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第五章 ③ 永い夏
どぶ川沿いのボロアパートに帰ってきた。せいぜい半日ぶりだというのに、ひどく懐かしく感じられた。少しカビくさいような、古びた匂いが落ち着いた。
「一応塗っとく? オロナインしかねぇけど」
迅が軟膏を用意してくれたが、まずは汚れを流したい。狭いユニットバスに二人で詰めた。
「なんであんたまで入ってくるんだよ」
「いや、俺だって汗流したいし? それに……」
煌々と輝く蛍光灯の下で、あの男に犯された体を晒す。手首には縄の跡、首にはくっきりと指の跡、下腹部にはカッターの触れた傷口が走る。気づかないうちに殴られていたのか、車へと運ばれる際にぶつけたのか、あちこちに打撲痕が残っている。
それから、太腿を伝う汚泥。今回は一度で済んだが、それでも、たっぷりと注ぎ込まれた穢れが、重力に従って溢れ出ていた。
伊槻のこの汚濁にまみれた体を、迅はどんな思いで見ているだろう。迅は、彼自身の魂がバラバラに切り刻まれたかのような、苦悶の表情を浮かべていた。実際に伊槻が感じているのと同等かそれ以上の痛みを迅も感じているのだと、伊槻には分かった。
「あんたの手で、綺麗にしてくれよ」
「……任せとけ」
傷口に優しくぬるま湯をかけられる。シャワーを直接当てるのではなく、一度迅の掌に当てて勢いを弱めてから、伊槻の肌を流れていく。
「……悪い。痛かったよな」
ぬるま湯が頬を撫でている。チクチクと刺すような痛みが響く。迅は心底すまなそうな顔をした。頼もしい背中が萎れている。
「別に。あんたのビンタなんか、大したことねぇよ」
「けど、こんなに腫れてる」
「ばーか。あんたがやったのは逆のほっぺだろ。そっちはあいつにやられたんだ」
「……そうなの?」
「ウソ言って何の意味があんだよ」
「……そっか」
それでも、迅はすまなそうな顔をしたまま、ゆっくりと慎重にシャワーを当てた。
切り傷も擦り傷も打撲痕も洗い流され、最後に、ぬるいシャワーを腰に当てられた。これから何をされるのか、何をしなければならないのか、お互い言葉にせずとも分かっている。
「壁に手ェついて」
伊槻は言われるままにする。
「触るからな」
尻のあわいを指が這う。潤んだ穴に、指先が簡単に沈んだ。
「……爪、伸びてねぇだろうな」
「昨日切ったの見てたでしょ」
「っ、ん……そう、だったか?」
ぐるりと穴の縁をなぞられる。お湯で少しずつ緩ませながら、吐き出された汚濁を掻き出される。どろりとしたそれが穴の縁から零れ落ち、太腿を伝って流れ落ちる感覚は、決して気持ちいいものではない。それでも、迅の指遣いがあまりに丁寧で、慎重で、優しいから、どうしても、情事の際のそれを思い出してしまう。他の男に出された精液を掻き出してもらっているだけなのに、浅ましい期待をしてしまう。
ぐちゅ、ぐちゅり、と控えめな水音が浴室内に反響して、そのことがより性感を煽る。意図せず腰が揺れ、続きをねだるように突き出してしまう。
「な、ぁ……じん……」
「なに? 痛い?」
「っ……」
振り返ると、肩越しに目が合った。それだけで、言いたいことは伝わった。
「こっち向くか?」
「ん……」
「ちゃんと掴まってろよ」
迅と向かい合い、その広い胸に顔を埋めた。まだ汗くさく、下腹が疼いた。世間一般的には決していい匂いではないのに、伊槻はこれが好きだった。ズボンの奥に仕舞われたものが、己の痴態に反応すればいいと思った。
「なぁ、あんまり焦るなよ」
迅の声が、耳元に降ってくる。
「大事にしてぇの」
そんなことを言いながらあまり余裕はなさそうで、余裕がないのに無理して大人ぶって見せるところが好きだった。一度好きだと自覚してしまうと、彼の一挙手一投足に注目し、そのどれもにときめいてしまう。我ながら単純だとも思うが、ある種の生理現象なのだから仕方ない。
迅は、最後まで変な気を起こさず、精液を掻き出してくれた。何もかもを丁寧に洗い流し、バスタオルに包んでくれる。まさか拭くところまでやってもらうつもりはなかったが、今日だけと思って甘やかしてもらった。
風呂上がりに、軟膏を塗ってもらった。そんな大袈裟にされるほど痛くはないのだが、とことん甘えた。腹部の切り傷や、腫れた頬、それから、口の中──にはさすがに軟膏は塗れないが、「殴られた時に切ったと思う」と伊槻が伝えると、迅は「見せてみろ」と言って口内を覗き込んだ。
「みえる?」
「喋んなよ。暗くてよく見えねぇ」
電灯で照らすように、上を向かされる。舌の上に唾液が溢れた。ずっと口を開けているから、唾を飲み込むこともできない。
