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第四章 ① 友

 夢を見た。血生臭い夢だった。男の死体が血の海に沈んでいた。両手が返り血にまみれていた。初めて感じるはずの生温かい感触を、伊槻はとうに知っていた。  もう一つ、少年の影があった。逆光で顔は見えなかった。彼の両手も、真っ赤な血に濡れていた。血の色だけが、目を見張るほどに鮮やかだった。  玄関のチャイムが鳴り、目が覚めた。古い扇風機が、足元でカタカタ音を立てながら回っている。嫌な汗を掻き、全身が冷たい。  もう一度、チャイムが鳴った。もつれる足を引きずって廊下に出て、玄関を開ける。ドアの前には、迅と同い年くらいの男が立っていた。きょとんと目を丸くして、「ずいぶん小っちゃくなったなァ」と大真面目に言った。  むっとして、伊槻は、開けたばかりのドアを勢いよく閉めた。が、すかさず、男の足が滑り込んできて、ドアを閉めさせまいとする。   「てめっ、離れろよ、この変質者が」 「じょ、冗談! 冗談でしょうが! ていうか、あれ? 迅は? ここ、あいつの家と違うの」    迅の名前が出たことで、伊槻はふと力を緩める。しかし、これ幸いとばかりに、男が無理やりドアをこじ開けて、半身をねじ込もうとしてくるので、伊槻は必死にドアノブを握りしめて抵抗した。   「ちょ、やめ、挟まる! 挟まるから!」 「挟まりたくなかったら、とっととその足をどけな」 「そんなご無体な」    薄いドアを挟んで、ドッタンバッタンの大騒ぎだ。   「つーか、あんたあいつの何なんだよ? いきなり家押しかけてくるなんざ」 「キミこそ、迅のなに? まさか隠し子!」 「お、おれは……何だっていいだろうが」 「言っとくけどなぁ、オレはあいつの大親友! この家だって、何回も来たことあるし!」 「っ、おれだって……」    どう答えたらいいか分からなかった。伊槻は迅の何なのだろう。きっと何でもない。言葉で表せる関係じゃない。  いよいよ腕が限界だった。指が千切れるか、ドアノブが千切れるかの二択といったところ。しかし、ここで諦めたら、変質者をみすみす家に上げることになってしまう。それだけは避けなければ……   「おいてめー! やっぱりか!」    迅の声がした。一気に気が抜け、手を離してしまう。ドアは勢いよく開き、男の顔面に直撃し、額に大きなこぶを作った。  男は確かに、迅の昔馴染みらしかった。柳、と迅は男を呼んだ。なぜ家まで押しかけてきたのか、いきなり来るやつがあるかよ、というようなことを玄関先で捲し立てていたが、最終的には迅が折れて、家へ上げてやる形となった。   「こいつ、しばらく宿なしらしいから、泊めてやることになったから」    ぶっきらぼうに迅は言い、柳の荷物を伊槻に押し付けた。その辺に適当に転がしておけという意味だろう。   「……ホームレス?」 「違わい!」 「こっちに転勤になったのに、部屋借りられなかったんだと」 「それも違う! いいか? 部屋は借りた。が、入居日がまだ先で、それで行き場をなくしたってだけ」 「へーへー。もう何でもいいや。お前が間抜けっつー事実は変わんねぇから」 「迅~。それが親友に対する態度かぁ? ところで、この子は?」    スーツケースにボストンバッグにリュックサックに、大荷物を部屋へ運び入れる傍らで、柳は伊槻の頭に手を置いた。迅は伊槻を一瞥し、面倒くさそうに頭を掻いて答えた。   「……親戚のガキ。預かってんの」    一拍置いて、「へぇ」と柳は言った。   「殊勝なこったなぁ」 「うるせー」 「キミ、名前は? オレは柳修二です~」 「……伊槻」 「伊槻クンかぁ~。ほんじゃまぁ、しばらくよろしくなぁ」    馴れ馴れしく、頭をわしわし撫でられた。その間、迅はずっと背中を向けていた。  いつの間にか、窓の向こうが夕日に染まっていた。おそらく、柳から連絡を受けてすぐに、迅は仕事を切り上げて帰ってきたのだろう。少し早い夕食は、出前の寿司を取った。二人で折半しようとする柳を押し切って奢らせることに成功した迅は、上機嫌で中トロをつまみ、冷えたビールを流し込む。   