11 / 18

第四章 ② 教室

 いつからこんなことを続けているのだったか。あれは確か、兄に初めて手を出されてすぐのこと。  一晩と置かず体を求められ続け、身も心もすり減っていた。目に映るもの全てが虚ろに、この身を含めた何もかもが紛い物のように感じられる。限界まで追い詰められた精神は、いつ壊れてもおかしくない。そんな折、面談と称して、担任教師に呼び出された。   「単刀直入に言うが」    呼び出されたのは、北校舎の四階端。理科実験室の隣にある資料室。机を向かい合わせに突き合わせて、面談が始まった。   「悩みがあるなら話してみなさい」    埃っぽい教室。普段は使わない実験器具や、危険な薬品、標本資料などで溢れ返っていた。ブラインドの隙間から西日が漏れて、埃がキラキラ光って見えた。   「……何もありません」    長い沈黙の後、伊槻は答えた。担任は困ったように溜め息をついた。   「何もないことはないだろう、そんな顔をして」 「……」 「学校はまだ馴染めないか? 考えたくはないが、嫌がらせのようなことをされているとか? 遠慮しないで、何でも言ってみなさい」    伊槻は、膝の上で拳を握り、黙って俯く。言えることなど何もない。   「それじゃあ、家庭で何か問題が?」 「っ……」    伊槻の顔色の変化を、担任の男は目敏く感じ取ったに違いない。僅かに身を乗り出した。   「お母さんの再婚で、こちらへ越してきたんだったな。話は聞いているよ。ストレスの原因は、環境の変化か? 新しい家は、居心地がよくないか?」    伊槻は拳を握りしめる。全部言ってしまいたい。全てぶち撒けて、そうしたら少しは楽になれるかもしれない。胸のつかえが取れるかもしれない。   「もしも言いにくいことなら無理にとは言わないが、誰かに話して楽になることもあるんじゃないか? 場合によっては、私の方からご両親に話をさせてもらうってことも」 「それはっ……!」    伊槻が初めて大声を上げたので、担任は驚いて目を丸くした。いきなり感情を露わにしてしまったことに、伊槻自身も驚いた。   「そ、れは……ダメです、絶対……。親には……母には、知られたくない」 「それなら、誰にも口外しないと約束するよ。他の先生方にも、もちろんご両親にも」    担任はおもむろに席を立ち、教室の鍵を締めた。廊下に続くドアも、実験室へ続くドアも、どちらも施錠される。   「これで、誰に聞かれる心配もない」    安心させるように笑いかけられ、伊槻もぎこちない笑みを返した。  話してしまっても、いいのだろうか。話すとして、どこから? どこまで? 打ち明けたところで、信じてもらえるだろうか。荒唐無稽な作り話だと、一笑されてしまいやしないか。何か話そうとしては口籠る伊槻を前に、担任は口を開いた。   「高校生のお兄さんがいたね?」    その言葉に、ビクッと体が強張った。兄の姿が脳裏を過る。ただそれだけで、体が思うように動かない。胸が苦しくて、うまく息ができなくなる。   「どうしたんだ、そんなに震えて。寒いのか?」    担任は椅子を移動させ、伊槻の隣に座り直した。安心させるように寄り添って、伊槻の背中を強く摩る。   「お兄さんと喧嘩でもしたか? よっぽど酷いことをされたんだな、可哀想に」 「っ……ち、が……」    早鐘を打つ鼓動を止めたくて、伊槻は両手で胸を押さえる。けれども動悸は止まらない。   「けんか、なんかじゃ……あんな……あんなの……」    渇いた喉が引き攣れて、うまく声が出ない。頭がくらくらして、視界が回る。このまま世界が引っくり返ってしまいそうなほどだ。   「ぁ……に、兄さんに、からだを……さわられて……」    思い出すだけで体が震える。胃の腑から何かが込み上げる。   「へ、変な、ことを……されて、それで……」    それだけ言うのが精一杯だった。認めたくなかった。男に犯されたなどという、どうしようもない現実を。  