17 / 18
第五章 ④ 夜明け
夢を見た気がした。蝉の声に掻き消えた。既に夜は明けていた。青々と葉を茂らせる、川の畔の桜の樹に、蝉の声が響いていた。
無造作に転がされていた迅の携帯が鳴った。開いてみれば、柳からの着信だった。
「もしもし……」
「もしもしぃ!? やあっと繋がったわ。ったく、いつまでも無視しおってからに。心配したで、このアホたれが!」
「そりゃァ……」
悪かったな、と言おうとして、嗄れた喉が引き攣れた。けほ、と乾いた咳をすると、電話の向こうの空気が変わる。
「迅……? じゃない?」
「ああ、おれだ」
「伊槻クンか。な~んや、ちゃんと帰ってきてたんか。そりゃ一安心」
柳は一人で納得して膝を打つが、伊槻には何の話か見当もつかない。
「迅に聞いてない? キミ、昨日家出したって。電話も繋がらないんで、オレんとこ来てないかって、わざわざ連絡寄越してきて」
「あいつ、そんなこと……」
自分から突き放しておいて──それもおそらく本心ではなかったのだろうが──結局は伊槻の身を案じ、迎えに来てくれた。闇に沈む寸前で、伊槻を引っ張り上げてくれた。これが愛でなくて何なのか。
「なぁ、柳さん」
「うん?」
「あいつはもう、おれの──」
おれのものだ。そう言おうとした。言葉を続ける前に、携帯を取り上げられた。
「ひとの電話でなに勝手に話してんだよ」
「……だって、あんたがいつまでも寝てるから」
「だってもヘチマもねぇの。どうせ大した用じゃねぇんだから」
迅は通話を切るが、その瞬間、再び着信が鳴る。「出ろよ」と伊槻が言えば、迅は渋々といった具合に通話ボタンを押した。
「もしもぉ~し」
「もしもしぃ!? まだ話の途中でしょーが!」
「悪かったって、んな怒鳴んなよ」
迅と柳は二三話した。会話の内容を全て把握することはできないが、迅が柳の言葉を否定したり肯定したりして、通話は終わった。迅は携帯を無造作に放り、どさりと布団に倒れ込む。
「……なに話してた?」
仰向けに寝転んだ迅の上へ、伊槻は馬乗りにまたがった。迅は、まだ眠そうな目を開けて、伊槻を見上げた。
「なに話してたんだよ」
「……どうせ俺がお前を怒らせたんだろ、とか」
「合ってんじゃねぇか」
「いや、そこだけ切り取ればな?! でも俺にも色々事情っていうか、葛藤っていうか、あったしさぁ。お前ンこと、泣かすつもりはなかったし」
「なっ、適当こくな。泣いてはねぇだろ」
「お前の涙見て、やっちまったと思ったんだけどよ。追いかけられなかった」
声色に深い後悔を滲ませて、迅は伊槻の頬に触れる。優しい手に導かれて、唇が重なった。伊槻の視界を埋めるのは、目の前の男ただ一人だ。
「それから……」
「それから?」
「あいつ、ああ見えて鋭いとこあんだよな。……今度こそ、迎えに行けたのかって。そう言われたよ」
「……」
今度こそ。前回がいつだったのか、伊槻には知る由もないが、迅は確かに迎えに来た。切り傷だらけのこの腕がその証拠だ。思わず傷口に触れると、迅は不思議そうに首を傾げる。
「どした」
「……いや。自惚れてもいいんだなって」
「んなの、俺だって同じだぜ」
迅の指が下着の中へ滑り込んだ。昨夜の名残で十分に解れている後ろの穴は、あっという間に侵入を許してしまう。その上、身に着けているものは下着一枚という、最低の防御力だ。後ろを弄られながら、乳首に吸い付かれる。ビクッと伊槻が仰け反ると、迅は満足そうに唇を緩める。
「敏感でかわいーの」
「ばかっ、何時だと思って……」
「まぁまぁ、昨日セーブした分、付き合ってよ」
「セーブした……? 昨日のが……?」
