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1.グストル

 あなたは彼を、どのように定義しているだろうか。彼の名はあなたにとって、どんな意味を持つだろうか。  第二次世界大戦最大の戦犯?  人類史上類を見ない凶悪な独裁者にして大量虐殺者?  世界で最も冷静沈着な民族を恍惚とさせ、熱狂の渦に巻きこみ、血と爆風の破滅へと誘った魔性の煽動家?  この全てを含めた、悪魔に魅入られた男?未来永劫、全人類に断罪されて然るべき呪われし者?  その通り。正しいのはあなたと、全ての善良な人々だ。ぼくはこの告白が如何に罪深く、許されないものかを知っている。でも、ぼくは百年先までも、語り伝えずにはいられない。根本的に非政治的な人間として、一九四五年に最終的に終焉を迎えた一時代の政治的出来事に同調(アイデンティファイ)することができなかったと同様、如何なる地上の暴力も、彼との青春時代の交友を、曾てのひたむきな愛の日々を、幾度となく重ねた肌の温もりを否定するよう、ぼくに強いることはできなかった。  ぼくにとっての彼は、いつまでも、飢えた絵描きで、自分の物語にのめりこみすぎては時々別の世界に飛んで行ってしまう危うげな夢追い人。  二十世紀の黎明期、十代の日々の情熱と驕慢と、芸術や自然への純粋な愛好を分かちあった友人。  並外れた洞察力を以て、ぼくの音楽家としての素質を見出し、高く評価し、並外れた雄弁を以て、父をはじめとした周りの人たちを説得してくれた恩人。  そして、ただの愛しい男の子だった。  「きれいだよ、アドルフ」  ウィーンの夜、ベッドの中で、ぼくは彼の耳に囁きかける。それは、古ドイツ語で「Adel(高貴な)」「Wolf(狼)」という意味で、古くから好まれる素晴らしい名前だったが、二十世紀後半以降は、ドイツ語を話す人々の間で、その名前を息子に付ける親は滅多にいなくなってしまった。  もちろんその時のぼくはそんなことは知る由もなく、また、それが今この腕に掻き抱いているこんなにも繊細な愛しい恋人の故だとは尚更知ろうはずがない。  あばら骨の浮いた胸に顔を寄せ、ピンク色の小さな堅い果実のような乳首に代わる代わる口づけた。花を摘むように、もう一方を軽く指で触れながら、一方を啄むように吸い、舌先で転がすと、頭の上で彼の小さな溜め息が聞こえた。  ぼくと彼とは一九〇四年、それぞれ十六歳と十五歳の秋、故郷のリンツという街の劇場で出会い、恋に落ちた。初めて結ばれたのは、二人でよく散策に行っていたリンツ郊外の森の中だった。  ぼくは既に父の工房に入って働いていたけれど、本当は家業の椅子張り職を継ぐのが嫌で、音楽家になりたいと思っていた。そんなぼくの心の内を察して、うちの両親を説得し、一九〇八年に一緒にウィーンに連れ出してくれたのが画家を目指していたアドルフだ。  ほんの数ヶ月の短い間だが、ぼくらは同じアパートの一室に住んでいた。ぼくはすぐに入学を許可されて音大に通うようになったが、アドルフは一度、美大を不合格になり、浪人中の身だった。彼の反権威主義的な傾向が教授たちの癇に障ったのかもしれない。  「アドルフ・・・・!出すよ」  ぼくは彼の黒髪に手を絡ませ、情熱的に叫びながら腰の動きを速める。専ら、女性を相手にする時と同じように、彼の中に挿し入れて機械的に体を上下させるだけで、若かったせいもあって大抵あまり時間をかけずに果てたが、彼はしばしば、女性のように、必ずしも射精を伴わない、長い、複数回に亘る絶頂感を得た。  行為の後は一つの掛布にくるまり、肩を寄せあって、よく話したものだった。  「詩人はなんで、『青春』なんて呼んで称えるんだろう。