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第5章-3 帰還 ― 欲しかった言葉(前半)

―― 戻る場所は、檻の中だった 気づけば、マンションの前に立っていた。 夜風がコートの裾を引っ張り、手の中のカードが湿気を吸う。 インターホンに触れる前、指が一度、宙で止まった。 逃げるなら、いまが最後だ。 その考えは、心臓の鼓動一拍で消えた。 呼び鈴の音が、胃の奥まで落ちる。 ドアの向こうでロックが外れる音。 隙間からこぼれた光が、足元の影を薄くする。 春臣が立っていた。 視線が一度だけ俺をかすめ、すぐ室内へ引く。 「何だ」 問いではない。 ただ、入るか入らないかを決める合図。 足は、もう中にいた。 靴を脱ぐ間に、喉の奥の石が少しだけ小さくなる。 玄関にタオルはない。水もない。 それでも、呼吸はここでだけ深くなった。 ⸻ 「……離れてみたんです」 最初の言葉は、思っていたより素直に出た。 春臣はリビングの照明を落とし、ソファの背に片手を置く。 返事はない。 静けさだけが、許可の代わりになった。 「正解に、行こうとした。  αのところに行けば、安定して、周りも喜ぶって」 言葉にしてみると、驚くほど軽い。 胸の中では鉛だったものが、口から出た途端、紙切れになった。 「……でも、無理でした」 目の奥が熱くなる。 「恋人って言ってほしかっただけなんです」 声が震え、最後の語だけが床に落ちた。 春臣の顔色は変わらない。 視線だけが、ゆっくり近づく。 テーブルの端で、彼の指が一度だけ止まった。 「くだらねぇ」 温度のない一言が落ちる。 けれど、その直後に続いた動作が、胸の奥の温度を変えた。 腕が、背中に回る。 乱暴でも優雅でもない、ごく短い抱擁。 背骨に沿って、熱がひと筋に落ちる。 「泣くな」 言われた瞬間、涙が増えた。 頬を伝う雫が口元まで下り、塩の味が広がる。 しがみつけば、腕の力がわずかに強くなる。 慰めではない。 でも、離されもしない。 ⸻ ソファに腰を下ろすと、脚が少し震えていた。 春臣はキッチンへ向かい、コップを二つ置く。 湯と水。 差し出されたのはどちらも無言のまま。 俺は湯を選び、両手で抱く。 温度が皮膚から内臓へ移動して、震えが収まっていく。 「縁談は断るのか」 まっすぐな問い。 頷くと、胸の奥で何かが静かに壊れて、同時に組み直された。 「後悔は?」 「しません」 即答だった。 言ってから、驚くほど安堵した。 春臣はそれ以上追及しない。 代わりに、テーブルの上の書類を示した。 「明朝の構成、ここ変える。二カット目に間を置け」 仕事の言葉。 それだけで、呼吸が戻る。 命令に従うことが、救いだと身体が覚えている。 ⸻ 湯を飲み干し、カップを置く。 顔を上げると、春臣と目が合った。 目の奥で、微かな緊張が弾ける。 「……恋人って、言わないんですね」 沈黙。 時計の秒針だけが壁の向こうで小さく跳ねる。 春臣は視線を逸らさず、告げた。 「言わねぇ」 短い答え。 その一言のために、ここまで戻ってきたのに―― 胸の奥で、なぜか温度が上がった。 「けど」 間がひとつ落ちる。 テーブルの木目に、指先の影が落ちた。 「俺以外は、許さねぇ」 ⸻

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