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第五章 ① 海

「こんなのはもうやめにしようぜ」    迅が言った。言葉とは裏腹に、晴れやかな顔で言った。果てなく続く、青藍の空と、紺碧の海。それらが溶け合い、重なり合う水平線が、刃物のごとく閃いていた。    事の起こりは、ほんの数時間前。朝食の席で、迅が言った。「江ノ島の先まで行ってみるか」と。伊槻はもちろん了承した。江ノ島の先。富士山の先。もっともっと先。それはきっと、迅が“あおい”と共に行った場所だ。同じ場所に、伊槻も行きたかった。  それはきっと当てのない旅。ゴールのない旅。それでよかった。迅と二人なら、どこにだって行ける。どこへだって連れ出してほしい。どこまでも攫ってほしい。  慣れ親しんだ、ミントグリーンとシルバーのツートンカラー。300㏄の、どっしりと安定感のある車体にまたがり、シルバーのヘルメットを被る。初めて使った時には新品だったのに、最近は細かい傷が目立ってきていた。  燦々と降り注ぐ日差しに、あっという間に汗だくになった。しがみついた迅の背中も、じっとりと火照っていた。それでも、吹き抜ける風が心地いい。木立を吹く風が心地いい。風が汗を乾かして、火照った肌を冷やしていく。    どこか懐かしいこの海が、春とは表情を変えていた。空の青も、海の青も、潮の香りも、全てが濃くて鮮やかで、輪郭線をくっきりと描いていた。顔料をべたっと塗り付けたように、一点の曇りもなく、陰りもない。太陽光線は刺すように降り注ぎ、青い海はより青く、白い波はより白く、光を放っている。乱反射した光で、網膜が焦げ付くようだった。  知らない街。知らない海。なだらかなカーブを描く海岸線は、海水浴客で埋まっていた。広い砂浜が、見渡す限り人人人。半裸の男女に裸の子供、あらゆる種類の人間が集まっている。波間を漂う浮き輪や、ビーチに生えたパラソルが、遠目には花畑のように見えた。  「泳いでく?」と迅が言ったが、伊槻は黙って首を振った。迅がバイクを減速させたものだから、もっと速く走れと急かした。泳ぐよりも、今は走っていたい。どこまでも、どこまでも、走り続けていたかった。    港があって、灯台が見えた。そろそろ休憩したいと言い、迅はバイクを停めた。砂浜は広く、それなりに整備されていたが、海水浴場としては使われていないらしかった。がらんとした砂浜を、灯台目指して二人で歩いた。  迅が先に歩いて、その足跡を蹴散らしながら、伊槻が歩いた。二人分の足跡が、波打ち際に残っていく。焼けた砂は熱く、柔らかい。足を取られそうになったところを、迅に支えられた。「気をつけろよ」と笑って言ったその瞳は、伊槻を映していただろうか。  港の堤防から、海に突き出した防波堤へ渡り、その先端にある灯台まで歩いた。海の真ん中から海を見渡す。咽返るような青い匂いが満ちていた。  ずいぶん遠くまで来た気がした。もう戻れなくてもよかった。灯台の入り口は施錠されていて、塔の上へは登れなかった。   「これから先、どこまで行くんだ?」    伊槻の問いに、迅は答えなかった。適当に笑って受け流した。   「……“あおい”とは、ここに来た?」    その質問にも、迅は答えなかった。ただ、透き通るような青を映していた瞳が、鈍く濁ったような気がした。  防波堤から港へ戻り、砂浜を歩いて、バイクを停めた駐車場へ戻る。伊槻が先に歩き、その足跡をなぞるように、迅が歩いた。行きの時につけた足跡は、波に攫われて消えていた。  打ち寄せた波が弾け、砕け散った雫が太陽を浴びて煌めくように、伊槻の首筋を汗が流れた。額に、頬に、汗が浮かんでは落ちていく。大粒の水滴を払って、伊槻は髪を靡かせた。うんざりするほど暑いのに、海を渡る潮風が気持ちよかった。そんな時だった。   「こんなのはもうやめにしようぜ」    迅が言った。言葉とは裏腹に、晴れやかな顔で言った。果てなく続く、青藍の空と、紺碧の海。それらが溶け合い、重なり合う水平線が、刃物のごとく閃いていた。   「……こんなのって?」 「……こんなのはこんなのだ」    立ち止まった伊槻を、迅が追い抜いていく。   「お前、おかしいと思わねぇの。俺はもうすぐ三十路で、お前は十五のガキだぜ。そんなのがこんな関係って、どう考えてもおかしいだろ」 「……んなの、最初から分かってたことだろ。会った時からおれはガキで、あんたは大人だったじゃねぇか。それの何が悪いんだよ」 「悪いだろ、どう考えても。最初に言っただろ。