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第1話 不思議な洋館

 ハロウィンの夜が神戸・北野の街を包んでいた。  石畳の通りにはジャック・オー・ランタンが無数に並び、(オレンジ)色の火が古い洋館の壁を照らしている。  仮装した人々の笑い声が風に混じり、街全体が祝祭の舞台のように賑わっていた。  人の波に押されながら、大上史狼(おおかみしろう)は小さくため息を漏らした。  その頭には、イベントスタッフに無理やり押しつけられた狼耳のカチューシャが乗っている。黒髪の上に銀色の耳が揺れるたび、すれ違う子どもに「本物みたい」と笑われ、余計に気恥ずかしかった。 「……やっぱ、カップルだらけだな」  ぶすっとした呟きは、隣を歩く恋人に届いてしまった。深水海都(ふかみかいと)は史狼の横顔を見て、静かに微笑む。 「……やっぱ、カップルだらけだな」  ぶすっとした呟きは、隣を歩く海都に届く。 「ハロウィンだしね」  彼は控えめながらもヴァンパイア風のジャケットに身を包み、周囲の仮装の人混みに溶け込んでいる。  いつもは大人びたスーツ姿が多い彼だが、今夜はどこか芝居がかった華やかさを纏っていた。 (……似合いすぎだろ)  史狼は海都を横目に見て、思わず胸をざわつかせる。海都はそんな彼の羨望にも照れにも似た視線を受け流しながらさらに一言付け加えた。 「それに、他人事みたいに言ってるけど、僕たちもその一組だよ」  その言葉に、史狼の頬が一気に熱を帯びる。  付き合い始めてまだひと月足らず。長年の憧れがやっと実った今でも、恋人同士の距離感に戸惑うばかりだった。  海都はそんな彼の困った表情を見て、さらに柔らかく笑った。 「その狼耳、よく似合ってるね」 「……こんなの似合うわけねぇだろ」 「ううん、可愛い。いっそ本当に生えてて欲しいくらい」 「な、何言ってんだよ、もう」  照れ隠しに足を速めると、背後から苦笑交じりの声が追ってくる。 「シロ君、急ぎすぎ」  長身の彼にとって、史狼の早歩きに追いつくのは容易い。むしろ、その初々しい反応を楽しんでいるように見えた。  やがて二人はメイン通りの喧噪(けんそう)を離れ、裏道へと入る。街灯に照らされた石畳の隙間から(こけ)が緑に光り、古い港町の影が色濃く残っていた。  曲がり角を抜けた先に、見慣れない館が影を落としていた。  そこに立っていたのは三階建ての洋館だった。石造りの外壁を(つた)が覆い、尖塔の風見鶏が夜風に軋む。窓からは黄の明かりが漏れ、門には札がかかっている。 《今宵に限り 入場無料 ハロウィン特別開館》 「……こんな館、案内にあったっけ?」 「なかったな」  建築デザイナーでもある海都は、職業柄この辺りの建築には詳しい。だが、この館だけは初めて目にするのだと言う。  かと言って最近建てられたものではなく、様式は完璧に明治初期そのもの。まるで時代ごと切り取ってきたような趣のある佇まいだった。 「せっかくだし、入ってみようか」 「……えっ、誰も他にいねぇのに?」  疑念を口にする史狼の手を、海都は軽く引いた。建築物への興味が、違和感より勝ったのだろう。普段は冷静な彼の瞳が熱を帯びていることに気づき、史狼は小さくため息をつく。とても止められる気はしなかった。 ◇  扉を押し開けると、思いがけないほど豪奢な空間が広がっていた。  天井の高い玄関ホール、赤い絨毯に覆われた階段、壁には大きな油彩画。  明治期の異人館を思わせる内装は、外観から想像していたよりも遥かに重厚だった。  蝋燭やランタンが整然と灯され、埃一つない。  まるで長く眠っていた館が、今夜だけ目を覚ましたかのようだった。 「……すげぇ」  史狼は思わず感嘆の声を漏らした。だが次の瞬間、眉をひそめる。 「でも、なんかちょっと……埃っぽいな。普段は廃墟なんじゃ――」  言い終える前に、黒いメイド服の女性が慌てて駆け寄った。 「申し訳ございません! すぐにお掃除を」  甲斐甲斐しく拭き始める姿に、史狼は慌てて手を振る。 「あ、いや、そんなつもりじゃ……! ごめん」  メイドは微笑み、首を振った。 「いいえ。館は我がご主人様の誇り。灯りを絶やさぬために、常に整えておかねばならないのです」  その横で、背筋を正した老執事が歩み出てきた。  白髪まじりの髪に燕尾服、深い皺の刻まれた顔に、理知的な光を宿した瞳。 「ようこそ、客人の方々」  執事は深々と礼をした。 「今宵は特別な夜。どうぞ、ご主人様の館でのひとときをお楽しみください」  二人は顔を見合わせ、導かれるままに館の奥へと進んでいった。  蝋燭の光に照らされた廊下は不思議なほど静かで、人の気配は執事とメイド以外にない。  それでも遠くから微かに音楽の調べが流れてきて、館全体が息づいているかのように感じられた。  史狼は思わず海都の袖を引く。 「……なぁ、やっぱなんか変じゃねぇか、ここ」  低く囁いた声に、海都は肩越しに振り返り、 あえて穏やかな笑みを浮かべる。 「せっかくの夜だよ。こんなシチュエーション、なかなか味わえないし。少しだけ特別な夜を楽しんで行こうよ」  その瞬間、史狼の胸にざわめいた違和感は、甘くも不安な予感に変わっていった。  ――この館で過ごす一夜が、ただの戯れで終わらないことを、まだ知らぬままに。

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