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VII.

 アントンが去った後、診察室には重い沈黙が漂った。  フロイトはシャルムの性癖と欲望に“理解”を示している。だがそれはあくまでも“学術”としてであり、性質そのものを容認しているわけではない。  「病理」としての位置づけである。  異性を愛するように治療をするべきだと提唱するのはシャルムの理論だ。フロイトは精神分析学の権威として、尺度を変えてみるよう提唱している。  だが、先ほどの行為を見られた。触れてはいない。未遂だった。シャルムが抵抗することをせず、受け入れかけたのを、見られた。 「ヴァイス君」  フロイトの声が、静寂を破った。 「転移は、時に医師の側にも起きる」  転移――過去の重要な人物(特に親や養育者)に対して抱いた感情や態度を、現在の無意識のうちに別の人(多くはセラピストや援助者)に投影してしまう心理現象である。  シャルムは過去に問題を抱えている。些末的なものだと自負しているが、そうではないのだと知らしめられる。 「気をつけたまえ。彼は、危険だ」  一旦呼吸を置き、「危険である」とフロイトが告げる。 「芸術家というものは、常人とは違う炎を内に秘めているものだ。  時に神のように慈愛を振りまき、時に獣のように襲い掛かる。その炎に巻き込まれれば、君も燃え尽きる」  フロイトは、シャルムの肩に手を置いた。父親のような温かさがあった。 「君は優秀だ。将来を棒に振るようなことは、するな」 「はい」  しかし、シャルムは既に知っていた。  もう手遅れだということを。  アントン・リヒターという炎に、既に引火してしまったということを。  ――その夜、シャルムは一睡もできなかった。  ベッドの中で、何度も寝返りを打つ。シーツが肌に纏わりつき、まるでアントンの手のように感じられる。  閉じた瞼の裏に、あの瞳が浮かぶ。  熱に浮かされたような、危険な光を宿した瞳。  そして、耳の奥で、ロ短調の夜想曲が鳴り続ける。  それは、もはやアントンの音楽ではなく、シャルム自身の心臓の鼓動と同期していた。

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