犯される、とはああいうことだ。痛くて苦しくて、肉体だけでなく魂をも踏み躙られる行為だ。暴力でもって屈服させられ、恥辱を味わわされ、最後に残るのは惨めさだけだ。そのことを、伊槻は身をもって知った。   「……変なことっていうのは、具体的にはどんなことだ?」    担任の手が、伊槻の太腿に触れた。制服越しに、指を食い込ませるようにして撫でられる。   「せん、せ……?」 「お兄さんに何をされた? 隠さないで、言ってみなさい」 「……わ、わかりません」 「分からないことはないだろう。お兄さんにも、ここを触らせたんじゃないのか」    性器に触られた。制服の上から揉みしだかれる。伊槻は反射的に足を閉じるが、男の手は離れていかない。それどころか、一層きつく握られる。   「っ……は、はなして……」 「何も恥ずかしがることはないだろう。お兄さんに何をされたのか、聞いているだけだぞ? 答えられないことなのか?」    しっかりと肩を掴まれて抱き寄せられる。まるで、捕らえた獲物は逃がさないと言わんばかりに。  伊槻を見据える男の表情は、あの時の兄とそっくりだった。残酷な悦びに満ちている。疎らに髭の生えた口元が、いやらしく歪んだ。唾液をまとった赤黒い舌が、黒ずんだ唇をべろりと舐める。その様がひどくおぞましく、全身の毛が逆立った。   「もっ、もういいです、はなしてっ」 「こら、暴れるな。お兄さんに何をされたのか、体を調べさせなさい」 「やだっ……!」    ガタガタッ、と高さの違う机の脚が床を叩いた。硬く冷たい天板に押さえ付けられ、制服を毟り取られる。男は手慣れた様子でネクタイを外し、伊槻の手首をきつく縛った。ベルトを外され、下着ごとスラックスを抜き取られる。   「ははっ。なんだ、この貧相な体は。真っ白じゃないか」    男がベルトを緩める。カチャカチャと金具の擦れる音が、死刑執行の合図に聞こえた。   「やっ……やだっ……」 「そんな声じゃ、誘っているとしか思えないぞ」    どうにかして逃げ出さなくてはならないのに、そう頭では分かっているのに、腰が抜けたみたいに動けなかった。  どちらにしても、逃げることなどできはしない。逃げ道なんて、どこにもない。そんなものは、最初から用意されてはいないのだ。  普段から人の寄り付かない特別教室棟。ドアは施錠され、窓も閉まっている。ブラインドから西日が漏れて、埃がキラキラ光って見えた。  汗と脂でベタついた手が、無防備な体を這い回る。泡の立つほど粘着いた唾液を垂らされて、性器にしゃぶり付かれた。男の唾液が、幼い蕾を湿らせる。声が出てしまいそうになるのを、伊槻は腕を噛んで耐えた。この先に待ち受ける痛みと屈辱を思い、涙が溢れた。  望むと望まざるとに関わらず、兄の手により暴かれてしまったこの体は、男の欲望を受け止めるのに都合のいい形へと変化しまったらしい。力の抜き方から、呼吸の仕方に至るまで、男の受け入れ方を覚えてしまった。無理やりにねじ込まれたのに、血も出ない。しかし、内臓に直接触れられ、肉を切り裂かれる感覚には、慣れることがない。   「なんだ西宮、お前の尻は。先生のをきつうく締め付けてくるぞ? 旨そうに男を咥え込んで、はしたないったらないな」    男は、嬉しそうに声を上擦らせ、伊槻を激しく揺さぶった。無理な姿勢でねじ伏せられて、関節が軋む。いくら藻掻いても、手首を戒める紐は解けず、一層きつく食い込んでくる。抱え上げられた両足は力なく揺れ、つま先が虚しく空を切る。  男の目が血走っている。重なった腹の肉をだぶだぶ揺らし、力任せに奥を突かれる。無茶苦茶に体を揺さぶられて、妙な声が勝手に漏れる。それを掻き消すように、机がガタガタと冷たい音を響かせる。  もうすぐイクのだな、と分かった。冷静にそんなことを考えてしまう自分が哀しかった。「ナカはいやっ…」と口走ると、男は狙いすましたように最奥を抉り、迸る汚濁を叩き付けた。  男の呼吸が、老いた獣のように荒い。生臭い息が頬を撫でる。