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第2話 林檎すくい(アップルボビング)

 海都は館内の内装を見渡しながら、興味深げに呟く。 「この装飾……明治中期から大正にかけての洋館建築の様式だ。保存状態が良すぎるくらいだね。……ここ、本当に公開されてない館なのかな」  史狼は腕を組み、不安げに周囲を窺った。 「なあ、……やっぱ変だろ。こんな立派な館、今まで聞いたこともねぇのに」  執事はそんな二人のやり取りを聞き流すように、ゆったりと広間へと導いた。 「今宵はハロウィン。いくつか簡単な催しをご用意いたしました。……まずはこちらへ」  案内された広間の中央には、銀の大鉢が据えられていた。  水に浮かぶ真っ赤な林檎が揺れ、蝋燭の光を映してきらめいている。 「こちらは“アップルボビング”と申します」  執事が声を響かせた。 「ハロウィンの夜に行われる占いの遊戯。手を使わずに林檎を取ることができれば、恋が成就すると伝えられております」 「へえ、聞いたことはあるけど、実際にやったことはないな。面白そうだね」  海都は迷わず前へ進み、髪を押さえて顔を水面へ近づけた。  数秒の静寂ののち、水を割って林檎を噛み取り、すっと顔を上げる。  水滴が頬を滑り落ちる姿は涼しげで、余裕そのものだった。 「ほら見て、シロ君。意外と簡単だよ」  何事もそつなくこなす海都を見て、史狼は内心で舌打ちする。 「……オレは、そういうのはいい」 「そんなこと言わずに」  背中を押され、渋々膝をついた。  林檎はゆらゆらと逃げるように揺れている。  深呼吸して顔を沈めたが、全く噛み取れない。  頬も髪も濡らして惨敗だった。 「……全然ダメだ」  むっつりと呟くと、海都の肩が小さく震える。 「笑うなよ」 「笑ってない」  言いながらも、口元は明らかに緩んでいる。 「お二人でご一緒に挑戦なさっては?」  メイドの声に、史狼は思わずえっと聞き返す。断ろうとしたが、海都が頷くのを見て、観念した。  二人で並んで水鉢に向かう。海都が肩に手を置き、声をかけた。 「せーの」  同時に顔を沈める。水越しに視線が重なり、頬がかすかに触れ合った。  心臓が爆発しそうになるのと同時に、林檎が跳ね上がった。  顔を上げた二人は、揃って頬を真っ赤に染めていた。 「……これ、協力って言う?」 「でも、うまくいったね」  海都の声は、いつもより少し掠れていた。  史狼は言葉を返せず、林檎を強く握りしめるだけだった。彼の髪は水に濡れて額へ張りつき、頬からも滴が落ちていた。  そこへ、メイドが大きなタオルを持って近づいてきた。 「どうぞ、こちらお使いください」 「あ、悪ぃ……ありがと」 「少しここでお休みくださいませ。私どもは次の準備を整えてまいります」  執事も後方で恭しく一礼し、二人を残して扉を閉める。  客間に残ったのは、橙のランタンの灯りと二人の息遣いだけだった。 「……ほら、貸して」  海都がタオルを取り、濡れた髪をそっと拭い始める。毛先を指先で押さえ、丁寧に水気を吸わせていく。 「そんな丁寧にしなくても……」 「いいんだ。僕がやりたいから」  額にかかる髪を拭き上げられ、視線が近づく。史狼はその近さに慣れなくて、あまり顔を上げられないでいた。  その仕草が可笑しくも愛しくて、海都は思わず頬へ軽く唇を触れさせた。  触れたのはほんの一瞬。それでも史狼は目を見開き、真っ赤になって固まる。 「……っ!」 「大丈夫。二人きりだから」  微笑みながら、海都は耳元に囁く。 「だからって、今かよ」 「ごめん。我慢できなかった」  史狼はタオルをぎゅっと握りしめ、言葉をなくした。蝋燭の炎が揺れ、彼の赤い横顔を照らす。  沈黙が落ちた。  史狼は胸の鼓動が落ち着かないまま、ふと耳を澄ます。  ——静かすぎる。風も、館特有の軋みも、何一つ聞こえない。 「……やっぱり、この館、普通じゃねぇな」  小さな呟きに、甘さに包まれていた空気がわずかに揺らぐ。  けれど海都は穏やかな笑みを浮かべ、壁を見渡した。 「百年以上前の意匠なのに、綻びが一つもない。柱の継ぎ目も梁の曲がりもない。……でも、きれいだ。作った人間の誇りが残ってる」  史狼は肩をすくめ、気まずそうに視線を逸らした。  海都はそんな仕草に微笑み、濡れた髪をもう一度拭った。 「君がここにいてくれるだけで、僕には十分だから」  史狼は赤くなったまま、そっぽを向いた。 「……オレは全然十分じゃねぇよ。この屋敷だって変だし、あの執事とメイドも、普通の人間じゃねぇだろ」 「うん、そうだね」  海都はあっさりと肯定した。 「普通じゃない。建築としても時代考証としても、ありえないことばかりだ。だけど……こんな貴重な体験、滅多にできないだろ?」 「……マジで言ってる? それ」  史狼は呆れ声を上げる。 「だって、君がそばにいるんだ」  海都は真剣な眼差しで言った。 「ゴーストハンターの君がいてくれるなら、僕には何の問題もない」 「…………」  史狼は言葉を失い、深くため息をついた。 「……そういう油断が、一番危なっかしいんだよ」   史狼が眉をひそめると、海都は静かに首を振った。 「大丈夫だよ。僕は君のそばから離れない」  真っ直ぐに見つめられ、史狼は一瞬言葉をなくした。  深くため息をつき、タオルを握りしめる。 「……こういう時の海都さんには敵わねぇな」  観念したようにため息をつく史狼の額を、海都はそっとタオルで押さえた。  そのとき、重厚な扉を叩く音が響く。 「──そろそろご案内して、よろしいでしょうか?」  控えめな声と共に、執事が姿を現した。  その声音は静かで礼を尽くしたものだったが、どこか先ほどの会話の断片を耳にしていたような気配を含んでいた。史狼は思わず肩を竦め、心臓が跳ねる。海都は取り繕うように微笑み、何もなかったかのように振る舞った。  執事は恭しく一礼し、扉の外を指し示す。 「次の催しの準備が整いました。メイドが紅茶をお淹れしてお待ちしております。どうぞ広間へ」  史狼はタオルを手にしたまま、ちらと海都を見上げる。 「……行くか」 「うん」  落ち着いた声で応じる海都に導かれ、二人は椅子を立った。  館の奥からは、紅茶の芳しい香りがかすかに漂い始めていた。

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