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第五章 ② 長い雨
夢を見た。美しい景色だった。ずっと大切にしていた、青く透き通るガラス玉。それと同じくらい、それよりももっと、綺麗だった。これが、本物の海。本物の空。怖いくらいに青い空と、底の知れない大海原と。それらをいっぺんに見晴らしている。
潮風に靡いた黒髪がうなじを撫でた。振り返れば、少年がいた。泣きそうな顔で立っていた。傷だらけで、腕からも膝からも、血を流していた。そんな彼を、愛おしいと思った。愛したい。愛している。そう強く思った。
次の瞬間には、全てが幻のように消えていた。あれはきっと、真夏の陽炎だ。強烈な日差し、湿った空気、蝉の声、そんなものが見せた幻影だ。夢の中で、伊槻は思った。けれど、本当は全部知っていた。
ゆっくりと意識が浮上する。目が覚めても、そこは薄暗い空間だった。ここは、どこだろう。あの後、どうしたのだったか。確か、トーマの誘いで妖しげなバーに行き、慣れない酒を飲んでいたはずだが、それ以降の記憶がない。
どうやら、狭い空間に寝かされているらしかった。体を起こそうにも、力が入らない。腕も足も、まるで自分のものではないみたいに、痺れていた。
「っ、ぅ……」
意識したわけではないが、声が漏れた。自分自身の声のはずなのに、どこか他人事のように聞こえた。僅かに身じろぐと、何か軋む音が響いた。
「やっと起きたか。このノロマ」
突然の閃光が目を焼いた。伊槻は反射的に目を瞑る。
「ったく、散々焦らしてくれたよなぁ? お前、自分の立場ってもんを弁えろよ」
この声。この、声。まるで楔を打ち込まれたように、体が動かなくなる。全身から血の気が引く。指先から冷えていく。
「にい、さ……」
「覚えててくれて嬉しいぜ。てっきり、忘れられたもんとばかり。何せ、もう半年も顔を合わせてないんだからなぁ」
忘れられるはずがない。この男を前にすると、過去の記憶が蘇る。過去の記憶に囚われて、声も出せない。冷たい汗が喉を伝う。全身の毛が逆立っている。
「おいおいおい、なんでそんなに怯えるんだよ。いつもしてることじゃねぇか」
兄の手が、暗闇にぬっと伸びてくる。ひたり、と首筋に手が触れる。兄の手が湿っているのか、噴き出した汗で湿っているのか、分からなかった。
「……やっ……」
「ふぅん。嫌か」
しまった、と思った時には遅かった。強烈な裏拳が飛んでくる。迅に叩かれたのとは逆の頬だ。あの痛みが霞むほどの強烈な痛み、混濁していた意識が一瞬のうちに覚醒するほどの強烈な痛みが、伊槻を襲った。体ごと吹き飛ばされる勢いだったのに、どういうわけか、やはり体は動かない。衝撃を受け流すことができず、もろに食らってしまった。
軽い脳震盪を起こしている。ものが二重にぼやけて見える。こちらに背を向けた兄の姿もぼやけている。助手席を漁って、何か探しているらしかった。
少しずつだが、事態が把握できてきた。ここはおそらく、車の中。兄の所有するSUVのトランクルームだろう。後部シートを倒して、面積を広く取っている。
もう一つ分かったことは、拘束されているということ。腕を縛られ、固定されている。体が動かなかったのは、恐怖で竦んでしまったのではなく、物理的に動けなかったのだ。無理に動かそうとすると、ロープが引っ張られて軋む。
「これ以上痛い思いしたくなかったら、暴れんなよ。グサッと行くぜ」
荷室に戻ってきた兄の手には、カッターナイフが握られていた。リアガラスに差し込む街灯に照らされて、刃が鈍く閃いた。
ぞっとして、僅かに後退る。あれで傷を付けられたのは、一度や二度ではない。試し切りだと言って、腕や腿を切られた。伊槻には全く理解できないが、浅い傷口から血液が玉状になって滲み出るのがおもしろいらしかった。
