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第一章:診察室の闇

 1900年3月20日、火曜日、22時。  ベルガッセ19番地のフロイト診療所は、ウィーンの夜の闇に沈んでいた。  ガス灯の仄かな光が、待合室のペルシャ絨毯に複雑な影の紋様を描き出している。  シャルム・ヴァイスは、診察室で最後の症例記録を書き終えたところだった。インクの匂いが、古い革装の医学書の香りと混じり合う。28歳の彼の指は、長時間の筆記で僅かに震えていた。 「ヴァイス君、まだいたのかね」  ジグムント・フロイト教授が、書斎から姿を現した。  54歳の精神分析学の創始者は、いつものように葉巻を手にしている。紫煙が、まるで思考の軌跡のように宙を漂った。 「明日の症例の準備を」  シャルムは立ち上がりかけたが、フロイトが手で制した。 「君は働きすぎだ。ユダヤ人だからといって、人の倍働く必要はない」 「しかし教授」 「帰りたまえ。君の無意識が休息を求めている。顔に書いてある」  その時、診療所の呼び鈴が鳴った。  二人は顔を見合わせた。予約外の、しかもこんな時刻の来訪者。フロイトが葉巻を灰皿に置いた。 「私が出よう」 「いえ、私が」  シャルムは診察室を出て、薄暗い廊下を進んだ。扉の向こうに、一人の男が立っていた。  廊下のガス灯が作る影が、壁に不吉な模様を描いている。扉の向こうに立っていたのは、死人のような顔をした青年だった。  燕尾服は上質だが乱れている。シャツの第一ボタンが外れ、そこから覗く喉元が、病的なまでに白い。  頬はこけ、眼窩は深く落ち窪んでいるが、その瞳だけが異様に輝いていた。  熱病患者のような、あるいは阿片中毒者のような、危険な光。 「診察を……お願いしたい」  声は、壊れた弦楽器のように掠れていた。しかし、その響きには、シャルムの背筋を震わせる何かがあった。 「このような時間に? 明日の予約を……」 「明日まで待てない」  青年は、シャルムの言葉を遮った。その手が、無意識にシャツの胸元を掻きむしっている。爪の跡が、白い肌に赤い筋を残していた。 「眠れないんだ。もう3ヶ月も。頭の中で...音楽が鳴り続けて」  シャルムは、青年の瞳を見つめた。瞳孔が異常に拡大している。極度の不眠による症状。  しかし、医師としての診断を超えて、シャルムはその瞳の奥に何か別のものを見た。  深い哀しみ。そして、それを覆い隠そうとする激しい情熱。 「入ってください」

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