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第1話

 夜の街の騒音を遠く隔て、『理容 宮原』の店内は静まり返っていた。  宮原崇司は、消毒を終えた愛用の鋏を革のケースに収め、小さく息を吐いた。  六坪ほどの店内を見回す。師匠から譲り受けた壁の古時計、温かな電球色のペンダントライト、一面鏡に向かい合う黒革のバーバーチェア。十二年間変わらない、慣れ親しんだ静謐。  前の客は三十分前に見送った。鏡に映るのは、ワゴンの傍らに立つ、神経質そうな切れ長の目をした男だけだ。肘まで捲り上げたワイシャツに、ベスト、ボルドーのネクタイ。閉店間際でも、宮原の服装には寸分の乱れもない。  古時計が音を立てた。二十時まで、あと五分。  まるで計ったかのように、ドアベルが澄んだ音を響かせた。本日最後の予約客だ。  宮原は、穏やかに入り口へ視線を向けた。 「いらっしゃいませ」  そこに立っていたのは、神崎宗一郎だった。上質なチャコールグレーのスーツを隙なく着こなした逞しい体躯は、四十を幾許か過ぎた今も些かの弛みもない。 「お待ちしておりました」  いつもの挨拶を口にしながら歩み寄る。ドアのプレートを『CLOSED』にひっくり返し、上着を預かりながらバーバーチェアへ案内する。  その短い動作の間にふと、宮原は、男の纏う空気の異質さに気づいた。  いつもなら大きく息を吐いてリラックスしながら椅子に身を沈める神崎が、今日は背筋に鋼が通ったような硬質さを保っている。彼が新入社員の頃から二十年に渡る付き合いだが、宮原の前でここまで緊張しているところは記憶になかった。  どうかなさいましたか、と喉まで出かかった言葉を、宮原は静かに飲み込んだ。客のプライベートに踏み込まない。宮原の絶対的なルールのひとつだ。  白いクロスを神崎の首に巻きながら、鏡越しに目が合った。鋭い光を宿した瞳が、じっと宮原を見返してくる。日に焼けた精悍な顔立ち。見つめられるたび、宮原の鼓動は乱れを帯びる。  平静を装い、唇を開いた。 「本日はいかがいたしましょう」 「……いつも通り頼む」  短く、重い声だった。  宮原は、かしこまりました、と柔らかく答え、淡々と施術を始めた。シャンプー、カット、首と肩のマッサージ。静かな店内に、きびきびと動く宮原の立てる音だけが小気味よく響く。  いつもなら、宮原の鋏の音に重ねて、神崎がぽつりぽつりと当たり障りのない話をすることもあった。しかし今日の神崎は固く唇を結んだまま、鏡の中の宮原から一度も視線を外さない。何かを問い質すような、あるいは何かを覚悟しているような瞳に、呼吸すら詰まりそうになる。  一体、何があったというんですか。  心の中で問いかけても、もちろん答えはない。  宮原は、ただひたすら己の指先に意識を集中させた。硬いが艶やかな髪も、熱い肌の弾力も、先月と何も変わらないのに。  施術開始からきっちり五十分。シェービングを終え、熱い蒸しタオルで神崎の顔と首筋を丁寧に拭う。通常メニューなら、この後はヘアドライとスタイリングだ。  ただ、神崎の場合は。  よどみなく動いていた宮原の指が、止まった。  いつもなら、この後に。  鏡の中で、視線が重なる。 『マッサージは、いかがなさいますか』 『そちらも、頼む』  いつもなら、必ずそのやりとりがあった。  マッサージ。通常メニューとは違う、二人の間だけで通じる隠語。――店の奥のバックルームで、言葉も交わさずただセックスをする。宮原が独立して以来、十二年も続いている、神崎だけの特別メニュー。  今夜も当然そうすると思っていた。しかし。 「宮原さん」  逡巡を見透かしたように呼ばれ、小さく肩が跳ねる。  乱れる鼓動を隠し、鋭い神崎の視線を鏡越しに静かに受け止める。 「来月から、シンガポールに行くことになった」  一瞬、聞き間違いかと思った。  シンガポール。  頭が真っ白になる。ただ、長年染み付いたプロとしての習性で、唇は勝手に動いていた。 「ご出張ですか」 「転勤だ」  動揺を隠せず、僅かに瞳を瞠る。入店時からの、神崎の纏う違和感。その答えがこれだ。  鏡の中の神崎の瞳は、変わらず厳しさすら帯びたまま、感情を窺わせない。 「アジア太平洋地域を任されることになった。期間は未定。……状況によっては、向こうに住むことになる」  呼吸が止まった。 「だから」  神崎が、一度、言葉を切る。鏡の中の瞳は射抜くように宮原を見つめたままだ。 「今夜が最後になるかもしれない」  感情を押し殺した平坦な声。  血の気が引いた。  しかし宮原の唇は、意思とは無関係に、完璧に訓練された店主のそれとして動いた。 「……さようでございますか。ご栄転、おめでとうございます」  震えひとつない、穏やかで、涼やかな声。  静かに目礼を向け、クロスを取り去る。そして手際よくクロスを畳みながら、さりげなく鏡に背を向けた。こうして表情を隠す隙さえあれば、動揺を抑え込むのはわけもないことだ。  再び鏡に向かい合う。神崎の視線が鋭さを増していることを知りながら、柔らかく笑んだ表情は変えない。 「では、今夜は『マッサージ』はいかがなさいますか」  いつもと同じ口調で問えた自分に安堵する。  鏡の中で、神崎の凛々しく太い眉が険しく寄せられた。 「……それだけか?」  その声は、地を這うように低かった。微笑を貼り付けたまま、宮原の喉が小さく動く。 「お前が俺に言うことは、それだけなのか?」  強い光を放つ瞳が、鏡越しではなく、振り返って宮原を直接射抜く。心臓が大きく跳ねたのは、決して怯えの所為だけではない。  それでも宮原は、完璧な笑みを湛えたまま口を開いた。 「私は、神崎様のご要望にお応えするだけです」  ご要望。  その言葉を口にしながら、十二年前の夜の記憶が鮮やかに蘇った。

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