生理的な嫌悪感から、伊槻が顔を背けると、顎を掴まれ正面を向かされ、唇を塞がれた。肥った舌と、濁った唾液がねじ込まれる。   「んぶっ……う゛ぅ……っ」 「こら、逃げるんじゃない」 「っ、も……ぬいて……っ」 「そんなことを言って、お前の方が先生を離さないんじゃないか」    汚濁をまとい、ずるりと抜けていく。枯れた朝顔のような肉茎。伊槻は悲鳴を噛み殺した。  男の手が、伊槻の腕に伸びる。ようやく解放されるのだと、ほっとした。しかし、男は腕の拘束を取るどころか、腰が抜けて動けない伊槻を無理やり立たせた。椅子に躓いて転んだ伊槻の腕をねじ上げて、窓枠に掴まらせる。   「大人しくしていれば、次で終わらせてやる」    終わりはまだ遠いと悟る。後ろから腰を掴まれて、割れた爪が食い込んだ。汚濁を溢れさせる肉の穴に、ずぶずぶと肉棒が沈められる。   「やだっ……あっ……」 「ほら、ちゃんと立ちなさい。うまくできないなら、今度はもっと酷くするぞ」    窓枠に齧り付き、震える足をどうにか立たせる。しかし、容赦のない突き上げに耐えられず、すぐに崩れ落ちてしまう。人形のように抱えられ、幼い蕾を蹂躙される。ぺちん、ぺちん、と弛み切った腹のぶつかる音と、汚濁に満ちた胎内を混ぜ返す音が交互に響く。  ブラインドの隙間に、中庭が見えた。胸のリボンをきちんと結んだ女子生徒が、トランペットを吹いている。伸びやかな音色が、暗い教室にまで響いてくる。ポニーテールにまとめた黒髪が、澄んだ風に靡く。  シャツをはだけられ、男の手が胸元に忍び寄る。後ろから突き上げられながら、胸の突起を捏ねられる。首筋に湿った感触を覚えたが、それが男の唇なのか、舌なのか、考えたくなくて目を閉じた。   「ナカにくれてやろうか」    男の声が耳に吹き込まれる。振り返らなくても分かる。疎らに髭の生えた口元に、下卑た笑みを張り付けているに違いない。伊槻は閉じた睫毛を濡らした。  ぱっと男の手が離れる。と同時に、尻に熱い感触を覚えた。尻の中ではなく、つるりとした肌の表面に。日を浴びていない真っ白な臀部に。白く濁った体液と、赤黒い肉棒とを塗り付けられる。尻にぶっかけられたのだと理解するより前に、伊槻は床に倒れ込んだ。  ぬるり、ぬるり、と尻のあわいを往復し、抜け殻のようになった肉棒は、糸を引いて離れていった。その感触に意図せず腰が震えたが、ようやく終わるのだという安堵感に包まれてもいた。  男は息を切らしながら、伊槻の体を引っくり返した。汗だくの顔が近づいてきて、抗う気力も残っていない唇を奪う。脂の滲んだ汗と、たった今突き付けられた欲望の残滓とが、肌の上で混ざり合っている。不快感に伊槻が身を捩ると、男の手が下腹部に伸びた。反射的に腰が跳ねる。   「っ、ひ……やだっ、やだあっ!」 「嫌なわけがないだろう。ここをこんなにしているくせに」 「ちがっ、やだっ……もうやっ、やだぁ……、はなしてっ、はなしてぇっ!」 「尻を犯されて感じるなんて、とんでもない淫乱だ。ガキが一丁前に男の味を覚えて、もうチンポなしじゃ生きられないんだろう。まるで娼婦だな」    穢れを知らない幼い芽を、乱暴に摘み取られた。力ずくで高められる。あまりの羞恥と屈辱に、伊槻はぼろぼろ涙を零した。男は下卑た笑みを張り付けて、伊槻の膝小僧を掴んだ。大きく足を開かせると、ゆっくりと覆い被さってくる。   「やっ、うう…っ、もうやだっ、ぬいてっ……ぬいてよぉ……っ」 「お前がいい子にしていないからだ……。この体がいけないんだ」    男がようやく満足する頃、西日は差していなかった。伊槻は、股の間から濁った液体を垂れ流し、汗と体液にまみれた体を小さく丸めた。腕はすっかり痺れていた。   「……教頭に言いつけてやる」    涙まじりの声を掠れさせる。しかし、男は涼しい顔でスーツに袖を通し、ネクタイを締め直した。伊槻の手首をきつく縛り上げていた、あのネクタイだ。皺だらけで、染みまで付いている。   