2 / 8
第一章:診察室の闇
1900年3月20日、火曜日、22時。
ベルガッセ19番地のフロイト診療所は、ウィーンの夜の闇に沈んでいた。
ガス灯の仄かな光が、待合室のペルシャ絨毯に複雑な影の紋様を描き出している。
シャルム・ヴァイスは、診察室で最後の症例記録を書き終えたところだった。インクの匂いが、古い革装の医学書の香りと混じり合う。28歳の彼の指は、長時間の筆記で僅かに震えていた。
「ヴァイス君、まだいたのかね」
ジグムント・フロイト教授が、書斎から姿を現した。
54歳の精神分析学の創始者は、いつものように葉巻を手にしている。紫煙が、まるで思考の軌跡のように宙を漂った。
「明日の症例の準備を」
シャルムは立ち上がりかけたが、フロイトが手で制した。
「君は働きすぎだ。ユダヤ人だからといって、人の倍働く必要はない」
「しかし教授」
「帰りたまえ。君の無意識が休息を求めている。顔に書いてある」
その時、診療所の呼び鈴が鳴った。
二人は顔を見合わせた。予約外の、しかもこんな時刻の来訪者。フロイトが葉巻を灰皿に置いた。
「私が出よう」
「いえ、私が」
シャルムは診察室を出て、薄暗い廊下を進んだ。扉の向こうに、一人の男が立っていた。
廊下のガス灯が作る影が、壁に不吉な模様を描いている。扉の向こうに立っていたのは、死人のような顔をした青年だった。
燕尾服は上質だが乱れている。シャツの第一ボタンが外れ、そこから覗く喉元が、病的なまでに白い。
頬はこけ、眼窩は深く落ち窪んでいるが、その瞳だけが異様に輝いていた。
熱病患者のような、あるいは阿片中毒者のような、危険な光。
「診察を……お願いしたい」
声は、壊れた弦楽器のように掠れていた。しかし、その響きには、シャルムの背筋を震わせる何かがあった。
「このような時間に? 明日の予約を……」
「明日まで待てない」
青年は、シャルムの言葉を遮った。その手が、無意識にシャツの胸元を掻きむしっている。爪の跡が、白い肌に赤い筋を残していた。
「眠れないんだ。もう3ヶ月も。頭の中で...音楽が鳴り続けて」
シャルムは、青年の瞳を見つめた。瞳孔が異常に拡大している。極度の不眠による症状。
しかし、医師としての診断を超えて、シャルムはその瞳の奥に何か別のものを見た。
深い哀しみ。そして、それを覆い隠そうとする激しい情熱。
「入ってください」
ともだちにシェアしよう!

