は、濡れた下着のことでいっぱいだ。帰ったら即シャワーを浴びて、服を替えたい。そのことだけを考えて、夜の都心を横切っていく。

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