3 / 8

Ⅱ.

 診察室の重い扉が閉まると、外界の音が完全に遮断された。  ペルシャ絨毯が足音を吸収し、壁一面の医学書が、まるで告白を待つ聴罪司祭のように二人を見下ろしている。  中央には、フロイト教授が使う有名なカウチ。深紅のベルベットに覆われたそれは、多くの患者の秘密を吸い込んできた。  診察室のカウチに、青年は身を横たえた。  天井を見上げる彼の瞳孔は、異常に拡大している。  しかし、その瞳の奥に潜む何か――狂気とも情熱ともつかない炎のようなもの――に、説明のつかない引力を感じた。 「お名前と職業を」  シャルムは定型的な質問を始めた。手にしたペンが、カルテの上で待機している。 「私は……普通の患者ではない」  青年の声が紡ぐ。 「皆、そう言います」  自己認識が可能であれば、精神分析医の世話になろうなどと考えない。ここを訪れるということは、少なからず心に闇を懐いた者である。 「いや、違う」  青年は、ゆっくりとカウチに腰を下ろした。しかし、横にはならない。代わりに、シャルムを見上げた。 「あなたは、フロイト教授の助手?」 「はい。シャルム・ヴァイスです」 「ユダヤ人?」  直接的な質問だった。シャルムは一瞬躊躇したが、頷いた。 「そうです」  「そうか」と、青年の口元が綻びる。 「私もマイノリティだ」  青年は、自嘲的に笑った。 「アントン・リヒター。作曲家……いや、かつて作曲家だった者だ」  リヒター。その名前に聞き覚えがあった。確か、マーラーの弟子のひとりだ。 「横になってください」  シャルムは、もう一度促した。今度は、アントンが従った。  カウチに身を横たえる彼の体は、思った以上に華奢だった。燕尾服の下の体型が、不健康なほど痩せているのが分かる。 「もう3ヶ月、一音も書けない。代わりに...聴こえる」 「何が聴こえますか?」 「死んだ者の音楽が」  シャルムのペンが止まった。患者の顔を見る。アントンは天井を見つめたまま、まるで告解をする罪人のように続けた。 「いつから不眠が?」 「1月3日から」  即答だった。特定の日付を覚えているということは、その日に何か決定的な出来事があったということだ。 「その日、何が?」  アントンの喉仏が、苦しげに上下した。 「私の……音楽の理解者が死んだ」  音楽の理解者。その言葉の裏に、もっと深い意味が隠れているのは明らかだった。

ともだちにシェアしよう!