胸倉を掴まれ、床に叩き付けられる。強く胸を押されて、一瞬息が詰まった。
閃く刃が、首筋に当てられる。冷たく固い刃の先端が沈み込む。唾を飲み込むことも、息をすることもできない。少しでも動いたら、すぐにでも喉を掻き切られそうだった。伊槻はぎゅっと目を瞑り、顔を背けて息を呑む。
すっと刃が通される。切り裂かれたのは、伊槻の着ていた服だった。Tシャツを真っ直ぐに切り裂かれる。その途中、ヘソの下辺りを通る時、刃の先端が皮膚に触れた。一瞬、焼けるような痛みが走った。浅い傷口に血が滲む。
「だから、そんなに怖がるなよ。大人しくしていれば、優しくしてやる。いつもみたいにな? オレはいつでも、いい兄貴だったろう」
その言葉には、どれほどの真実が含まれているのだろう。伊槻に抵抗の意思が残っていないと知りながら、いつも手酷い抱き方をしてきたのはどこの誰だ。
切り裂いた服を剥ぎ取られ、ズボンを脱がされ、最後の砦となったボクサーパンツもあっさりと奪い取られる。慣れた行為であるはずなのに、ひどく心細く感じた。今、己を守ってくれるものは、薄い布切れ一枚すら、何一つ残っていないのだ。
「ったく、ほんっとうに焦らされたぜ。この穴をここまで育てたのはオレだってのに、恩を仇で返すとはこのことだよな。だから薬はやめろっつったのに、あいつ……」
足を大きく広げられ、ずぶっと指をねじ込まれた。ぬぷぬぷと何度か抜き差しを繰り返された後、いきなり視界が明るくなる。スマホのライトが、伊槻の秘部を煌々と照らし出していた。
「っ……な、に……?」
「何って、今更だろ。ハメ撮り」
確かに、今更だ。単純な記録用として、それから、伊槻を脅迫する道具として、行為中の姿を動画や写真に収める。ある意味では当たり前の発想だ。最初のレイプから数えて、兄がその発想に至るまで、そう時間はかからなかった。このスマホには、伊槻のあられもない姿、一糸まとわぬ淫猥な姿、決して人には見せられない姿が、いくつも保存されている。
「こっちじゃなくて? 薬の話か」
二本の指で穴を無理やり押し広げ、その内側の、桃色よりもさらに赤く艶めいている肉の色をばっちりカメラに収めながら、兄は言った。
「トーマ、とかいうんだっけ? あいつも、この穴の常連なんだろ? 金積んで、お前のこと拉致してもらったんだよ。意識ないやつ犯しても退屈だから、極力薬は使うなっつったんだけど、報酬は減額だな」
薬か。バーで最初に飲んだ一杯──というより、あの一杯しか飲めなかったが──あれはトーマが注文し、トーマが運んできたものだ。睡眠薬か何か、一服盛られていたのだろう。トーマの態度はあからさまに妙だったのに、気づかない自分に呆れ返る。
「お前も憐れなやつだよなぁ。誰もお前のことなんか見ちゃいない。みんな、お前の体がほしいだけなんだ。この穴。このケツ。これがお前の価値の全てだ。んで、それをここまで仕上げたのはこのオレだってこと、忘れんなよ」
眠らされている間に、ローションでも仕込まれていたのだろうか。指を抜き差しする度に、穴を押し広げる度に、ぐちゅぐちゅと酷い音が響く。いくら耳を塞ぎたくとも、両手は自由が奪われている。
「さーて、そろそろお楽しみと行くかなぁ。お前もこれが恋しいだろ。ジジイの萎びたチンポには飽き飽きだろ? なぁ」
はしたないなんてものじゃない。足を肩に担がれて、大きく股を広げられる。その様も、もちろんカメラにばっちりだ。珍しく前戯が行われ、伊槻の意思とは無関係に準備万端整えられた淫らな穴は、強引にねじ込まれたそれをいとも容易く呑み込んでいく。そしてもちろん、肉棒がずぶずぶと沈められていく様も、カメラはしっかり捉えている。
「んっ……ぅ……」
