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エピローグ

 暖かい光に導かれるように目を覚ますと、俺はベッドに横たわっていた。  たしか、楽しい伊東旅行の帰りに車を運転していて、それからどうしたんだっけか……。  身体を動かそうとしたが鉛のように重くて動かない、喉はヒリヒリと焼け付くようで声も出せなかった。  なんとか目線だけをずらすと点滴棒が見えた、ここは病院だろうか。  指に力を入れるとピクリと指先だけが動く感覚があった、ゆっくりと拳を握ろうとすると、俺の手が誰かの手に包まれていたことに気づいた。 「塁? 塁、起きたの?」  聞き覚えのあるヒステリックな声が聞こえたかと思えば、その声の主はバタバタと部屋の外へ出て行ったようだった。  暫くすると何人かの人達が部屋の中に入ってきて、俺の顔を覗き込んで来る。白衣を着た医者らしき人と看護師達だったが、皆一様にマスクをしていて表情がよく見えなかった。 「春宮さん、わかりますか? 」 「あぇ……? あぃ……」  喉が乾燥しているせいか上手く喋れない、声を出そうとしても掠れた吐息しか出ないのだ。しかし俺の反応を見た医者たちは「奇跡だ」とか言いながら喜んでいるように見えた。 ───────────────……  それから一週間、身体についていた装置が外された。  あとから聞いた話だが、俺は伊東旅行の帰りに自分の不注意で事故を起こしてしまって、頭を打って暫くあの世とこの世の境を彷徨っていたらしい。  脳へのダメージはさほど深刻ではなかったものの、意識が戻らないため2年間も入院していたそうだ。  記憶も曖昧で事故当時より以前の記憶があやふやになっているが、幸いにして体の方は回復に向かっていて、リハビリをすれば日常生活に支障がない程度には回復するだろうとのことだった。  事故当時使っていたスマホは無事で、メッセージアプリを開くと恋人からのメッセージが沢山届いていた。  どれも俺を心配する内容ばかりで嬉しくなると同時に申し訳無さも込み上げる。  早く返信しなければと思ったが、最後のメッセージの日付が1年前であることに気付いて愕然とした。これだけ長く連絡をくれていないという事は、もう恋人は新しい相手を見つけて、俺は振られたということだろう。 その証拠に最後のメッセージには「さよなら」と書かれていた。  ショックではあったが当然の結果とも言えた。何せ2年間も音信不通だったのだ。むしろそれでも1年も待ち続けてくれた彼には感謝しなければならないくらいだ。  それより驚いたことがある、俺を勘当したはずの母親が毎日病室に来て、寝たきりの俺の腕や足をこまめに動かしたりマッサージしてくれていたらしく、おかげで四肢は衰えすぎることもなく数か月のリハビリで歩けるくらいまで回復したのだ。 「母さん、ありがとな。」 「いいのよ、私がしたくてしてるだけだから」  久しぶりに話した母親は、以前の教育ママではなく穏やかな女性に見えた。 ───────────────……  俺が目を覚まして1年、未だに病院には通院しているが、日常生活には困らないほど体調は回復している。  だがまだ社会に復帰する事は出来ず、自宅療養を続けている状態だ。  俺の意識がない間に、両親によって前に務めていた工場や住んでいたアパートは引き払われていて、今は実家で暮らしているが、以前のような息苦しさは無くなったように感じる。親が勉強しろって言わないことが一番大きいのかもしれない。  だが、俺は今、家の中で自主的に勉強をしている。  いつの間にか22歳になっていたことはショックだったが、周りの人が俺の命を助けるために全力を尽くしてくれたことに感謝していて、俺もそんな医者という存在に近づけるようになりたいと思ったからだ。  前はあんなに嫌だった勉強も、医者という未来も悪くない、と今は思える。  恋人の事はまだ未練があるけれど、過ぎてしまった過去は変えられないのだから、前向きに生きていくしかない。 「うし、続きやりますかねー……っと」  参考書を開きペンを持つと、母親が夜食をお盆に乗せて持ってきてくれた。 「頑張ってるわねぇ」とニコニコしながら言う姿は、以前の鬼の形相からは考えられない程穏やかで優しい顔つきをしていた。  まるで別人を見ているかのような気分になりつつも、素直に礼を言って受け取る。  やっぱり俺って躁なのかも、色んなものを失ったはずなのに妙にポジティブになれてる気がする。  もしかしたらあの時死んでいたかもしれない、それは俺の人生をやり直すチャンスを神様が与えてくれた、ということでもあるんじゃないだろうか。  そう考えると人生捨てたもんじゃないな、なんて、柄にもなく思うのだ。 ───────────────……

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