14 / 16

第5章-3 帰還 ― 欲しかった言葉(後半)

涙は、もう止まっていた。 代わりに、呼吸が深くなる。 肺の隅まで空気が届く感覚が戻る。 名前を呼ばれなくても、呼ばれたのと同じぐらい救われた。 春臣は立ち上がり、玄関の方へ歩く。 数歩先で振り返り、顎で寝室の方向を示す。 「シャワー。タオルは棚。  十五分で出てこい」 命令。 甘やかしでも、恋人の誘いでもない。 なのに、足はすぐに動いた。 脱衣所の鏡に、泣いた顔が映る。 水を出すと、湯気が曇りを作り、輪郭が消えた。 頭から温度を浴び、数えて、吐く。 心拍が、命令のリズムに戻っていく。 ⸻ タオルで髪を拭きながら戻ると、部屋の照明はさらに落ちていた。 窓の向こう、街の光だけが薄く揺れる。 ソファの背に、ブランケットが掛けられている。 春臣は机の前に立ち、資料をまとめていた。 「今日はここまででいい」 それだけ言って、指で向かいの席を示す。 座ると、膝の震えはもうなかった。 「……戻ってきて、すみません」 謝る言葉は、出るべき場所を間違えている。 それでも、一度口にしないと前に進めなかった。 春臣は肩をすくめる。 「勝手に来て、勝手に帰れ」 次の一言が、喉の奥まで降りてきて、 最後の瞬間で形を変えた。 「寝ろ。明日も早い」 ⸻ ソファに横になる。 ブランケットの重みが、骨の手前まで沁みていく。 瞼の裏で、封筒が遠ざかる。 “正解”という活字は、もう光を持たない。 欲しかった言葉は、最後まで与えられなかった。 それでも、別の言葉が胸に残っている。 ――俺以外、許さねぇ。 それで、充分だった。 いや、充分以上だった。 檻は閉じたのに、呼吸は広くなった。 ⸻ ブランケットの隙間から、夜風が小さく入り込む。 遠くでサイレンが鳴り、すぐに消えた。 まぶたが重くなる。 眠る直前、心の中で言ってみる。 ――恋人じゃなくていい。 ――この檻で、十分だ。 そして、真っ暗なところで、安堵が静かに灯った。 ⸻

ともだちにシェアしよう!