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プロローグ:1899年12月31日 23時45分

 ウィーン国立歌劇場のシャンデリアが、千の星のように輝いていた。  ガス灯の光が水晶に反射し、虹色の光彩を客席に降り注ぐ。  グスタフ・マーラーの指揮棒が宙を切り裂く。  ベートーヴェン第九交響曲、第四楽章。  百人を超える合唱団が「歓喜の歌」を歌い上げる中、アントン・リヒターは己の鼓動が音楽と同期していくのを感じていた。  アントンは、三階席の薄暗がりで息を殺していた。燕尾服の襟が汗で湿っている。  隣に座るフリードリヒ・フォン・ハプスブルクの横顔を盗み見る。  彫像のような顎のライン、金糸のように輝く髪、そして音楽に恍惚と浸る青い瞳。 「Freude, schöner Götterfunken」  歓喜の歌が響く中、アントンの鼓動が、オーケストラのティンパニと共鳴する。  フリードリヒが、そっと膝に手を伸ばしてくる。暗がりの中、その白い手がアントンの指を探り当て、絡め取った。手袋越しでも、その熱が伝わってくる。アントンの全身を、甘美な戦慄が走り抜ける。 「年が明けたら、父に話す」  フリードリヒの吐息が、アントンの耳朶を撫でた。バイオリンの最高音と同じ周波数で、鼓膜が震える。 「何を」 「婚約を破棄すると。そして……君と生きる」  アントンの喉が、砂漠のように乾いた。体が震えた。恐怖か、歓喜か、自分でも判らない。 「それは自殺行為だ」 「愛に殉じるなら本望さ」  フリードリヒの親指が、アントンの手首の脈を確かめるように撫でる。  その仕草があまりに官能的で、アントンは息を呑んだ。  舞台上で、ソプラノが「抱擁を、幾百万の人々よ!」と歌い上げる。まるで二人の禁じられた愛を祝福するかのように。あるいは、呪うかのように。  三列前の席で、フリードリヒの父である帝国議会議員ハプスブルク伯爵が振り返った。その冷たい視線が、絡み合った二人の手を射抜く。フリードリヒはそれでも手を離さなかった。いや、むしろより強く握りしめた。 「フリードリヒ」 「怖がらないで、アントン。新世紀は僕らのものだ」  ――三日後の1900年1月3日、フリードリヒはドナウ川で遺体となって発見される。

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