「ちょお、今のトロ何貫目? オレの分がなくなるやろが」 「ケチケチすんじゃねぇよ。まだこんなにあんだろうが」 「オレの財布から出てってるのに、ケチもクソもないわ」 「一泊分の宿賃と考えりゃ安いだろ」 「確かにリーズナブル~……なわけあるかい! ぼったくり!」    最初に声を聞いた時から思っていたが、柳は若干の訛りがある。酒が入り、大声でべらべら喋り始めると、より顕著だ。   「柳さん。あんた、関西の出身なのか」 「あは、わかっちゃった? けど、小学生の頃にこっち越してきたから、そんなには住んでない。就職は向こうでしたけど、今またこうして戻ってきてるわけだし、何とも言えへんね」 「ふぅん……」    伊槻は一人、麦茶を飲む。大人二人は酒を酌み交わしているのに、自分一人だけ取り残されたように感じた。この狭い部屋で、迅を遠くに感じる。  この気持ちは何なのだろう。寂しいわけではないのだ。ただ、複雑な気分だった。柳と楽しげにしている迅の姿も、迅と楽しげにしている柳の姿も、ひどく遠い存在に思えた。目には見えない境界線が引かれているように思えた。  酒盛りは夜遅くまで続いた。伊槻は先に布団に入り、横になった。うとうとしていると、小声でひそひそと会話しているのが聞こえてくる。   「しっかし、驚いたわ」 「なにが」 「あの子。お前、親戚付き合いとかちゃんとするタイプやったか」 「……たりめぇだろ。俺にだって、親戚の一人や二人や三人や」 「わかってるって。火ィくれる」    暗がりに仄かな明かりが漏れる。二人分の煙が夜風に揺らめく。ほろ苦い煙に視界を奪われ、伊槻はいつしか目を閉じていた。        早朝、耳慣れない音楽が爆音で鳴り響いた。当然、伊槻は飛び起きて、布団から体を半分はみ出させて眠っていた迅も、布団を蹴飛ばして跳ね起きた。しかし、その震源地である男、柳は、微動だにせず眠っている。   「おいてめっ、家主を叩き起こしといて、自分はすやすやご就寝か? いい度胸じゃねぇかよ」    恨みのこもった拳で、迅は柳を叩き起こす。柳がようやく目を覚まし、眠い頭が覚醒したところで、爆音の音楽は鳴りやんだ。   「やー、すまんすまん。ちいとうるさかったな」 「ちょっとどころじゃねぇわ! しかも何だよ、このふざけた曲は」 「だって~、これやないと起きれなくて」 「どっちにしろ全然起きれてねぇだろうが」    柳は悪びれる素振りもなく呑気に笑い、朝一番のストレッチを始める。寝起きだというのに元気なことだ。この騒動で朝からどっと疲れてしまい、伊槻は再び布団に戻る。   「で、お前はなに二度寝しようとしてんだよ? どうせ起きたなら諦めて起きとけや」 「んー……だってまだ早ぇし」 「そうやって何回遅刻したよ」 「っせ。もう……今日サボる」 「そやったら、今日一日、オレに付き合うてよ」    柳の言葉に、「は?」と伊槻と迅の声が重なった。       「やー、すまんね。せっかくの休暇やのに、迅は仕事やっちゅーし、まぁ一人で来てもよかったんやけど、おっさん一人ってのも気まずいし。若者が一人おってくれたら、心強いわ」    伊槻は、半ば強引に柳に連れられて、昨年リニューアルオープンしたばかりの商業施設を訪れていた。迅と二人では絶対に訪れないような、おしゃれな空間。伊槻自身、来るのは初めてだった。   「ホントにケーキいらんの」 「さっき下で食ったし」 「ありゃケーキと違うやん」 「似たようなもんだろ」    ショッピングフロアを一通り巡った後、エレベーターで展望フロアへ。今は、併設のカフェで一休みしている最中だ。   「……なぁ、あんた」    伊槻は、コーヒーフロートのバニラアイスを溶かしながら口を開く。   「“あおい”って、知ってるか」    柳は、きょとんと首を傾げる。   「ダレ?」 「……知らないならいい」 「ちょおっ、そりゃないわ。余計に気になるでしょうが」    伊槻は口を噤み、コーヒーフロートを掻き混ぜた。   「……あいつの……元カノ…的な……なんか、そういうの」    思わず歯切れが悪くなる。こんなつもりではなかったのに。そんな伊槻に対して、柳は明快に答える。   