俺は善人なんかじゃねぇって。俺はお前のこと、性欲の発散相手としか見てなかったよ。んなの、考えなくても分かんだろ。それとも、そんな簡単なことも分かんねぇくらい、お前って頭悪いんだっけ」 「……だったらおれだって、家と飯さえありゃ何でもよかったんだぜ。たとえあんたじゃなくたって、おれは、どこでだって生きていけるんだ」 「ほいほい股開く尻軽だもんな。だから、俺より金払いのいいパトロンでも見つけろよ。その方がずっと幸せだぜ」    この言い方は、あえてだ。あえて露悪的な言い方をして、伊槻を怒らせようとしている。いや、突き放そうとしているのだろうか。分かっていたって、頭に来た。   「……そうやって、“あおい”のことも棄てたのか」    横っ面に、重く鋭い衝撃が走った。赤く腫れた拳が離れていくのが、スローモーションのようにゆっくりと映った。  平衡感覚がおかしくなり、地面にふらふらとへたり込む。焼けた砂は熱かった。火傷しそうに熱かった。寄せる波が、つま先を優しく濡らした。空を見上げれば、大気中に散乱した光が鋭く瞬いた。  口の中が湿っていく。苦い味が広がっていく。頬を思い切り殴られたのだと気づいたのは、少し時間が経ってからだった。   「……これで分かっただろ」    殴ったのは自分なのに、迅は泣きそうな顔をした。痛いのは伊槻の方なのに、迅の方こそ、痛みに耐えているように見えた。   「俺は心底クソな大人で、お前だってバカなガキだ。分かってただろ。俺はただ、お前の弱みに付け込んで、騙して、都合よく利用してただけだ。だからもう、こんなのはやめにしようぜって。お前のこと解放してやるって、そう言ってんだよ。そんくらい分かるだろ。自分がどんだけ可哀想な子供なのか。分かれよ。頼むから」    握りしめた砂が熱かった。急速に冷えていく掌の中で、塵のように細かく砕けた。   「……てめぇ、なんか……」    震える足を叱咤して、伊槻は立ち上がった。粉々に砕けた砂を払う。   「てめぇなんか、こっちから願い下げだ」 「ああ。二度と面見せんなよ」 「っ……おれだって……」    悔しいのか、悲しいのか、涙で滲んで視界がぼやけた。震える手で、ポケットから合鍵を取り出して、砂浜に投げ捨てた。   「あんたの顔なんか、二度と見たくねぇ」    大ッ嫌いだ。喉が震えて、そう叫んだ。逃げ出すようにして、伊槻は駆け出していた。いつかのクレーンゲームで迅が取ってくれた、青いクラゲのマスコットが、砂に半分埋もれていた。    どこまでだって行けるなんて、あんなのは都合のいい夢物語だ。一人ぼっちでこの先へ進む勇気がない。最寄りの駅から電車に飛び乗れば、来る時はあんなに遠く、世界の果てまで来たような気がしていたのに、二時間とかからずに見慣れた街へと戻っていた。  頬が腫れて、じんじんと痺れている。涙を拭った目元が赤く腫れている。そんな顔を他人に晒して恥ずかしいと思う感覚すら麻痺していた。だんだんと日が暮れていく街を、文字通り彷徨った。今夜、どこへ行けばいい。どこへも、行く当てなどないのに。  かつて慣れ親しんだ歓楽街。自然と足が向いていた。迅と初めて会ったのも、確かこの辺りだった。あの時、迅はここで何をしていたのだろう。なんて、あいつのことを考えていると気が滅入る。  あんなに激しく燃え盛っていた太陽が、今や地平線の向こうへ沈もうとしていた。血のように赤い夕陽が差して、網膜を焦がした。   「伊槻?」    知っている声がした。だがそれは、伊槻の望むものではない。   「……トーマ」 「久しぶりじゃねぇの。元気してたか?」 「……」    髪の色は真っ黄色。耳に通したリングの数が増えていた。   「どうしたよ、辛気臭ぇ顔して。喧嘩でもした? ていうか、今日は一人なわけ? あの人は? 一緒じゃねぇの」    俯いて黙りこくったままの伊槻に、トーマは何かを察したようだった。慰めるつもりがあるのかないのか、乱暴に背中を叩く。   「まぁまぁ、んなこともあらぁな。そう落ち込むなよ」 「……別に、そんなんじゃねぇし……」 「強がんなって。オレ、これから仲間と飲みだから、お前もよかったら来いよ。こんな時は、パーッと飲んで気持ちよくなりゃあ勝ちなんだからよ。そんで、いらねぇ思い出なんか綺麗さっぱり忘れちまいな」    高校生が飲み会なんか参加していいのだろうか。しかし、トーマは伊槻の年齢を知っているはずで、その上で声をかけてきた。どうせ他に行く当てもない。この飢えと渇きを癒せるのなら、そして、この雨を凌げるのなら、もう何だってよかった。