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Ⅲ.

「毎夜、同じ旋律が頭の中で鳴り続ける」  アントンの声が、次第に感情を帯び始めた。 「ロ短調の夜想曲。彼が最後に弾いた曲」 「彼?」  アントンの瞼が痙攣した。長い睫毛が、頬に影を落とす。 「フリードリヒ。フリードリヒ・フォン・ハプスブルク」  その名前を口にした瞬間、アントンの体が小刻みに震え始めた。  シャルムは、彼の様子を注意深く観察した。これは単なる悲嘆反応ではない。もっと複雑な、抑圧された感情の発露だ。 「催眠療法を試みます」  シャルムは立ち上がり、診察室の隅にあるメトロノームを手に取った。 「同意いただけますか?」  アントンが初めてシャルムを真っ直ぐ見た。  その瞬間、何かが起きた。  二人の視線が交錯した刹那、シャルムの意識の中に、微かな音楽が流れ込んできた。  ロ短調の哀しい旋律。  それは、患者の頭の中で鳴っているはずの音楽だった。  ありえない。  シャルムは、自分の特異体質を必死に押し殺してきた。  物や人に触れると、その思念が流れ込んでくる奇妙な能力。  それを科学で説明しようと医学を志したが、未だ答えは見つかっていない。  視線が交錯しただけで思念が飛び込んできたのは初めてだ。  心臓が高鳴る。大きな音を立て、呼吸と共に聴覚を支配する。 「始めてください」  焦れたようなアントンの声で、現実に引き戻された。

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