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第1話

 残暑もだいぶ和らぎ始めた。  近年は如何せん、夏が頑張りすぎなのだ。洗濯物は良く乾くので、悪いことばかりではないけれど。  シーツの端をピンと伸ばし、しわ一つ残さないように竿に掛ける。 「よしっ、出来た!」  少しだけ涼しさを帯びた秋風と、落ち着いた青空に、真っ白のシーツがなびく。山霧はそれを見つめながら満足そうに笑った。  瀬野家のメイドとしての職について早半年。昔から、家事全般は得意だった。資格を取って上流階級のメイドになろう。そっちの方が普通の仕事より稼ぎが良いし……なんて、単純に考えて決めた。  高校卒業後はメイドの養成学校に通い、これでも上位の成績で卒業した。就職先を探していた時にたまたま募集をしていたのが、この瀬野家だ。  一般市民の山霧も、養成学校にいる間に瀬野家の噂は聞いていた。上流階級の中でもヒエラルキーの頂点に君臨する、由緒正しきお家柄。事業は、国内外、分野問わずに幅が広い。  当時、瀬野家は新しいメイドを何十人も募集していた。聞けば、代替わりと同時に、家の中を一掃したのだと噂で聞いた。先代の影響を強く受ける使用人を容赦なく排除したのだとか。  少しだけ、怖いな……と思いながらも、山霧はそれに応募した。なぜなら、募集の必須事項に『オメガ性に抵抗のないもの』とあったからだ。  山霧の祖母はΩだった。料理が上手で、温かくて、とても優しい祖母だった。だから、Ωの人は優しいと、山霧は信じている。  面接の際に、それを正直に語った。家長の陽太は「そう」とただ一言だけだった。  だから、あまり良い印象を与えなかったのだろうと凹んだ。落ちた、と思っていたので、採用通知が届いた時には驚いて叫んだくらいだ。 「あーっ!!」  突然の大声にビクッとする。まるで自分が採用通知を受け取った時と同じような声だ。  なんだろうと思って見上げると、目の前にヒラヒラと紙が一枚落ちてきた。  夏休み明け学力テスト 数学 瀬野春陽 48点  紙の上部にはそう書いてある。どう見てもテストの回答用紙だ。更にその視線の先には、瀬野家のお姫様が、窓から身を乗り出しているではないか。 「ごめんなさい! すぐ取りに行きますから、持っててもらえますか!」  そう山霧に叫ぶと、ふっと姿を消す。しばらくすると、息を切らしながら山霧の元へ走ってくる姿が見えた。  春陽様を走らせるなどとんでもない! と山霧も走り出す。 「ごめんなさい!」 「とんでもございません! 私こそ、お届けに上がるべきでした!」  先に謝辞を述べた春陽に、山霧は深々と頭を下げながら回答用紙を手渡す。 「俺の方こそ、仕事の邪魔してごめんなさい」 「いえいえ、私の方こそ」  お互いにペコペコ頭を下げ、同時に顔を上げた。目が合って、動きを止めて、そのまましばし見つめ合う。吸い込まれるような、澄んだ春陽の瞳。凝視していると、思わず春陽が吹き出した。 「何だか変ですね、俺たち」  あはは、と笑う。ふわり……と綿毛が飛ぶような笑顔だった。  可愛らしい方――春陽に対する山霧の第一印象はそれだった。男性でありながら、自分とそう背格好が変わらないのは、春陽がΩだからだろう。中性的で、何なら女性の自分よりもずっと愛らしい。  詳しい事情は知らないが、春陽は瀬野家の子息であるにも関わらず、一般市民に紛れて暮らしていたようだ。Ω故に捨てられた、という話も聞いたけれど、上流階級ではよくある話だという。  長男の陽太、次男の陽月と血が繋がっていながら、二人の番である。どういう理屈なのかは分からないが、春陽がこの家に迎えられてから、明らかに家の空気が変わった。軽く、明るくなったのだ。 「ありがとうございました。風に飛んでっちゃって……なくなったらどうしようかと思った」  そう苦笑して、春陽はほっと胸を撫で下ろしている。「とんでもございません」と山霧は返した。 「……難しいですよね、数学」  思わずそう話しかけてしまい、はっとする。自分のような立場の者が、気安く話しかける内容ではないと思ったからだ。