どこからか湧いてきた黒い雲が、頭上をすっかり覆っていた。  連れていかれたのは、そこそこ広い遊技場。ダーツや卓球、ビリヤードなどが、一つの店で遊べるらしい。もちろん飲み放題で、軽食なんかも頼めるようだ。トーマに似た派手な恰好の男女が集まっており、どこまでがトーマの仲間なのか分からなかった。   「お代は気にしなくていいから、好きなもん飲めよ」    そう言って、トーマは仲間の元へ行ってしまった。最初の一杯はトーマが注文してくれた。照明が暗く、色もよく分からなかったが、味は悪くなかった。これが本当に酒なのか。甘くてジュースみたいだった。グレープフルーツジュースと言われても、きっと見分けがつかないだろう。  窓の向こう。ガラスに大粒の雨が狂ったように打ち付けている、その向こう。光が氾濫していた。極彩色のネオンサインが、濁流となって流れている。あの四畳半の一角から、あのどぶ川を眺める時間は、もう二度と訪れない。  迅は今頃どうしているだろう。家に帰っただろうか。まさかまだあの海にいるなんてことはあるまい。家に帰って、一人で、こんな甘いカクテルなんかじゃなく、安い発泡酒でも呷っているのだろう。ダーツの矢ではなく、ビリヤードの棒でもなく、ケチくさい煙草を指に挟んで、紫煙を燻らせているのだろう。  くだらない考えを追い出そうと、伊槻は首を振った。あいつのことなんて、もうどうだっていいのだ。あんな酷い言葉で突き放して、面を見せるなとまで言われた。伊槻も、二度と顔を見たくないと言ってしまった。もう何もかもおしまいだ。一度壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。   「キミ、見ない顔だけど。トーマの連れだよね?」    窓際の席。ガラスに弾ける雨粒を数えて、一人飲んでいた伊槻の隣に、男が座った。最初の一杯が、まだ飲み終わらない。   「キミだってば。聞こえてる? もしもーし」    ぶにっと頬を突つかれた。慣れてきていた痛みがぶり返す。   「ごめん、痛かった? 怪我してるんだ?」 「……たいしたこと、ない」 「そうなの? でもほら、赤くなってるし、ちょっと腫れちゃってるよ?」    再び傷口に触れられる。紙やすりで擦られるような、そんな痛みを体験したことはないが、そんな風に、少しずつ削り取られていく痛みに似ていた。   「……なぐられた」 「ひどいことするなぁ。誰にやられたの。彼氏?」 「……かれし……」    ぼんやりと霞がかかっていく頭に思い描くのは、どうしたってあの男。   「かれし……みたいなかんじだったひと」 「みたいな? 別れたんだ」    別れた? そもそも、付き合ってなどいないのだ。だから、彼氏みたいな感じだった人。けれど、きっとそう思っていたのは自分だけで。だから、こんなにも苦しいのか。胸が切なく痛むのか。涙が溢れそうになり、全部飲み干してしまいたくて、残っていた酒を呷った。   「おっ、いくねぇ。大丈夫? 見た感じ、学生っぽいけど」 「きら、いだ……あんなやつ……」 「別れた彼氏のこと? そりゃあ、そんなにされちゃねぇ」 「でも……で、も……」    好き? 分からない。でも、そばに置いてほしかった。“あおい”の代わりでもいい。性奴隷だって構わない。ただそばにいたかった。見せかけの愛でもいいから、ただそれが欲しかった。   「暴力彼氏なんか忘れてさ。オレにしなよ。泣かさないよ?」    髪をくしゃりと掴まれた。顎に手を添えられ、くいっと上を向かされたと思うと、唇を塞がれた。  嫌だ、と思う感覚が麻痺していた。緩んだ唇が、男の舌を受け入れる。舌が縺れて、追い出すこともできない。突き飛ばしたって構わないのに、指先まで痺れて動かなかった。されるがままに口腔内を貪られ、流し込まれる唾液を嚥下することもままならない。飲み零した唾液が首筋まで伝った。   「キミ、結構マグロな感じ? でもいいや。うぶな子は好みだし。名前教えてよ」 「い、ぅ……」    名前。名前? 名前って、何だっけ。こういう時はいつも、イチと名乗っていたはずだ。だが、舌が回らなかった。男の問いに答えることができない。気が遠くなり、ぼやけた視界が狭まっていく。ぐるりと世界が反転したかと思えば、トーマが駆け寄ってくるのが見えた。「オレの客なんだから、手ェ出すなよ」と、そんな風な声が聞こえた。

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