「知らんな」 「……だよな」 「そもそも、浮いた話の一つも聞いたことがない」 「それはさすがにウソだろ」 「ほんまほんま。ちゅーても、オレが知らんだけかもしらんけど」    柳は、ホットコーヒーに角砂糖を入れて掻き回し、冷ましながらゆっくりとすする。   「ま、オレも高校からの付き合いやから、それ以前のことは知らんけど。少なくともオレの知ってる範囲では、あいつ、彼女もいたことないんと違うかな。全然モテへんわけでもなかったのに、惜しいことしたよな」 「告白とかはされてたってことか」 「んー、まぁ? たぶん。そんな噂は聞いたことある。けど、付き合ったとかは一個も聞いたことないから、全部フッてたんと違うの」 「じ、じゃあ、童貞ってことか……?」    初めて知る何気ない情報がいちいち気にかかり、つい口を挟んでしまう。大真面目に発された伊槻の言葉に、柳は堪らず吹き出した。   「そりゃさすがにないやろ~。もしそうなら、今頃魔法使いになっとるわ」 「でも」 「あいつもいい大人やで。オレもやけど。ひとには言えない出会いの一つや二つ、あるんと違う?」 「それって……」    伊槻と迅の関係、そのままではないか。ひとには言えない。誰にも明かせない。秘密の関係。十年来の友人にさえ、親戚の子を預かっているなどと、真っ赤な嘘を垂れ流すことしかできない、そんな関係。   「アハハ、高校生にはちと刺激的すぎたかな? そう怒らんで」 「おこっ……てねぇけど。それでその、“あおい”のことは」 「う~ん。悪いけど、ほんっまに分からん。心当たりが微塵もない。同級生の名前なんか、いつまでも覚えてられへんし」 「……だよな」 「オレなんかに聞かないで、あいつに直接聞いたらいいやん」 「それはダメだ」    思わず、テーブルを叩いてしまった。振動で傾いたグラスを、柳が間一髪で支えてくれる。   「わ、悪い……」 「ま、事情は分かった。あいつには何も言わんでおくよ」 「助かる」 「そんなにピリピリせんで。ほれ、ケーキあげるから、機嫌直して」 「いや、だからいらねぇって……」    チーズケーキを、半ば強引に勧められ、結局一口もらってしまった。        帰路につく頃になると、日はようやく傾き始め、涼しい風が吹き始めていた。足は自然と、迅のアパートの方角へ向いていたが、伊槻はふと足を止める。このまま帰っていいものだろうか。   「どうしたん」    柳も立ち止まり、振り返る。   「……帰ろうかと思って」 「うん? うん。今帰ってる最中やろ」 「……じゃなくて、自分の家に」    柳は不思議そうに目をぱちくりさせる。   「実家、この近くなん?」 「……まぁ、そうだ」 「へ……じゃあ、なんでわざわざあいつンとこおるん?」 「それは……」    本当のことなど言えるはずもなく、口籠る。   「オレはてっきり、キミが不登校なもんで、親御さんが手ェ焼いてるのかと」 「なんでそうなるんだよ」 「だって、学校サボるのに慣れてそうやったし。昨日も、だいぶ早い時間に訪ねてったのに、なんか家におったし」 「それは……昨日は定期テストだったから、早帰りだっただけで……今日だって、試験明け一発目の授業なんか、出ても出なくても一緒だから……」 「ほお」 「それに、別に慣れてなんかねぇ。久しぶりだし、今年入ってからは、ちゃんと……。とにかく、今日は自分ン家帰るから。あんた、しばらくあそこに泊まるんだろ。おれがいちゃ、手狭になるし、迅にも悪いし、邪魔になんだろ。あいつに聞かれたら、適当に答えといてくれ。心配しなくていいからって。それじゃ」 「えっちょ、伊槻クン……」    何もかもが嘘だらけだというのに、すらすらと淀みなく言葉が流れた。柳は訝るような顔をしていたが、伊槻はその眼差しを振り切って、逃げるようにその場を離れた。柳は追いかけてこなかった。  ただ、会いたくなかった。帰りたくなかった。今夜もまた、伊槻の知らない顔で笑う迅の姿を見るのは、考えただけで気分が沈んだ。慣れないことをして暗い気持ちになるくらいなら、帰る場所なんて必要なかった。  柳はいい。高校の同級生で、腐れ縁の関係という、立派な肩書を持っている。会いたければ、手土産を持って会いにくればいい。手土産がなくたっていい。