喉が潰れるほど喘がされ、動けなくなるまで愛されたと記憶しているが。信じられないとばかりに目をぱちくりさせている間に、手早く下着を脱がされた。蕩けた穴は、既に三本もの指を咥え込んでいる。迅が早速、いきり立ったものを擦り付けてくるので、伊槻は待ったをかけた。
「きょ、今日はおれがやる」
「お前が? できんの」
「ったりめぇだろ、舐めんじゃねぇ」
僅かに腰を浮かし、手を添えて支えながら、己の中心へと導く。ちゅぷ、と先端がキスをする。入口に擦り付けるだけで焦らしていると、迅に腰を掴まれた。汗ばんだ掌に催促され、伊槻はゆっくりと腰を落とす。
「んっ、あ……、あっ、ああ……っ」
限界まで熱された肉杭が、肉体を割り開いて中心まで届く。勢い任せではない、しかし明確な快楽が、底の方からじわじわと這い上がってくる。腰がガクガク震えてしまって動けない。迅の胸の上で握りしめた両手が震える。ぽたりと汗が滴った。
快楽を受け流したくてぎゅっと瞑っていた目を開く。迅と目が合った。真っ直ぐに伊槻を見つめていた。昨晩何度も見たのと同じ、愛おしいものへ向ける眼差しだ。その奥には、確かな興奮と快楽を燻らせている。
堪らなくなり、胸が疼いた。それと同時に、口よりも雄弁な肉体が反応する。後ろを締め付け、迅の輪郭をはっきりと認識する。その感覚にも敏感に反応し、媚肉が痙攣を繰り返しては、甘えるように吸い付いている。
「っ、あ……んっ……」
まだほとんど動いていない。それどころか、最奥まで届いてすらいない。それなのに、伊槻は深く感じ入っていた。絶頂の寸前に揺蕩っている。一種の酩酊状態だった。
もちろん、迅はおもしろくない。いや、快楽の波を揺蕩う伊槻の姿は、十分に迅の目を楽しませたが、男の満足はそこではないのだ。迅は、伊槻の腰を掴んで押さえ付け、同時に、下から腰を突き上げた。
「一人でよくなってんじゃねぇよ」
重い衝撃に、伊槻は目を剥く。「あう゛っ」と嗄れた喉が濁った嬌声を響かせる。青い茎が露を飛ばす。痙攣する腹筋、薄い胸をとろりと濡らした。
「癖になってんの? トコロテン」
「しら、な……あっ、あ゛っ……!」
重い衝撃に、何度も何度も貫かれる。脳天まで揺さぶられる。体を起こしていられず、身を伏せて迅にしがみついた。
「お前がやるんじゃなかったのかよ」
「やっ、う……やるからぁっ!」
「こーんなくにゃくにゃになっちゃって、ホントにちゃんとできんの?」
「できっ、んん゛……やっあ゛、はやいぃ……っっ」
挿入は深く、律動は激しくなる。とてもじゃないが、伊槻が主導権を握ることなど不可能だ。迅の思うがまま、されるがままに快楽を与えられ、伊槻もまた、迅に快楽を与え、身も心も昂らせた。
蝉の声などすっかり遠のき、聞こえるのは二人の湿った息遣いと、深く繋がった中心から響く水音だけ。汗に濡れた肌が滑って擦れて、分かるのはその感触だけだ。
「なぁ、お前も腰、動かして。一緒にイッてくれんだろ」
熱い掌に支えられ、迅の呼吸を感じながら、伊槻も腰をくねらせる。腰を浮かしては擦り付け、奥を捏ねる。その度ごとに、いやらしい水音が立ち上る。自分が今、どんな恰好をしているのか。どれほど浅ましい姿を晒しているのか。考えただけでぞくぞくして、意識せずとも腰がうねった。
「やっ、んぅ゛…っ、あっ、あ゛っ」
「気持ちいい、な? 伊槻。気持ちいい」
「きもちっ、ひ…っ、きもちいい……っっ」
だらしなく舌を突き出して喘ぐ。唾液とも汗とも涙ともつかない体液が滴る。
もうイッてしまいそう。天井に指が触れる。けれど、まだイきたくない。自分一人だけが絶頂の海へ投げ出され、自己を見失うのが怖かった。自然と腰の動きが鈍る。そのことに迅は目敏く気づき、伊槻を抱きかかえると、体を反転させた。
