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序章 白い部屋の獣

研究棟の廊下は、消毒液の匂いで満ちていた。 祷は白衣のポケットに手を入れたまま、ガラス越しに観察室を見つめる。そこには、今朝方連れてこられたばかりの被検体がいた。 褐色の肌、猫科のような耳と尻尾。獣人の少年。小柄な体躯と幼い顔立ちは、年齢よりもさらに幼く見えた。 「カナン、15歳。純血種の獣人、性別分類Ω」 助手が読み上げる資料に、祷は頷くだけで返す。感情を表に出さないのは、研究者としての矜持だった。いや、そうあらねばならないと自分に言い聞かせていた。 「発情期のサイクルは?」 「不規則です。ストレスや環境の変化で誘発される可能性があります」 祷は眉をひそめた。それは厄介だ。研究には安定したデータが必要なのに。 観察室のドアを開けると、カナンがびくりと身を震わせた。大きな瞳がこちらを見上げる。怯えているのか、それとも—— 「はじめまして。私は祷。君の担当研究者だ」 できるだけ柔らかい声を心がけた。βである自分には、αのような威圧的なフェロモンも、Ωのような甘い匂いもない。それが研究には適していると、祷は信じていた。 「い、祷さん……」 カナンの声は、鈴を転がすように澄んでいた。小さく震える手が、祷の白衣の裾をそっと掴む。 「ぼく、ここにいていいんですか?」 その問いに、祷は一瞬言葉を失った。獣人の社会的地位の低さを、この少年はどれほど理解しているのだろう。 「もちろんだ。君は私の大切な——」 研究対象、と続けるべき言葉が、なぜか喉に詰まった。 「大切な、協力者だ」 カナンの顔が、ぱあっと明るくなる。その無垢な笑顔に、祷は胸の奥で何かが軋む音を聞いた。

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