出前を取り、酒を酌み交わして、夜を明かせばいいのだから。  だが、伊槻はどうだ。伊槻は迅の何なのだろう。昨日のようなことが何度も続いたら、所詮はセックスで繋がった関係なのに、約束が果たされないまま夜を明かすようなことが、この先何度も続いたら、それこそ、二人の関係を形作るものは、全て消えてなくなってしまう。  ただでさえ、蜘蛛の糸で繋がれたような関係だ。結び付けるものが何もなくなった時、伊槻が迅のそばにいる理由はなく、迅が伊槻をそばに置く意味もなくなってしまう。そんな風に感じて、一言で言えば、恐ろしかった。  これはただの僻みだ。妬ましいだけだ。何の負い目もなく迅の隣にいられる柳のことも、気を許せる友人を持つ迅のことも、羨ましい。高校時代の友人が、十年経った今でも急に訪ねてきてくれて、二人で酒を酌み交わすことができるなんて、まるで普通の人間みたいだ。  迅のことを、自分と同じ欠けた人間だと思っていた伊槻は、身勝手にも落ち込んだ。伊槻が、およそ一生かけても手に入れられそうにないものを、迅は既に持っている。迅が、自分とは違う人間なのだということを、否が応でも思い知らされる。  男同士の出会いの場となっているあの公園へ、自然と足が向いていた。家に帰るなんて言ったが、他に行けるところもない。今夜はここで適当な相手を見繕って、ホテルでも何でも連れていってもらおう。雨風を凌げて、シャワーを浴びられれば、どこでもいい。   「ねぇ、君」    早速、でかい魚が釣り針にかかる。   「いくら?」    迅より少し年上だろうか。迅よりも小綺麗にしており、身なりもしっかりしている。どことなく、高級なにおいがした。街灯もない、こんな薄暗い公園で、夜な夜な少年を買い漁っている男だなんて、きっと誰も思わないだろう。   「……いくら出せんの」    喉の渇きに耐えかねてコンビニで買ったアイスキャンディの棒を舐めながら、伊槻は言った。  男に連れられ、夜道を歩く。向かう先は、手近なホテル街。雑然として無秩序で、卑猥なポスターやどぎついネオンで溢れている、そんな街。かつては伊槻の庭だったこの街が、今夜はどうにも近寄りがたい。暗闇が口を開けて待っている。  男に手を握られる。粘度の高い汗が滲みてくる。伊槻が震える手で握り返すと、男は上機嫌になり、唇を合わせてきた。  不気味なほど柔らかい唇。ぬるついた唾液の味。伊槻は思わず顔を背けた。声を出さなかっただけ、まだマシというものだ。   「キスは嫌いかい」 「っ……いや……そうじゃない」 「でも、顔色悪いね。早く部屋で休もうか」    肩を抱こうとする男の手を、伊槻は振り払った。やってしまった、と思った。この状況では、どう考えても悪手だ。だが、そうせざるを得なかった。   「ごめん、なさい……やっぱおれ、今日は、ちょっと……」    男は呆気に取られている。それもそうだ。伊槻が逆の立場でも、きっと同じ顔をする。   「体調悪くて……無理、かも」 「……でも、君の方から」 「そう、だけど……でも、やっぱり……」    できない。ごめんなさい。と頭を下げて謝った。男は、納得した様子ではなかったが、いつまでもこの場に留まるわけにもいかず、渋々と立ち去った。  伊槻は、また一人に逆戻り。いい金蔓になりそうだったのに、逃してしまった。今夜の宿も、食事も、全てがぱあだ。  カップルなのか、嬢と客なのか知らないが、男女がホテルに吸い込まれていく。こんな光景を目にしていると、セックスなんて本当に大したことのない営みに思えてくる。今になってみれば、さっきの男とすればよかったとさえ思える。  だが、あの手の感触。唇の感触。思い出しただけで毛が逆立つ。やっぱり、やめておいて賢明だった。というより、いざしようと思っても、きっとできなかった。体が受け付けなかっただろう。  結局のところ、伊槻に帰れる場所などなく、またあの公園へ舞い戻った。すっかり夜も更け、この時間になってしまえば、男を物色する物好きも多くはない。なるべく人目につかない、奥まったところにある野晒しのベンチで横になった。

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