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第四章 ④ 碧

 柳と共に出かけたはずの伊槻が帰ってこなかった。「実家に帰るって」と呑気に言い放った柳に、迅は掴みかかっていた。   「ちょおい、どうした。落ち着け」 「……悪い」    口では驚いた素振りをするが、その実、柳の目に動揺の色はない。乱れた襟元を丁寧に戻して、言った。   「迎えに行かんでいいの」 「……なんで、俺が」 「あの子。お前がずっと探してた子やろ」 「……」    柳のこの目が、迅は時々怖かった。こちらのひた隠しにしているものを見透かすような目だ。それでいて、必要以上に踏み込むことはしない。その距離を保ってくれるから、この男と共にいることは苦ではなかった。何だかんだで、十年来の付き合いになる。それだけ長く付き合っていれば、相手がどれだけ鈍感であろうと、ある程度はこちらの思いが伝わってしまうものだろう。  それでも、迅は伊槻を探しに行かなかった。「そのうち腹が減ったら帰ってくるだろ」と柳には言った。  迎えに行かなかったのではない。行けなかった。自分にそんな資格があるとは思えなかった。伊槻を、あの子を、碧のようにするわけにはいかなかった。    青山は母の旧姓だ。あの夏、あの事件を機に、無職の飲んだくれだった父は仕事を見つけ、母は若い男との不倫関係を断ち切ったが、既に破綻していた夫婦関係を修復するのは並大抵のことではなく、結局、迅の中学卒業を待たずに離婚した。  親権は母が取り、あの町からも引っ越して、小さなアパートに暮らすようになった。迅が高校に上がると、母は恋人を作り、恋人が家を訪れるようになると、実に自然な流れで、迅は家を追い出されるようになった。  ミーコと二人、公園の遊具の中で暖を取り、夜を明かした。ミーコを飼い続けることに母は難色を示したが、ゲーム機ならいくら売ってもいいからと食い下がったことで許しを得た。高校生にもなれば、ミーコの飼育費用程度なら、迅のアルバイトで賄えた。  しかし、そのミーコもとうに亡く、碧の記憶を共有できる相手は、この世から消えてしまった。    あの出会いはまさに奇跡だった。夕立の降る街を駆けて、あの子は迅の胸に飛び込んできた。  一目で碧だと分かった。記憶の中に留まり続けるあいつに瓜二つだった。いや、よく見てみれば、記憶の中よりも少しだけ成長していた。もう二、三歳幼かったら、記憶の中のあいつの姿そのままだ。いや、あいつがもう二、三年生きていたら、これくらいに成長していたのだろう。生き写しと言ってもいいくらい、似ていた。  だが、それはあくまでも他人の空似だ。考えなくても分かっていた。あの夏、もう十五年も経つだろうか。迅は、この世で一番大切にしたかったものを、永遠に失った。あいつはもう、この世界のどこにもいない。あいつの欠片すら、どこにも残されてはいないのだ。  それでもこの子が、伊槻が、碧にあまりに似ているから、万に一つ、億に一つの可能性にかけて、ひょっとすると生まれ変わりなんじゃないかなんて、途方もない考えが過ってしまった。そんなことがあるはずないと分かっていても、望まずにはいられなかった。    だから、ただそれだけだったのだ。十五年間、望んでも望んでも手に入らなかったものが目の前にあるのに、手をこまねいてはいられなかった。いくつになっても、迅の心はまだあの夏にあり、そこから一歩も動けずにいる。  現実の碧はもういない。成長した碧に見える少年は、碧に似ているだけの別人だ。記憶の中の少年は、決して成長などしない。突然現れて、迅の部屋を訪れはしない。二度と笑いかけてはくれない。二度と声を聞かせてはくれないのだ。  この子は碧ではない。碧ではない。あいつが今生きていれば、迅と同じ、おっさんと呼ばれる年齢になっているはずだ。この子は違う。この子は、迅の罪も罰も知らない。