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エピローグ 秋
後日、伊槻は全く気乗りしなかったが、迅がどうしてもと言うので、実家に連れていった。両親との顔合わせ、有体に言ってしまえば、結婚報告のような何か。だが、そう簡単に事が運ぶわけもない。
伊槻の連れていった相手が、年上の男。しかも、母とさほど年齢の変わらない男だというのだから、父の頭には瞬時に世間体の三文字が浮かんだことだろう。そのような爛れた関係は断じて認められないと、想定通りの反応を返してきた。
もちろん、迅はその程度のことで身を引く男ではない。この家が伊槻にとってどれほど危険か、端的に言えば、兄の大輝がどれほど危険な男なのか、どれだけ伊槻を虐げてきたか、揺るぎない証拠を突き付けた。
証拠というのは、兄自身が撮っていた映像だ。あの晩、荷室の床に転がっていた兄のスマホを、迅はこっそりくすねていた。兄の恐るべき犯罪、拉致監禁暴行強姦、そして殺人未遂といった犯行の一部始終が、このスマホには収められている。動画はコピーして、別の場所にも保管してある。もしものための保険である。
こんなやつのいる家では、伊槻は安全に暮らせない。今後二度と近づかないと約束するなら、警察へは届け出ない。ただし、もしも約束を違えた場合、証拠はこちらが握っているということを忘れないように。迅はそう啖呵を切った。
そこから先は、まさにカオスだ。激高した兄が殴りかかってくるのを、額に青筋を浮かべた父が殴り飛ばす。父子が揉み合いからの口論に発展する中、母は蒼褪めた顔を手で覆い、さめざめと泣く。
「余計なことばっかりして……あんたはまた、あたしの幸せを奪うのね」
指の隙間に覗く瞳が、静かに伊槻を責めていた。
「どうしていつもこうなのよ。なんでうまくできないの? あんたを生みさえしなければ、あたしはもっと……」
引き絞った呪いの言葉が漏れていた。迅が耳を塞いでくれた。けれど、本当は全部分かっていた。
混沌を置き去りにして、迅と伊槻は家を出る。空が青く晴れ渡っていた。怖いくらいに青い空。ヒグラシが鳴き始めていた。
「……辛かったな」
迅がぽつりと呟いた。
「辛い思いさせた」
「……いい。おれのためって、分かってるから」
あの場で動画を再生はしなかったが、何が映っているのか、兄はよく知っている。もちろん、父もある程度は察したはずだ。そして、迅は事前に確認している。あんなにも惨めな姿、本当は誰にも知られたくはないが、身を守る盾になるのだと思えば耐えられた。実際、これから先、あの映像は伊槻を守る盾になるだろう。
けれど、母はどうだろう。どこまで知っていたのだろう。
伊槻がどんな目に遭わされているか、知っていれば伊槻を守ってくれるだろう。だって、実の母親なのだ。腐っても唯一の肉親だ。伊槻には他に頼れる人がいなかった。何もしてくれないのは、事情に気づいていないからだ。そう、心のどこかで信じていた。
けれど、それと同じくらい、諦めてもいた。伊槻がどんな目に遭っているか、たとえ知っていても、母は何もしてくれない。ようやく手に入れた理想の暮らしを守ることが大切で、そのことだけが大切で、伊槻が尊厳を奪われようが、どうでもいいのだ。あの人は、そういう人だ。昔からずっとそうだった。伊槻のことなど、最初から見えていない。
自分がお荷物だという自覚は、幼い頃からあった。母も言っていた通り、伊槻さえいなければ、母の人生はもっと違ったものになっただろう。若くして子を授かってしまったせいで、諦めたものも多かっただろう。
だから、この結婚はせめて幸せなものであってほしいと、子供心にそう思った。可能な限り、母には幸せになってほしかった。理想の暮らしを、幸福な家庭を、できる限り守りたかった。母のために伊槻がしてあげられることなど、他になかった。
けれど、母の幸せを願った伊槻の幸せを、母は願ってはくれなかった。厄介なお荷物でしかない子供は、いつだって簡単に切り捨てられる存在だった。切り捨てるか否か、天秤にかける価値もない。母にとっての幸福に、伊槻は不要な存在だった。その程度の価値しかなかった。
「……離婚になるかもな」
上っ面だけの幸福な家庭すら、もはや演じることはできないだろう。実の息子を夫の連れ子に犯されたと知らされて、平気な顔をしていられるものだろうか。事情を知って隠していた夫や、おぞましい怪物でしかない義理の息子に、母はどう接すればいい。
父も父だ。実の息子が、妻の連れ子を犯していた。そんな事実を、愛する妻の前で明らかにされてしまった。そんな状態で、元通りの夫婦生活を送れるものだろうか。あの家族は、これからどうなるのだろう。
「お前を犠牲にして成り立ってた結婚だろ。一旦壊れりゃいいんだ」
迅は言った。爽やかな声だった。
「どうせ元から破綻してんだ。あいつらを踏み台にしたって、俺はお前に幸せになってほしいよ」
繋いだ手。指が絡む。引き寄せられて、肩が触れた。
「あのお父さんってさ、お金で何とかしようとしたりするタイプ?」
「……まぁ、わりと」
「なるほどね。いくら引っ張れっかな」
「おい、そういうのは」
「ごめんごめん。ゆすりたかりはなしな。分かってるって。向こうが何もしてこなけりゃ、こっちも何もしねぇで済むんだから。大体、警察沙汰にしてやべぇのは俺も一緒だし。あの親父さんなら、その辺も分かってると思うけど」
危険な賭けだった。危ない橋を、まだ渡っている最中で、だけど、もう何も怖くはない。汗ばんだ指を絡めて、伊槻は迅の頬に唇を寄せた。少し背伸びが必要なのを、迅はきっと分かっている。
「これから海までツーリングとか、どう?」
迅の誘いに、伊槻は頷く。軽々と抱き上げられ、スクーターに乗せられた。
「……あとさ。花火とか、見に行こうぜ……?」
伊槻を抱きしめたまま、迅は自信なさげに囁く。
「今年の花火は終わったぜ」
「じゃあ、来年。どうだよ」
「来年でも再来年でも、あんたが望むなら一緒にいてやるよ」
額にキスを落としてやると、迅は照れ隠しに笑う。
「絶対、約束だからな」
「そっちこそ、忘れんじゃねぇぞ」
「さすがにまだボケねぇよ」
迅が運転席にまたがる。ハンドルを握り、エンジンを回して、車体がゆっくりと進み始める。
青い風を切って走る。ほんの少し、秋の匂いが交じっていた。
*
永遠に続くと思われた長い長い夏を越え、迎えた九月一日。四十日ぶりに制服に袖を通し、カバンを肩に引っ掛けて、伊槻は玄関を開ける。
「いってきます」
そう言って外へ踏み出そうとした背中を、引き止める声がある。
「待て待て待て、大事なもん忘れてんぞ」
ランチクロスに包まれた弁当箱を、迅が手渡してくる。
「ああ、悪い」
「ったくよぉ、節約のために弁当にしようっつったの、どこのどいつだっけ?」
「おれだな」
「んで、作るのは結局俺だし。そのうち交代制にすっからな? 料理覚えろよ?」
「ん、まぁ、そのうちな」
「そのうちってなんだよ、そのうちって」
迅は呆れて溜め息をつくが、伊槻が素直に甘える限り、決して突き放しはしないのだ。
迅の出勤の時間も迫っている。バタバタと靴を突っかけて、慌ただしく家を出る。青く澄んだ秋の日差しに包まれて、「いってきます」と二人の声が重なった。
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