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第一章 触れられない距離
研究を始めて二週間が経った。
カナンは驚くほど素直で、どんな検査にも文句一つ言わずに応じた。採血も、脳波測定も、長時間の催眠セッションも。
「祷さんのためなら、なんでもします」
そう微笑むカナンを見るたび、祷は罪悪感に苛まれた。この研究は、本当にカナンのためになるのだろうか。それとも、自分の理想を押し付けているだけなのか。
「今日は催眠の深度を上げます。リラックスして」
研究室のベッドに横たわるカナンの額に、祷はそっと手を置いた。体温が高い。獣人特有の体質だと分かっていても、その熱さにどきりとする。
「祷さんの手、冷たくて気持ちいい……」
カナンが目を細める。その表情があまりに無防備で、祷は慌てて手を離した。
「集中してください。これから暗示を入れます」
催眠装置のスイッチを入れる。低い振動音が部屋に響き、カナンの瞼が重くなっていく。
「あなたの本能は、理性によってコントロールされる。発情の衝動も、性別の枷も、すべて自分の意志で制御できる……」
暗示の言葉を紡ぎながら、祷は複雑な思いを抱いていた。
本能を抑え込むことは、本当に正しいのか。αとΩが惹かれ合うのは自然の摂理で、それを否定することは——
「う、ん……」
カナンが小さく呻いた。額に汗が滲んでいる。
「大丈夫ですか?」
「熱い……なんか、変……」
カナンの呼吸が荒くなる。頬が赤く染まり、瞳が潤んでいく。
まさか——
「発情期……?」
祷は慌てて催眠装置を止めた。カナンの身体が小刻みに震えている。甘い匂いが部屋に充満し始めた。Ωの発情フェロモンかと思ったが、獣人族には獣人特有の発情期を有する。獣人族はα性とΩ性とが番で存在することが多いが、カナンのベースとなっている獣人族は最早ほとんどが死滅していた。その為、Ω性であり、且つ獣人族の発情期を有するカナンは高値で取引され、様々な研究の対象となってきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……抑えられない……」
涙を浮かべながら謝るカナンを見て、祷の胸が締め付けられた。
「謝る必要はない。これは自然な反応だ」
「でも、研究の邪魔に……」
「大丈夫だ」
祷はカナンの手を握った。小さく、熱い手。
「少し休もう。落ち着くまで、私がそばにいる」
「祷さん……」
カナンが祷の手を強く握り返す。その瞳に映る信頼と、別の何かに、祷は目を逸らした。
βである自分には、Ωの発情も、獣性の発情も鎮める力はない。ただ、そばにいることしか——
「あの、祷さん」
カナンが身を起こす。上気した顔で、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「ぼく、祷さんがいい」
「何を言って——」
「抱いて、ください」
時が止まったような錯覚に陥った。カナンの言葉の意味を、理解することを脳が拒否している。
「それは、発情期の影響で——」
「違います」
カナンが首を振る。耳がぺたんと倒れ、尻尾が不安そうに揺れた。
「ぼくは、祷さんだから、お願いしてるんです」
その真っ直ぐな瞳に、祷は何も言えなくなった。
研究者として、これは越えてはいけない一線だ。被検体との関係は、あくまで観察者と対象でなければならない。
でも——
「ごめん」
祷はカナンを抱きしめた。細い身体が、腕の中で震える。
「これ以上は、できない」
「……はい」
カナンが祷の胸に顔を埋める。涙で濡れた頬が、白衣を湿らせていく。
「でも、嬉しい」
その呟きに、祷は答えられなかった。ただ、震える身体を抱きしめることしかできなかった。
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