13 / 16
第5章-3 帰還 ― 欲しかった言葉(前半)
―― 戻る場所は、檻の中だった
気づけば、マンションの前に立っていた。
夜風がコートの裾を引っ張り、手の中のカードが湿気を吸う。
インターホンに触れる前、指が一度、宙で止まった。
逃げるなら、いまが最後だ。
その考えは、心臓の鼓動一拍で消えた。
呼び鈴の音が、胃の奥まで落ちる。
ドアの向こうでロックが外れる音。
隙間からこぼれた光が、足元の影を薄くする。
春臣が立っていた。
視線が一度だけ俺をかすめ、すぐ室内へ引く。
「何だ」
問いではない。
ただ、入るか入らないかを決める合図。
足は、もう中にいた。
靴を脱ぐ間に、喉の奥の石が少しだけ小さくなる。
玄関にタオルはない。水もない。
それでも、呼吸はここでだけ深くなった。
⸻
「……離れてみたんです」
最初の言葉は、思っていたより素直に出た。
春臣はリビングの照明を落とし、ソファの背に片手を置く。
返事はない。
静けさだけが、許可の代わりになった。
「正解に、行こうとした。
αのところに行けば、安定して、周りも喜ぶって」
言葉にしてみると、驚くほど軽い。
胸の中では鉛だったものが、口から出た途端、紙切れになった。
「……でも、無理でした」
目の奥が熱くなる。
「恋人って言ってほしかっただけなんです」
声が震え、最後の語だけが床に落ちた。
春臣の顔色は変わらない。
視線だけが、ゆっくり近づく。
テーブルの端で、彼の指が一度だけ止まった。
「くだらねぇ」
温度のない一言が落ちる。
けれど、その直後に続いた動作が、胸の奥の温度を変えた。
腕が、背中に回る。
乱暴でも優雅でもない、ごく短い抱擁。
背骨に沿って、熱がひと筋に落ちる。
「泣くな」
言われた瞬間、涙が増えた。
頬を伝う雫が口元まで下り、塩の味が広がる。
しがみつけば、腕の力がわずかに強くなる。
慰めではない。
でも、離されもしない。
⸻
ソファに腰を下ろすと、脚が少し震えていた。
春臣はキッチンへ向かい、コップを二つ置く。
湯と水。
差し出されたのはどちらも無言のまま。
俺は湯を選び、両手で抱く。
温度が皮膚から内臓へ移動して、震えが収まっていく。
「縁談は断るのか」
まっすぐな問い。
頷くと、胸の奥で何かが静かに壊れて、同時に組み直された。
「後悔は?」
「しません」
即答だった。
言ってから、驚くほど安堵した。
春臣はそれ以上追及しない。
代わりに、テーブルの上の書類を示した。
「明朝の構成、ここ変える。二カット目に間を置け」
仕事の言葉。
それだけで、呼吸が戻る。
命令に従うことが、救いだと身体が覚えている。
⸻
湯を飲み干し、カップを置く。
顔を上げると、春臣と目が合った。
目の奥で、微かな緊張が弾ける。
「……恋人って、言わないんですね」
沈黙。
時計の秒針だけが壁の向こうで小さく跳ねる。
春臣は視線を逸らさず、告げた。
「言わねぇ」
短い答え。
その一言のために、ここまで戻ってきたのに――
胸の奥で、なぜか温度が上がった。
「けど」
間がひとつ落ちる。
テーブルの木目に、指先の影が落ちた。
「俺以外は、許さねぇ」
⸻
ともだちにシェアしよう!

