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第6章-1 壊れるほどの抱擁

―― 与えられない呼び名の代わりに、檻が深まる 照明を落とした部屋で、影が床を濃く染めていた。 ソファからベッドへ移るまでの数歩でさえ、足はまだ震えを残している。 春臣は迷わず腕を伸ばし、俺の背を引き寄せた。 骨に沿って、圧がかかる。 呼吸が止まり、次に入ってきたのは彼の体温だった。 「……俺がいるのに、何が不満なんだ」 低くも高くもない声。 ただ、間を置かずに落ちてきた一言が、胸の奥をひっくり返す。 涙が溢れた。 頬を伝う雫が顎を濡らし、シーツへ消える。 抱擁は解けない。 むしろ強まって、骨の軋みまでが甘さに変わっていく。 「泣くな」 命令。 慰めではなく、支配の響き。 けれど、その響きに従った瞬間、肺の奥まで空気が入った。 ⸻ 背中を押され、ベッドに沈む。 天井の白は曖昧で、灯りの輪郭が揺れている。 シャツのボタンが外れる音が、一つごとに心拍を追い抜いていく。 春臣の手が肌をなぞる。 荒くも優雅でもない。 ただ命令のように、触れた部分を支配していく。 呼吸は数えるほど浅く、身体の奥に残る命令が次々蘇る。 ――立て。 ――三分で。 ――従え。 抗えない。 抗わないことが、救いになる。 ⸻ 視線が絡む。 彼は満足げに笑った。 涙で濡れた顔を見下ろしながら、檻の鍵を回すみたいに。 「……いい顔だ」 喉の奥まで熱がせり上がり、声にならない。 胸の奥が甘さで膨らみ、痛みと救済が重なって広がる。 恋人と呼ばれることは、最後までなかった。 けれど、この抱擁の中でだけ、俺は壊れても生きられる。 檻は深まり、同時に安堵の場所になった。

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