内臓を圧迫される感覚に、声が漏れた。それに気をよくした兄は、乱暴な抽送を開始する。
奥へ奥へと押し込まれ、みぞおちの辺りが鈍く痛む。そうかと思えばゆっくりと抜かれ、亀頭の一番太い部分を穴の縁に引っ掛けて遊ばれる。幼い蕾が限界まで広げられ、今にも裂けてしまいそうになるが、哀しいことに、無理やり暴かれることに慣れた体は、そう簡単には壊れない。血が出るどころか、皺を伸ばして目一杯伸縮し、凶悪なものをしっかりと食い締めて離さない。そんな自分の体を呪った。
「んっ、ん゛っ……ぐっ、ぅ゛……っ」
「なぁ~、もっとかわいい声聞かせろよ。エロい顔見せてみろ。全部撮っててやるからよ」
伊槻は、歯を食い縛り顔を背ける。今更何もかも手遅れだと分かっているのに、せめてもの抵抗を諦めきれない。こんなにも情けない姿を晒して、それでもまだ、人でありたいと願っている。
だが、兄がそう簡単に抵抗を許すはずがない。伊槻の顎を掴んで、正面を向かせた。「こっちを見ろ」と言って、スマホのライトを光らせる。伊槻を映すのは、無機質な機械の目だ。
「なぁほら、気持ちいいって言ってみろよ。お兄ちゃんのチンポで感じてますって、言えよ。このケツでオレを楽しませんのがお前の役割なんだって、もういい加減分かってんだろ? なぁ」
悔しくて涙が滲む。そんな顔もまたカメラに収められていることを思い、さらに絶望は深くなる。こうやって撮った動画をスクリーンに映しながら犯されたことも、一度や二度ではない。兄は繰り返し伊槻を犯し、尊厳を叩き潰してきた。そのことを思い知らされる。
「お前も大概強情だよな。それともあれか? もっとご奉仕されなきゃイヤ~ってか」
兄の手が、首筋から胸元を這い、下腹部まで辿っていく。緩く勃ち上がっていた伊槻のそれを、力任せに握った。痛みに身を竦ませたのを感じていると勘違いしたのか、そのままの力で上下に擦り上げる。
ごしごしと擦られて、それこそ、やすりをかけられるように感じたが、男の急所に直接的な刺激を与えられては、体は自然に反応する。腰が勝手に浮き上がり、まるで続きをねだるようだと、揶揄されても仕方がない。尻の中がひくひくと痙攣し、知りたくもない兄の形を覚えてしまう。
「やっ、うう゛っ……やっ、やっ……!」
「何がやだよ。こんなになってるくせに。ナカもとろとろじゃねぇかよ、このガバマンが」
「ひっ、ぅ゛う……、あっ、あ゛ぅっっ」
前を擦られながら、肚の奥を暴かれる。力任せに突き上げられ、男を悦ばせる声が漏れる。腕を縛られてさえいなければ、口元を覆い隠せるのに。枕か何か、顔を押し付けられるものがあれば、こんな声をこんな男に聞かせたりはしないのに。唇を噛んで堪えるのも限界だった。血が滲んで、もはやどこからの出血なのか、自分でも分からない。
「ほらほら、お兄ちゃんにチンポいじめられて気持ちいいって言え。お兄ちゃんにお尻犯されてイッちゃうって言え。イけよ、なぁ。ケツん中すげぇ吸い付いてくんぞ。もう限界なんだろ? イきたいんだろ? なぁほら、イクって言え。イきますって言えよ、なぁ」
最後の一押しとばかりに、乳首を噛まれた。齧り取るように歯を立てられ、まさかその刺激によってではないと信じたいが、視界が真っ白に爆ぜた。
「ん゛んん゛ぅ゛────っっ!!」
ビクンッ、ビクンッ、と陸に上がった魚のように腰が跳ねる。まるで地震かと紛うほどに、車体がぐらぐら揺れている。兄は残酷な悦びを満面の笑みに湛え、激しく腰を打ち付けた。
尻が壊れる。内臓が捲れ上がる。スマホのカメラは、相変わらず伊槻に向けられたまま。伊槻が兄の玩具であることを証明するように、髪を乱して揺さぶられる伊槻の姿を、そして、激しく出し入れされる赤黒い凶器を、それを咥え込む淫らな穴を、目を背けたい現実を、余すことなく記録していた。
