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第6章-2 独占の檻
―― 俺以外、いらないだろ?
指が手首をとらえ、脈の上に重なる。
逃げる余地はない。
けれど、逃げる理由も消えていく。
春臣の体温が、胸骨の手前まで沈む。
触れられた場所だけが、確かな現在になった。
それ以外は、全部ぼやける。
「……見ろ」
顎を上げられ、視界が揺れる。
鏡ではないのに、彼の瞳に自分の泣き顔が小さく映った。
羞恥が走り、同時に安堵が膨らむ。
シーツが爪の下で鳴る。
呼吸を数える。
四、五、六――間に命令が差し込まれるたび、身体は正確に従った。
「離れるな」
短い一言。
その通りに、腕が勝手に彼の背を抱く。
近づくほど、檻の枠がはっきりしていく。
耳元ではなく、胸の奥に落ちる声。
「お前に必要なのは名前じゃない」
鋭い断言。
喉が鳴り、否定の語はどこにも見つからなかった。
指先が鎖骨をなぞる。
そこに“印”はないのに、鍵穴の感覚だけが確かだ。
鍵が回る音はしない。
それでも、開くのはいつも俺のほうだ。
「……いいか」
間がひとつ。
視線が絡み、逃げ場のない透明が伸びる。
「俺以外、いらないだろ?」
胸の中で、何かが音を持たずに崩れ、組み直された。
うなずくより先に、涙が答えを作る。
彼の指が頬を拭い、濡れた跡を確かめるように往復した。
呼吸の速度が揃う。
骨と骨の距離がなくなる。
痛みが甘さへ、甘さが従属へ、従属が救いへ――連鎖していく。
「声を出すな」
命令。
喉の熱は声になる前に弾け、腹の奥に沈んだ。
静けさが二人の周りで膨らみ、世界を小さく囲う。
時間の輪郭がほどける。
窓の外で街が瞬いても、ここには夜しかない。
数えることをやめたとき、身体はもう彼の手順だけで動いていた。
「そうだ、そのまま」
飴の中心に歯が届くみたいに、脳の奥が甘く痺れる。
名札も、肩書きも、未来の約束も――要らない。
“いま”だけが与えられ、従うほどに自由になっていく。
やがて、腕の圧がゆっくり緩む。
額が触れて、呼吸が混ざる。
汗と微かな洗剤の匂いが、夜の底で均一になる。
「……俺がいる」
それだけ。
不足も保証も言わないまま、檻の形を示す合図。
瞼を閉じると、暗闇がやさしく沈んだ。
壊れた輪郭の隙間から、安堵だけがこぼれてくる。
恋人という呼び名は最後まで与えられない。
けれど、抱き締められた骨の記憶が、確かな“名前”になっていた。
――檻の中で、ようやく呼吸が満ちる。
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