繋がったまま、ぐるりと視界が反転する。柔らかな布団に背がついて、迅が上から覆い被さる。この重みが嬉しかった。押さえ込まれて苦しいのに、この苦しいのが嬉しかった。心地よかった。全てを明け渡している。奪い尽くされるのを待っている。
「やっぱ、こっち向きのが性に合うな」
熱い吐息と共に吹き込まれた。まるで耳から犯される。伊槻は迅の背中に手を回し、爪を立ててしがみついた。
迅が入ってくる。肚の奥、体の中心を暴かれる。その衝撃は、まるで鋭い電流となって、伊槻の全身を駆け巡る。気持ちいいのを運んでくる。快楽の波が押し寄せる。今にも持っていかれてしまう。
快感を声として解放し、振り落とされないようしがみつく。それでももう、激しい突き上げに耐えられない。全てを手放してしまいたい。そんな衝動に駆られる。でも、まだもう少し我慢したい。この男の全てを手に入れてから、自己を見失うのはその後にしたいのだ。
「やべぇな、もう……イッちまいそう」
余裕なく眉根を寄せる迅の笑顔に、胸が疼いた。きつく後ろを締め付ける。胎内に渦巻く熱の在処がはっきりと示される。
「じ、んっ……じん……っ」
彼を呼ぶ己の声が、信じられないくらい切なげで、甘ったるい。だが羞恥は覚えなかった。この声こそが、伊槻の嘘偽りない本心だ。
「くちっ……さみしい……」
切れ切れに伝えれば、後ろに受け入れた熱が膨張した気がした。
大きな口に食べられる。ほろ苦い味が唇を満たす。唾液の糸が交錯し、欲望と快楽とを織り上げていく。
長い舌を突き立てられて、濡れそぼった口腔内を掻き回される。甘く吸われた舌先が痺れる。言葉も吐息も絡め取られて、溺れてしまう。煮詰めたように蕩けた唾液が、喉を通り、胸を焦がす。自分でも手の届かない、肚の奥底を疼かせる。
脳の中枢が甘く痺れる。霞がかかったように、何も分からない。感じるのは、この男の熱。味。音。匂い。それだけが確かだった。強く抱きしめられて、息もできない。やがて、明白な快楽に貫かれた。
「んぁ゛…っ、あ゛っっ……ああぁあ゛ぁっ────ッッ」
頭の中、体の中、渦巻いていた快楽が一気に爆ぜた。世界が真っ白に弾け飛ぶ。今度こそ、何も分からなくなった。肉体を飛び出して、真っ白な世界へ放り投げられた。星がチカチカ瞬いて美しい。感覚を失ったのに、感じるもの全てが鮮烈だった。
やがて、意識が現実へ舞い戻る。宙を彷徨っていた意識が、伊槻の肉体に戻ってくる。再び強烈な快楽に貫かれ、伊槻は悲鳴を上げた。思い通りにならない四肢でじたばたと暴れるが、優しく、それでいて強引に、絡め取られてしまう。
「もっかいだけ、な? 付き合ってよ」
「やっ、や゛っ! もういっ、いった! いっだがら゛っ!」
「俺もイッたけど、すぐ復活しちゃったの。お前がエロくてかわいいから」
「やぅ゛…っ、ああ゛ぁっ! またいくっ、やだっ、いくっ、いくぅっっ────!!」
ぐぐっと腰が反り返った。逃れたいのに、自ら快楽へ突っ込んでいく感覚。与えられるだけでなく、自らそれを貪り食う感覚。
最奥を穿つ刀身に熱される。伊槻のそこは、彼専用に誂えられた鞘だ。ぴたりと収まる、一揃いの番だ。今この瞬間、伊槻は生物として完璧になる。迅も同じように思ってくれていたら、これ以上嬉しいことはない。
既に一度精液を受け止めて濡れている最深部を、ガツガツと暴き立てられた。伊槻が先に達し、その淫らな震えによって、迅が達した。胎を満たす迸りに、熱い生命の躍動に、伊槻は再び感じ入った。深い深い絶頂へと、足を踏み入れる。
気づいた時には、既に昼近い。冷房の効いた部屋に寝かされていた。台所から音がする。味噌汁の香ばしい香りが漂ってくる。開けたままの扉から、迅が顔を覗かせた。昨夜に続き、またも意識を飛ばすまで抱き潰したことを反省しているのか、少々決まりの悪そうな顔をする。