唇に噛み付かれ、唾液を流し込まれて、それと同時に、胎内にも粘液を注がれた。肚の奥で弾けたそれは、伊槻の体の奥深くまで染み込んで、魂まで穢していく。もう逃げられない。この体には、兄の精液が、澱のように沈んでいる。
「うっ……う……」
ずるり、と萎えた肉茎が抜かれた。汚濁がどろりと糸を引く。ぽっかりと空いた穴の収縮する様子まで、カメラに映される。兄は上機嫌に、臭い口づけを再び寄越してきた。
「そうやって泣いてりゃいいんだ。お前は一生、オレの奴隷だ」
そうかもしれない。どうせ一生このままなのに、なぜ外に助けを求めようなどと、愚かなことを一瞬でも考えたのだろう。
この境遇にはとっくに諦めがついていたはずなのに。運命に抗おうなんて、考えるだけ無駄だと分かっていたはずなのに。それでも、あいつがあんなに優しくするから。優しく笑って、頭を撫でてくれるから。だから、期待してしまった。あんなにも切実な熱を、真っ直ぐな感情を、ぶつけられたのは初めてだった。あんな風に伊槻を抱くのは、あいつが最初で最後だった。
全てを諦めたなんて言いながら、何も諦めきれていなかった。こんな自分が、人間以下に成り果ててしまった自分なんかが、まだ救われたがっているなんて。滑稽な話だ。
「これでよく分かっただろ。お前にはオレしかいないんだ。お前を愛してやれるのは、このオレだけだ。いい加減素直になれよ」
「…………はい……」
「最近いい仲だったって相手も、どうせお前の体が目当てだろ。他に価値なんかねぇんだからよ。やるだけやって、飽きたらポイだ。そんなお前を、オレはまだ捨てないでおいてやってるんだぜ。感謝しろよ」
「…………は、い……」
「お前だって、最後にはオレんとこに戻ってくるだろ。誰に抱かれたって、結局、オレしかいないんだ。お前を愛せるのも、お前が愛せるのも、このオレだけだ。そうだろ、伊槻」
「…………」
「愛してるだろ、オレを。好きだと言えよ。心も体もお兄ちゃんだけのものですって、言えよ」
「……あ、い…………?」
愛している? 誰を。この男をか。まさか。冗談にしても酷い。全く笑えない。この男を愛しているなんて、そんなことがあるはずがない。たとえ天地が引っくり返っても、あり得ない。たとえ閻魔様に舌を切られる羽目になっても、その嘘だけはつけない。
「……い、やだ……」
「あァ?」
今まで、散々嘘をつき続けてきた。真実を誰にも話せない、嘘で塗り固めた人生なのに、どうして今更、それを拒むのだろう。それでも、その嘘だけは言いたくなかった。本心とは裏腹なことばかりを紡ぐこの口で、たった一つだけ、真実と言えるものがあるからだ。
「お前の、ことなんか……ぜんぜん、これっぽっちも、好きじゃない!」
「伊槻ィ……」
兄の声が低くなる。逆上させたことは明白だった。それでも伊槻は止まらなかった。止まれなかった。今を逃したら、それこそ一生このままだ。一生このままでいいなんて、本当は全然思っていない。
「お前なんかを、好きになるわけないだろ。ずっと、ずっと、大嫌いだった。汚い手で触られるのも、くせぇ息をかけられんのも、全部全部、気持ち悪りぃんだよクソボケが」
兄の両手が、暗闇から飛び出してくる。武骨な太い指が、細い首に巻き付いた。スマホは手から滑り落ち、閃光が天井を照らす。
「もっとしっかり痛め付けて、分からせる必要があるらしいなぁ?」
じわりじわりと体重をかけて絞められる。蛙のひしゃげたような声が漏れた。
「おま、え、なんか……っ、あいつの、が、ずっと……っ、ずっと…………」
「本気で殺すぞ」
控えめに膨らんだ喉仏を潰される。声どころか、掠れた息さえもう出ない。頸動脈を圧迫され、顔が鬱血し、風船のように膨らんでいく。逆流する血潮がノイズとなって、鼓膜の裏を引っ掻いている。苦しさに喘ぐこともできないで、爪で床を引っ掻いた。手首に絡み付くロープの感触を、今際の際になって鮮明に感じ取った。