若さが素晴らしいなんてちっとも思えない。思うようにならないことばかりで、愚かさや醜さや悔しさや憤激の塊じゃないか」  何の話のついでだったか、ぼくが予てから不満に思っていたことをふと洩らすと、彼はごく短い間考え、絵描きとして至極当然な見解を述べた。  「若い肉体は美しい。美しいものに憧れたり、描写したがったりするのは人間の自然な心の働きだと思うけど。花や子犬やギリシア彫刻を醜いと忌み嫌う人はないだろう?」  「ああ、そうかな。でも、この世界はこんなに美しいもので溢れているのに、どうして人間はめちゃくちゃにしようとするんだろう?」  「めちゃくちゃって?」  「戦争とかさ」  後から考えると少し意外なことだが、この時、「戦争」という単語は、蓮の葉に置いた露のように、するすると彼の心を滑り落ちて行ったようだった。それには全く反応せず、彼はこう尋ね返した。  「グスタフ、美しさって何だろうね?」  ぼくが答えられないでいると、  「悪の華とか、滅びの美とか、そういう感性もある」  そう淡々と語った。例の神懸かり的な興奮は見せず、声は上擦らなかった。刺すようなブルーの瞳は、陰鬱で、しかし、時に異様な熱気を帯びて明々と燃え上がり、彼の言葉に耳を傾ける人間を底なしの小暗い沼へと引きずりこむようだった。  八月生まれであるぼくのアウグストという名前に因んで、普段はみんな、ぼくのことをグストルと呼んでいた。彼もそうだったが、稀にグスタフと呼んだ。幼くして亡くなった彼の兄の名で。  気候がよくなったら、二人でアルプスかどこか、旅行に行きたいねと話している内に、ぼくは睡魔に襲われ、彼を抱いたまま、うとうとと微睡んだ。  浅い眠りの内に、「リエンツィ」のラストシーンを夢に見た。燃え上がるカピトルの丘の炎の中で、護民官が没落する。 集まれ!集まれ!さあ、急いで我々に加われ! 石を持って来い!松明を持って来い! 彼は呪われた、彼は追放された!  そして滅亡の騒乱の中にあるリエンツィの声。 民衆も私を見捨てる 民衆、この名に相応しいものに高めたのは私だった 全ての友人が私を見捨てる 幸運が私に作ってくれた友人が  「アドルフ・・・・!」  はっと目覚め、腕の中の恋人を見る。彼はまだ起きていて、あのドナウのように碧い目でじっとぼくを見つめていた。  その眼差しに出会った時、曰く言い難い思いに囚われて、ぼくは、ああ、と息をついた。再び、彼の細い体を折れよとばかりに抱きしめて、その頬に、顎に、首筋に、最後に唇に口づけた。  「アドルフ、ずっと一緒にいたい。いつか遠い将来、君が死ぬ時も、ぼくが側にいて、君と一緒に死ぬんだ」  全世界を敵に回しても。ぼくは彼の手を強く握り、五本の指を絡めた。  彼は無言だったが、力強く応えてくれた。ぼくの手を握り返しながら、今度は自分からぼくの唇に唇を重ねてきて、舌を差し入れてきた。  ぼくは彼の背中に手を回し、体勢を変え、そっと彼に覆い被さった。ウィーンの月のない闇夜の底に、愛の海に、彼と二人、深く、深く沈んでゆく。  あなたに天使のような智慧と公正さがあるなら、どうか教えてほしい。何も知らなかったぼくに、罪があるだろうか?  たとえその時、未来を、彼が何者かを知る力を与えられたとして、ぼくは彼を殺さなければならなかっただろうか?殺すことができただろうか?  一九四五年、五十七歳のぼくは異国の将官の前に座り、尋問を受けている。  「彼と二人きりになる機会があったのなら、なぜ彼を殺さなかったのですか」  冷然と問われ、答える。  「彼は私の大切な人だった」

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