「そんなことをして何になるんだ。お兄さんとのことが知れてもいいのか?」 「そ、そんなの、先生には関係な……」 「お母さんに知られたくないんだろう? お兄さんに犯されて、その上、学校では先生に犯されたなんて、そんなことが知れてもいいのか? お母さんはどう思うだろうな」 「っ、でも、それは……」 「それじゃあ、お父さんはどう思うかな。お前を庇ってくれると思うか? 血も繋がっていないお前なんかを」 「っ……」    悲しい現実を突き付けられて口籠った伊槻を前に、男はいやらしく口元を歪めた。   「実を言うとな、お父さんに頼まれているんだ」 「えっ……?」 「お前のことをしっかり見張っておくように、とのお達しだ。余計なことを喋ったり、おいたが過ぎるようなら、痛め付けて分からせてやっても構わない、とお墨付きもいただいている」 「……なんで……」 「お前ももう子供じゃないんだ、分かるだろう。寄付金だよ。知っての通り、うちの学校は保護者からの寄付金で成り立っている。お前のお父上は、その中でも上得意でね。私のような平教員はもちろん、教頭も校長も、誰も頭が上がらないのさ」 「そん、な……」 「分かったら、馬鹿な真似はやめることだ。人生、諦めが肝心だぞ」    それじゃあ、今回のことは、全て巧妙な罠だったのか。父は裏から手を回し、罠を張って、伊槻を徹底的に追い詰める。この担任は、全ての事情を把握していながら、味方のふりをして伊槻に近づき、立場を利用して伊槻を犯した。蜘蛛の巣に引っかかり、逃れようと藻掻けば藻掻くほど、絡め取られていくのに似ている。  兄とのことがあってすぐに、事情は父の耳に入った。書斎に呼び出されて開口一番、「お前が大輝を誑かしたんだろう」と責められた。伊槻は呆気に取られ、しばらく言葉が出なかった。   「はっきり言って迷惑だ。私は舞香と一緒になりたかっただけなのに、お前のようなお荷物が引っ付いてきて」 「……けど、おれは」 「口答えをするな。お前のことなど、今すぐ叩き出してやってもいいんだぞ。あれの手前、ここに置いてやっているだけだということを忘れるな」 「…………はい……」 「分かったら、今回のことは決して口外するんじゃないぞ」 「……なぜです」 「そんなことになったら、お前の母親と別れてやる」 「…………」    口外したら離婚する。脅迫でしかないその言葉に、伊槻は従うしかなかった。  母には知られたくない。母以外にも、誰にも知られたくはない。男が男に犯されて、尻の穴を姦されて、強制的に高められて、泣き叫んでも助けは来ない。こんなにも惨めな姿を、誰の目にも触れさせたくはない。  ふと、担任の男はスーツのポケットを弄った。精液のにおいが染み込んだ、くしゃくしゃの一万円札を取り出して、伊槻の手に握らせた。裸の体を横たえて、伊槻は握らされた紙幣を見つめた。   「……なんで?」    担任は答えなかった。早く服を着るよう急かした。    一万円なんて、滅多にお目にかかれない。光に透かしてみると、印刷された偉人の顔が浮かび上がった。こんな大金を手にするのは初めてだ。これだけあれば、何ができる? 何でもできる。何だって買える。どこにだって行ける。初めて自由になれた気がした。  ああ、そうか。そうだったんだ。この体は金になる。そう気づいた瞬間、雷に撃たれたような衝撃だった。  痛くて惨めなだけの行為が、大金に生まれ変わるのだ。子供を騙して尊厳を奪い取るような卑劣な連中とも、きっと対等に渡り合える。一方的に搾取されるなんてごめんだ。おれだってそっち側に立ってやる。奪われたものを奪い返して、汚い大人共の鼻を明かしてやる。いつか吠え面をかかせてやる。  初めて知った。これが社会の仕組みなのだ。こうして世界は成り立っているのだ。絶望の淵で、一筋の鈍い光を見た気がした。  それからだ。裏の世界に足を踏み入れ、トーマの手引きで作法を覚え、夜ごと春をひさぐようになったのは。

ともだちにシェアしよう!