春陽があまりにも友好的なので、つい、口が滑ってしまった。  そんな山霧に、春陽は言葉を返す。 「そうですよねぇ〜。俺、めっちゃ苦手です。数学に限った話じゃないんですけど」  春陽はさして気にしない様子で、とほほ、と眉を下げている。ころころと表情が変わるので、とても素直な方だなと思った。 「私も、成績は良い方じゃありませんでしたよ」  正直、赤点ぎりぎりだったこともあります。と、そう付け足すと、春陽はにこりと目尻を下げる。 「俺もです」  だから、山霧も笑った。柔らかな空気が二人を包む。  そこへ、ゴホン! と大きな咳払いが聞こえた。  春陽の肩越しに、とても怖い顔をした執事長が立っていて、山霧は緊張して背を正した。 「春陽様。何をなされていらっしゃるのですか?」  執事長の悟志は、春陽に詰め寄るように聞いた。 「廊下を走られるなど、とても容認できる行動ではございませんよ」 「すみません……」 「瀬野家のご子息として、きちんとした行いを身に付けて頂きたいと、何度も申し上げたはずです」  悟志は春陽の頭上から、鋭い声を浴びせる。 「は、はい……ごめんなさい……」  春陽は小さくなって謝った。 「理解されたのなら、早くお部屋へお戻り下さい。お勉強のお時間でしょう?」  春陽はまた「はい」と自信なさげな声で返事をした。悟志と部屋へ向かおうとして、山霧に軽くお辞儀をする。 「春陽様!」 「はっ、はい! すみません……」  怒られながら部屋へ連行される春陽の背を、苦々しい気持ちで山霧は見つめる。  あんなに怒らなくてもいいのに。――その心情が、山霧の口ではなく、別の口から放たれる。  振り向くと、メイド長の江崎が立っていた。山霧の上司に当たる、初老の女性だ。 「悟志様は昔から、春陽様に厳しいからねえ」 「昔から……ですか?」  思わず聞き返すと、そうだよ、と江崎は答える。 「先代の丈之助様が毛嫌いされていらっしゃったから、その影響もあるんでしょうね……。てっきり、他の使用人たちと一緒に切られると思っていたけれど……永戸家の出身でもあるから、陽太様も、無下に切ることも出来なかったんだろうね」 「永戸……?」  首を傾げて山霧は聞く。 「悟志様のご名字。永戸家は執事の名門で、瀬野家は代々、永戸家から執事を取っていらっしゃるんだよ。陽太様の執事の雅明様も、永戸家のご長男でいらっしゃるし、丈之助様の執事の達臣様は、雅明様のお父様だし。悟志様は達臣様の弟さんだったと思ったけど」  江崎の会話に出てくる、顔見知りの執事たちが頭を掠める。達臣という人は知らないが、悟志と雅明を並べても、似ても似つかないと思う。見た目が、という話ではなくて、性格が。  素人の山霧の目から見ても、雅明はとても紳士的で、人当たりの良い人物だった。主の陽太は、もちろんどこをとっても完璧な人物ではあるが、その側近の雅明も、負けじと劣らないオーラがある。  対して悟志は……正直、最初からあまり良い印象はない。厳しくて、生真面目で。最近は、特にいつも片眉を上げて、苛立っているような気がする。  もちろん、執事長ではあるから、仕事はバリバリこなすし、自分たちを纏める手腕は尊敬できる。けれど、雅明の親族というのなら、もう少し穏やかでもいいと思う。 「全然似てないですけど」  ぽつりと呟くと、こらこら、と江崎が小声で注意する。 「陽太様がお残しになられたんだから、理由があると思うけど」 「そうなんでしょうか……」 「そうに決まってるよ。陽太様の采配は間違いないもの。さて、こんなところで油を売ってないで、仕事に戻るよ?」  江崎はくるりと背を向けて、屋敷の裏の入口へ向かう。山霧もそれに続いた。けれど、もう一度立ち止まって振り返る。  悟志と春陽の姿はとっくに消えているけれど、小さく縮こまった春陽の背中が目に浮かんだ。  春陽様、大丈夫かな……。私と話していたせいで、あまり怒られていないと良いけど……。 「山霧。早くおいで」 「はぁーい」  山霧も返事をしてその場を立ち去る。さっきまで晴れていた空には、薄灰色の雲が流れていた。

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