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第6話

 意識が戻る。  見慣れた天井。店内の木目とは違う、無機質な白いクロスは、バックルームのそれだ。そして視界に映るこの画角は、仮眠用のベッドで目覚めた時の。それほど時間は経っていないと直感する。  視界に影が差した。横たわったまま視線だけを動かす。あれほど強引だった神崎が、自分のしたことに戸惑っているかのような表情で立ち尽くしていた。その落差にやや拍子抜けする。 「――……なんでそんな顔なんだ」  呆れたように言いながら身を起こす。身体の節々が気だるく軋み、奥深くを貫かれた場所はまだ微かな熱を持って疼いていた。  シャツ以外の着衣は脱がされている。汚れを拭うためだろう。身体の表面は清められていた。 「やりすぎた。すまん」  頭を下げられたが、怒る気にもなれなかった。鏡に映っていた、あの蕩けきった顔。隠しているつもりだった。しかし結局、神崎にはすべて見透かされていた。そんな自分が、今更何を言えるというのか。  ため息をつきながら落とした視線が、ふと、自らの両手で止まった。 「痕が残ってる」  ぽつり、と呟く。白い手首に無残に残る、ネクタイの縛り痕。 「仕事に大いに差し支えるんだが」 「いつも腕まくりしてるもんな」  さっきまでの神妙な態度はどこへ行ったのか、神崎があっけらかんと答える。宮原は呆れながら、またため息をついた。  そのまま、僅かに沈黙が落ちた。宮原の視線の先で、きちんと手入れされた神崎の革靴が控えめに艶を放っている。 「ずっと…、こんなことを望んでいたのか?」  ぽつ、と、問いが落ちた。 「無理矢理したかったのか、って聞いてるのか?」 「そうだ」 「なら、違う」  視線を上げた。宮原を見下ろしている、静かに凪いだ瞳。しかし出会ったときからずっと、その瞳の奥には押し込めた熱が揺れていた。目を背けていたのは、宮原の方だ。その熱に焦がされ、歓喜していた自分からも。 「俺の望みはもう知ってるだろう、宮原さん」  十二年間。  『理容師』と『客』であり続けようとした宮原。  宮原が引いたそのラインを、幾度も越えようとした神崎。  確かに自分はずっと目を背けていた。受け入れるわけにはいかなかったからだ。  ほろ苦い感情が、宮原の胸を締め付ける。 「無理だ」 「何が?」 「応えられない。俺は――、」  ふと、言葉が途切れる。  こんな時、神崎を何と呼べばいいのか。『神崎さん』『あなた』『お前』――いくつもの呼称が浮かんでは消える。二十年近く顔を突き合わせているのに、そんなことも分からない仲なのだ。  一瞬きょとんとした神崎は、しかしすぐに小さく吹き出した。 「好きに呼べばいい。宗一郎さん、だと嬉しいが」  その優しい響きに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。小娘でもあるまいに、と自嘲しながら、本当はずっとそう呼びたかったのかもしれない、とも思う。  結局、唇から滑り出たのは、十二年間使い古した言い訳だった。 「……お客様に向かって、そんな呼び方はできない」 「お客様と、バックルームでセックスはするのにか?」  言い返すことができなかった。  自分の浅はかな言い訳など――『神崎様のご要望』という建前で、神崎と身体を繋ぐ時間を渇望していたのは自分のほうだということなど、疾うに神崎は見抜いている。 「で? 『応えられない』理由は?」 「――……」  宮原の視線が再び下がった。丁寧に磨かれた木目の床。  どう答えるのが正解なのか。いや、そもそも『正解』とはいったい何なのか。『お客様』に向かって肌を晒したまま、敬語も使わず言葉を交わしているこの状況は『正解』なのか。それを言うなら、十二年前のあの夜、神崎と一線を超えたことが既に―― 「何考えてる」  沈みかけた思考が断ち切られる。弾かれたように上がった視線は、真っ直ぐで強い神崎の瞳とぶつかった。 「あんたが恐れてるのは何だ? 俺の会社での立場か? 俺の隣に男がいることが知られたらキャリアに傷がつくかもしれない、とかそんなことか?」 「……!」 「図星か。馬鹿にするなよ、宮原さん。俺の心配は俺がする」  いとも容易く本心を見抜かれ、暴かれ、そして一蹴される。ぐうの音も出ない。 「諦めろ。もう逃がしてやるつもりはない、と言っただろう」  頭上から決然と振ってきた声に、また俯いてしまっていた顔を上げる。日に焼けた精悍な、自信に満ちた男の顔がそこにあった。 「もう一回言うぞ」  わざとらしい咳払い。 「来月からシンガポールへ行く。一緒に来い」  楽しそうに、同時に獰猛に笑う神崎を、無言で見上げる。精気と活力に満ちて輝く瞳。百戦錬磨の企業戦士にふさわしい眼光――ただ、その奥に揺れる、微かな緊張。  ふ、と宮原は口元を緩めた。そして無造作に立ち上がる。 「断る」  淡と言い捨て、神崎の横をすり抜ける。  バックルームの片隅に設えられた、簡易なシャワールーム。そのドアを開きながら、呆然と立ち尽くしている神崎へ肩越しに視線を向けた。 「来月からはさすがに無理だ。――三か月先まで予約が入ってる」 「……!」  何かを言いかけた神崎に構わず、シャワールームへ引っ込んだ。とにかく、まずシャワーだ。  そして、ドアを開けたまま、その場から動こうとしない神崎を一瞥した。 「来ないのか?」  床を鳴らす革靴の音が、背後で普段よりも高く響いた。 【終】

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