「飯食う? ちょうど炊けたけど」
「ん……」
寝起きなこともあるが、昨晩に続き酷使した喉は、もうほとんど干からびていた。冷たい水を一杯飲ませてもらうと、根っこの方まで染み渡るようだった。
狭い卓袱台に食事が並ぶ。ごはんと味噌汁、大皿におかず。長年独りで暮らしていると、男も家庭的になるのだろうか。ガサツな面の目立つ男だが、案外マメなところもあり、一度懐へ入れると決めた相手には、甲斐甲斐しく世話を焼きたくなるようだ。
「箸持てるか? 大丈夫?」
「……ばかにすんな」
「バカにはしてねぇよ。心配してるだけだろ」
「だれのせいだと思って……」
「俺のせいだよ? だから心配してんじゃねぇの」
二人で囲む、いつもの食卓。今日のごはんは柔らかめ。味噌汁には豆腐とわかめ。焦げ目のついたベーコンと、半熟とろとろの目玉焼き。野菜が足りないと思ったのか、申し訳程度のトマトとレタスが添えられている。
「なぁ」
伊槻が口を開けば、迅はお椀から視線を上げた。
「んだよ」
「……あんたの作る飯、おれ、好きだよ」
「……」
「おいしい」
何の変哲もない風景。見慣れた献立。それがひどく懐かしく感じられ、胸が熱くなった。
「俺も、お前と食う飯、好き」
「うん」
「けど、たまにはお前の飯も食いてぇな」
「それは……そのうち作ってやっから、待ってろ」
「料理とかできんの、お前」
「それこそバカにすんな。フライパンで適当に炙っときゃいいんだろ」
「うーわ、失敗する未来しか見えねぇな」
「んだと?」
「しょうがねぇから、俺が手取り足取り教えてやるよ。一緒に暮らすからには、覚えてもらわなきゃならねぇことが山ほどあるからな。覚悟しとけ」
「……優しくしてくれよ」
思い返せば、初めから愛されていた。
温かい家庭を知らずに育ち、父の顔は知らず、母にも興味を持たれず、義理の家族は伊槻から奪うことばかりを考えていた。そんな環境から逃れたくても、結局は尊厳を切り売りして生きることしかできない。
そんな伊槻に、初めて掛け値なしの愛情を注いでくれたのは、迅だけではなかったか。少なくとも最初から、差し伸べられた手を伊槻がはね除けさえしなければ、この手は伊槻を慈しみ、数々の絶望から伊槻を守ってくれただろう。もっと早く自由になって、彼の隣に立つことができただろう。
この人さえいればいい。他の全てが失われ、消えても、この人が隣にいてさえくれるのなら、他には何もいらない。そう思えるのは、愛されているからだ。そして、愛しているからだ。きっと、初めからずっと、そうだった。
「ところで、なんでピンポイントでおれの居場所が分かったんだ?」
伊槻が当然の疑問を口にすると、迅はぎくりと分かりやすく動揺し、はぐらかすような笑いを浮かべた。
「あ~、そこんとこ、気になっちゃう?」
「気になるだろ。なんかまずいことでもあんのかよ」
「いや~、ね? 怒んないで聞いてほしいんだけど、だってお前って、結構危なっかしいとこあるじゃん? 保護者としちゃあ、心配なわけよ。な? 分かるよな?」
「……ご託はいいから、簡潔に話せ」
結論から言えば、私物のあちこちにGPSを仕掛けられていた。制服の襟だの、カバンの底だの、財布やスマホケース、合鍵にぶら下げていた青いクラゲのマスコットにまで。見つけ次第叩き割ったことは言うまでもない。
「高かったのに」と迅は泣き言を漏らすが、知ったことではない。「これからは毎日帰るし、遅くなる時は連絡するから、それでいいだろ」と言い添えると、迅が幸せを噛みしめるように微笑むので、伊槻もつられて赤くなった。
ともだちにシェアしよう!