「なぁ……」
唾液に濡れた舌を差し出し、視線だけで迅を見上げる。吸い寄せられるように、こうなることが予め決まっていたかのように、唇が重なった。
いきなり舌を絡められ、深い口づけを送られた。顔ごと食べられてしまいそうなほどの、荒々しいキスだった。伊槻は懸命に口を開け、唾液を飲み込み、迅の舌遣いに応える。
倒された先は布団の上だ。押さえ付けられたわけではない。ただ、迅の重みに身を委ねていたら、仰向けに倒れていた。
唇は一度も離れない。呼吸ごと奪い取られる。苦しくて、頭の中がぼんやりと白んでくるが、その感覚が嬉しかった。もっと、もっと、全てを彼に明け渡したい。何もかもを奪ってほしい。
たった今着たばかりのシャツをたくし上げられる。大きな手が肌を滑る。薄い腹を撫でられて、腋の下から胸元まで、迅の掌が這い上がってくる。
くり、と胸の突起を捏ねられた。手探りでありながら、迅の指先は的確にそこを捉えた。唇を奪われながら、伊槻は口の端で微かに喘ぐ。すると、さらに激しく、リズムをつけて捏ね回される。どうしようもなく、体が震えた。迅の重みを受け止めながらも、それを跳ね返す勢いで腰が跳ねる。
口と、胸と、両方を愛撫されて、どちらに集中すればいいか分からない。どちらも気持ちいいのだ。気持ちいいのが迫ってくる。逃げる先など持ってはいないし、逃げたいとも思わなかった。
替えたばかりの下着の中が、ぐっしょりと濡れている。腰が動くと、下着の中で粘液が擦れ、控えめながらもはっきりと水音が響くので、そのことで羞恥を煽られた。
ようやく息を吸った。浅い喘ぎを繰り返して、肺に酸素を送り込む。この苦しささえ気持ちいいなんて、きっとどうかしている。
「なぁ、ここ」
胸の突起を撫でながら、迅が言った。もっと強く触ってほしくて、伊槻は胸を反らせる。
「ここ、歯型ついてる」
そういえば、乳首に歯を立てられた。食い千切られると思うほどだったのに、痛みもすっかり忘れていた。思い出すと、ちりちりと痛む気がしてくる。
痛いかと聞いて、迅は、あの男がつけた歯型に舌を這わせた。柔らかい舌で優しく包んで、唾液を塗り込む。唾液には治癒の効果があるとかないとか聞いたことがあるが、まさにそれだ。ぶり返した痛みが引いていく。消えた痛みは快楽に変わり、傷口を舐められながら、乳首は固く尖り立つ。
迅の舌は胸元を這い上がり、首筋を辿った。迅も邪魔だと感じていたのか、シャツを脱がされ、無防備になった喉元にキスされた。絞められた跡が残る首回りを舌が這う。まるで癒すように、舌先で優しく撫でられる。急所を晒しているのに、どこか恍惚とした気分になった。喉を鳴らすと、迅の舌を介して振動が跳ね返り、その生々しい感覚にぞくりとした。
腕を取られ、手首の痣に口づけを落とされる。唇を触れ、軽く滑らせる。たったそれだけの刺激が堪らなかった。もうどうにでもしてほしい。早く全てを奪ってほしくて、伊槻は自ら腰を擦り付けた。半勃ち状態のそれに、迅もすぐに気がついた。
「ったく、焦んなって言ったのに」
「で、も……っ、おれ、もう……」
緩いルームパンツのウエストのゴム部分に、迅の指が入り込む。ゆっくり、ゆっくりと、丁寧を通り越して焦らすように脱がされる。次いで、下着を下ろされる。足首から薄い布が抜けていく、その感覚にも感じた。
だが、これで終わりではない。むしろ始まりだ。迅も衣服を脱ぎ捨てて、その大きく分厚い体で、伊槻の体を覆い隠した。汗ばんだ肌と肌が擦れて重なる。
迅の手が膝頭を撫で、緩く足を開かされた。指先が太腿を這い上がる。逡巡しながら、とうとう尻のあわいに触れた。
「……いいの」
迅の低い声が鼓膜を掠める。伊槻は小さく、しかし強く、頷いた。
もう迷いはない。この男の全てを手に入れる。そして、己の全てをこの男にくれてやる。初めからそう決まっていた。今になって、そう思う。
ゴムを探す迅の手を握り、引き寄せた。今夜は直接愛してほしいと、言葉にはできなかったが、眼差しだけで訴えた。迅は伊槻の目を見つめ、やがて、燃え滾った熱杭が伊槻を貫いた。
「あっっ…」と声が出た時には遅かった。まるで中から押し出されたように、触れてもいない陰茎が蜜を零した。引き攣れた腹筋を濡らし、迅が動くとぬるりと滑った。
「ぐちょぐちょじゃん」
興奮を隠しきれずに、迅が声を上擦らせる。伊槻はぷいと顔を背けた。
「……やだ」
「やだ? こういうの言われんの、嫌い?」
迅は緩慢に腰を動かしながら、甘えた声でお伺いを立ててくる。
「やならやめるけど。かわいいと思って言ってんだけどね」
「……」