意識が遠のく。目の前が真っ暗になり、耳が聞こえない。死ぬ時というのは、眠りにつくのとどう違うのだろうと考えたことがあったが、それほど違わないらしい。案外穏やかに死ねたものだ。こうして綺麗に終われるなら、それに越したことはない。未練がないとは言わないが、全ては過ぎ去った幻だ。
「────伊槻!」
軽く頬を張られた。ぺちん、ぺちん、とまるで子供の戯れみたいに。
「しっかりしろ! 目ェ開けてくれ、頼むから……」
誰だろう。誰かに抱きしめられている。温かくて、気持ちいい。優しい気持ちに包まれる。
「後生だから、頼むから…………俺を置いていかないでくれ…………」
唇に柔らかいものが触れる。焦げくさくて、ほろ苦い。でもほんのりと甘い。懐かしい味に、ぽろりと涙が零れた。
「…………迅……」
伊槻を抱きしめながら、迅も涙を零していた。温かい雨が降ってくる。
「なにしに、きたんだよ……てめぇ……」
「何しにって、とんだご挨拶じゃねぇか」
車の窓が割られていた。よく見れば、迅の腕は切り傷だらけで、だらだらと血を垂れ流していた。夢で見た、あの少年を思い出した。
車のドアは、両側とも開け放たれている。雨上がりのアスファルトに突っ伏して、半裸の男が呻いていた。
「……殺さねぇの」
「そういうわけにもいかねぇだろ」
「……」
「たぶん鼻くらい折れてるから。今はそれで勘弁して」
立ち止まった伊槻の手を、迅が強く引く。停めてあったスクーターに飛び乗って、エンジンをかけた。
下着とズボンは無事だったが、切り刻まれたシャツは元に戻らず、迅の上着を着せてもらった。サイズの合わない上着が夜風に靡いている。
迅の背中に抱きついた。じっとりと火照っていた。新鮮な血の匂いがした。不思議と心が安らいだ。ずっと前にも、こんなことがあった気がする。昔すぎて、覚えていないけれど。
「……なぁ」
バイクは風を切って走る。ヘルメット越しに風を縫って、伊槻の声は迅に届く。
「おれ、あんたのこと、好きだよ」
迅は何も答えない。
「愛してるよ。ずっと。愛してた。あんたに愛してほしいとは言わねぇけど、おれはあんたを愛してるよ。誰かの代わりだって構わねぇんだ。あんたがそう望むなら、体だけの関係だって構わねぇ。それでもおれは苦じゃねぇよ。おれ、あんたが好きだから」
「……バカなこと言うんじゃねぇよ」
「だって、あんたに助けてもらうの、これが初めてじゃねぇから。もう何度も……何度も、何度も、おれ、あんたに救われてたよ」
迅は応えてくれるだろうか。これは賭けだ。伏せていた手札を全て見せてしまった。もう何も、隠しておけるものはない。
「……俺は、ろくでもねぇ大人だよ」
「……知ってる」
「お前はあいつじゃないって、そんなの当たり前に分かってるのに、お前をあいつの代わりにした。あいつの代わりにお前を抱いて、あいつにしてやれなかったことを、お前にしてやりてぇって……」
ヘルメット越しに風を縫って、迅の声が伊槻に届く。
「あいつに赦してほしかったんだ。俺が馬鹿で、何もできなかったから、あいつを一人で逝かせちまった。なのに、俺はまだのうのうと生きてる。みっともなく生にしがみついてる。こんな俺を、あいつは……」
「赦すよ」
強く抱きしめると、迅の体が微かに震えた。
「赦すも何もねぇよ。おれはとっくに救われてたんだ。迅。お前がいてくれたから」
「……」
碧、と迅が呟いた。抱きしめた体は震えていた。風に吹かれて、ずっとそうしていた。迅の体温が、鼓動が、思いが、伊槻に流れ込んでくる。
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