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Ⅱ.
診察室の重い扉が閉まると、外界の音が完全に遮断された。
ペルシャ絨毯が足音を吸収し、壁一面の医学書が、まるで告白を待つ聴罪司祭のように二人を見下ろしている。
中央には、フロイト教授が使う有名なカウチ。深紅のベルベットに覆われたそれは、多くの患者の秘密を吸い込んできた。
診察室のカウチに、青年は身を横たえた。
天井を見上げる彼の瞳孔は、異常に拡大している。
しかし、その瞳の奥に潜む何か――狂気とも情熱ともつかない炎のようなもの――に、説明のつかない引力を感じた。
「お名前と職業を」
シャルムは定型的な質問を始めた。手にしたペンが、カルテの上で待機している。
「私は……普通の患者ではない」
青年の声が紡ぐ。
「皆、そう言います」
自己認識が可能であれば、精神分析医の世話になろうなどと考えない。ここを訪れるということは、少なからず心に闇を懐いた者である。
「いや、違う」
青年は、ゆっくりとカウチに腰を下ろした。しかし、横にはならない。代わりに、シャルムを見上げた。
「あなたは、フロイト教授の助手?」
「はい。シャルム・ヴァイスです」
「ユダヤ人?」
直接的な質問だった。シャルムは一瞬躊躇したが、頷いた。
「そうです」
「そうか」と、青年の口元が綻びる。
「私もマイノリティだ」
青年は、自嘲的に笑った。
「アントン・リヒター。作曲家……いや、かつて作曲家だった者だ」
リヒター。その名前に聞き覚えがあった。確か、マーラーの弟子のひとりだ。
「横になってください」
シャルムは、もう一度促した。今度は、アントンが従った。
カウチに身を横たえる彼の体は、思った以上に華奢だった。燕尾服の下の体型が、不健康なほど痩せているのが分かる。
「もう3ヶ月、一音も書けない。代わりに...聴こえる」
「何が聴こえますか?」
「死んだ者の音楽が」
シャルムのペンが止まった。患者の顔を見る。アントンは天井を見つめたまま、まるで告解をする罪人のように続けた。
「いつから不眠が?」
「1月3日から」
即答だった。特定の日付を覚えているということは、その日に何か決定的な出来事があったということだ。
「その日、何が?」
アントンの喉仏が、苦しげに上下した。
「私の……音楽の理解者が死んだ」
音楽の理解者。その言葉の裏に、もっと深い意味が隠れているのは明らかだった。
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