ただの無垢な子供だ。  だから、ただそれだけだったのだ。あの頃、碧にしてやれなかったことを、この子にしてあげたいと思った。この子を救うことで、碧を救ってやりたかった。あの頃の、馬鹿で無力で何もできなかった、幼い自分を救いたかった。誰かを救うことで、自分が救われたがっていた。  ただそれだけだったのに、迅は再び罪を犯した。碧によく似た幼い子供を、獣のように貪り食った。あの日殺した、人の皮を被った獣に、自分がなってしまったことに、気づいたのは全てが終わった後だった。  到底、赦されることではない。分かっている。頭では何もかも分かっている。それでも、愛しい愛しいと思い、探し続けた、碧の面影を持つ少年を、抱きしめずにはいられなかった。  唇を濡らす声も、涙を湛えた瞳も、素直でない笑い方も、碧によく似ていた。焦がれていたこの温もり、胸の鼓動、汗の匂い。そんなもの全てが、己の輪郭を明瞭に縁取っていく。自分は今ここに生きているのだと、手放しに信じることができた。    奇跡は一回でよかったのに、あの子は再び迅の前へ現れた。冬の雨に打たれて凍え切っていた。あの時は、一度目とは違い、まともな大人の仮面を被ることができた。病人の世話などしたことはなかったのに、雑炊のレシピをネットで調べて、桃の缶詰がいいらしいと聞けば買って帰った。  だが、きっとあのキスがよくなかった。あの子は、伊槻は、まるでねぐらを見つけた野良猫のように、迅の元を訪れるようになった。迅に懐いたわけではなく、あの家に居着いただけかもしれない。いつの間にか半同棲状態となり、そんな伊槻を、迅は拒むことができなかった。  手遅れになる前に、突き放した方がいい。傷は浅い方がいい。そんなことを思いながら、碧と見た海まで伊槻を連れていき、学校にまで様子を見に行った。迅が考えていた以上に、伊槻は年相応の学生らしい表情を見せ、クラスにも溶け込んでいた。それを知って、愕然とした。  こんな関係は普通じゃない。歪んでいる。いつかは終わらせなければならない。でもそれは今じゃない。そんな問答をとうとうと繰り返して、繰り返しては、いつも同じ結論へと辿り着く。堂々巡りだ。答えを出すことを、知らず知らずのうちに拒んでいるのかもしれなかった。  いつかは手放さなければならない。それでも手放せない。それはこの子が、伊槻が、碧に似ているからなのか。それとも、伊槻自身の傷によるものなのか。傷だらけのくせに、それを誰にも見せないで、皮肉っぽく笑っては生意気なことを言う。そんな伊槻を、迅はいつしか手放せなくなっていた。    柳は言う。お前のずっと探していた子だ。迎えに行ってやれ、と。それは部分的には正しく、部分的には間違いだ。確かに、迅は伊槻に碧を見出している。だが、今となってはそれだけではない。伊槻は、碧であって碧ではない。どうしたって、別の存在だ。  自分と共にいることによって、伊槻を不幸にしてしまうのではないかと、そんな不安が常にあった。それこそ、あの夏のように、碧のように、たった一人で大空へ飛び立たせることになるのではないかと。  柳が、迅の嘘をどれだけ見破っているか。ひた隠しにしている過去を、どれだけ見定めているか。それを知る術はない。たとえ親友であっても、否、親友だからこそ、全てを打ち明けられない。誰にも知られたくない秘密の一つや二つ、誰にだってきっとある。迅の場合、それが他人より少し大きいというだけだ。  迅の隠し事に最も肉薄しているのが伊槻なのだ。だから、なのかもしれない。いつか、伊槻とだけは、この胸に抱えた重く深い闇を分かち合えるのではないかと。期待しているから、事ここに至るまで、伊槻を手放せずにいる。この清い子供を、一人では抱えきれなくなった闇で呑み込もうとしている。

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