伊槻は何も言わなかったが、体の反応で、きっと何もかも伝わってしまっただろう。迅はにんまりと笑った。かつてのような軽薄さや、本心を隠すための仮面は脱ぎ捨てていた。心からの、満ち足りた笑顔だった。
伊槻は、迅の背中に手を回した。抱き寄せると、キスの雨が降ってくる。ちゅっ、ちゅう、と唇を吸われ、啄まれながら、会陰の裏側、浅いところを捏ねられる。エラの張ったカリ首が、的確に性感帯を叩く。伊槻が腰をうねらせると、迅はまたしても、満ち足りた笑顔を見せた。
「ここ。だろ?」
初めての時からそうだった。迅は伊槻の弱いところ、好きなところ、一番気持ちよくなれるところを、伊槻よりもよく理解していて、明確にそこを責めるのだ。伊槻はもう、自分で自分の体を制御できないくらい、乱れてしまう。
「な、んで、わかるんだ?」
「うん?」
「そこ、されると……っ、おれがイッちゃいそうになる、って、なんでわかんの?」
伊槻が言うと、迅は一瞬哀しい目をした。
「……知りたいから、かな」
「っ、あ……?」
「お前のことなら、何でも知りてぇって思ってるから」
迅の言いたいことが、伊槻には分からなかった。尻の中まで知り尽くしているくせに、これ以上何を知りたいというのだろう。けれど、
「おれ、も……」
迅の言いたいことが、心のどこかでは分かるような気がした。
「おれも、あんたのこと……なんだって知りてぇよ」
頬に触れて、引き寄せる。口づけをする。唇は温かかった。
「碧のことも、ちゃんと知りてぇ」
迅ははっと目を見張った。浅いところを焦らしていた熱杭が滑り込む。奥を突かれ、「んっ…」と声が漏れた。
「あんたが……おれのなかに、別のだれかをさがしてたこと、気づいてた。けど、おれはきっと、その人にはなれないって……」
淀みなく言葉が溢れた。ずっと心に秘めていた思いだ。心の奥底に封じ込めて蓋をしていた思いだ。
「もういないその人を思って、あんたはおれを抱いて……でも、それでいいんだって。その人のこと、あんたの心から追い出して、おれだけ見てくれなんて……だって、こんな体で……」
哀しくないのに、涙が零れた。言葉と一緒に、一粒零れた。最初の一粒が零れてしまうと、堰を切ったように後から後から溢れてきた。
「伊槻」
迅が優しく名前を呼ぶ。優しく手を握ってくれる。溢れる涙が、迅の唇を濡らす。
「ごめん、おれっ……」
涙を止める術を知らない。髪を梳いてくれる手が優しくて、余計に泣けた。
「こんなの、おれ、はじめてで……どうしたらいいか、わかんなくて……」
「うん」
「なんで、もっとはやく……っ、もっとはやく、あんたに会ってたら……おれは…………」
そうしたら、一目散に駆けていって、この胸に飛び込んで、抱きついて、死ぬまで離さなかったのに。何もかもが遅すぎた。
「……最初はそうだったよ」
迅は、先に続くかもしれない伊槻の言葉を十分に待ってから、口を開いた。
「お前にあいつを……碧を重ねてた。奇跡かってくらい、生き写しなもんだから、こいつはきっと運命だって、そう思ったよ。……けど、お前はあいつじゃないし、あいつもお前じゃないんだよな」
熱い指が頬を撫でる。慈しむ瞳が、伊槻だけを映していた。愛するもの、愛しいものへと向ける眼差しに違いなかった。
「お前はお前だ。他の誰でもない。そんなお前だから、俺は……」
唇が触れる。涙の味がした。
「お前があいつに似てるかどうかなんて、今となっちゃどうでもいいんだ。あいつに似ていようが、似ていまいが……お前が自分をどう思っていたって、俺はお前が大事だよ。今のお前を、大事にしてぇと思ってる」
こんなにも真剣な愛の言葉があったのか。こんなにも真剣に、愛を告げるのか、この男は。
「俺はろくでもない男で、ダメな大人だけど、お前さえ赦してくれるなら、一緒に生きたいんだ」
切実なまでの熱を帯びた瞳に見つめられては、自分を偽ることなどできない。伊槻は口づけを返す。抱きしめれば、抱きしめてくれる。真っ直ぐな視線が返ってくる。
「おれも……あんたとなら、どこまでだって生きたいよ」
幸福な喜びが満ちている。心に、体に、溢れている。もう何もいらなかった。この男さえいればいい。彼こそが、伊槻の世界そのものだった。
「俺と生きてくれ。今度こそ、最後まで」
今度こそ、最後まで。妙な言葉だったが、不思議と腑に落ちた。伊槻もそのつもりだったから。
強く、強く、胸が苦しいほど強く抱きしめられて、最奥を貫かれた。魂の迸りを受け止めて、伊槻も高みへ駆け上がる。
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