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第2話

 悟志の後を、春陽はとぼとぼとついて歩く。二人の間に会話はない。  また、やってしまった……。春陽は己の行いを悔やむ。瀬野家に戻って来てから、立ち振る舞いについては幾度となく注意されていた。  もともと、春陽は落ち着きがないと、自分でも分かっている。家の中を走るな、なんて小さな子供への注意と同じだ。つまり、自分も子供じみているという事だろう。気をつけているつもりでも、癖というのはなかなか直るものではない。  悟志は春陽の部屋の前で立ち止まり、ゆっくりと振り返る。びくり、と春陽も歩みを止めた。  俯く春陽に、悟志のため息が聞こえる。 「顔をお上げ下さい。俯いてはいけません」  言われて、おずおずと悟志を見る。 「背中を丸めず、姿勢は正して。不安な表情はなさらないように」 「……はい」  すみません、という謝罪は、最後まで語られず「春陽様」と悟志に遮られる。 「謝罪は結構です。目下の者に簡単に頭を下げないで頂きたい」  はい、と返事をしそうになって、春陽は口を噤む。返事をしたら、それだけで怒られそうな気がしたから。  言われた通り、真っ直ぐに悟志を見る。けれど、その先には不服そうな顔しかない。  ……何を言っても、何をしても、この人はきっと怒るんだろう……。  キュッ、と胸が苦しくなる。早く部屋の中へ逃げてしまおう。そう思った矢先、 「まぁまぁ、そう怒らないでよ悟志さん」  緊張した場を緩くするような声がする。途端に後ろから抱きしめられて、春陽は驚きの声を上げた。 「まだこの家に慣れきっていないんだから、ゆっくりで良いじゃない」 「倫さん!」  いつもの軽い空気を纏って、倫は現れた。春陽は胸を撫で下ろす。正直に、助かった、と思った。 「……倫様、春陽様に気安く触れないで頂けますか。我が家の大切な姫君でいらっしゃいますので」  悟志はおちゃらけた倫にも正論で対応しようとする。 「"大切な姫君"って割には、そんなに大切に扱ってなかったような気もするけど?」 「大切に扱っております。少なくとも、貴方様よりは、距離の取り方をわきまえているつもりですが?」 「あ、そ。じゃあ、ひなに告げ口しておいてもいいよ。"倫とはるちゃんがイチャイチャしてました"って。ひいちゃんに言うと怒るから、それはやめてね」  倫も、笑顔なのだけれど、明らかに言葉の裏に棘がある。あわわ……と春陽は冷や汗を流した。  自分の事で、余計な喧嘩はしてほしくない。  倫さん、と小声で呼びかけ、白衣の裾を引く。倫は春陽に視線を向けると、いつものように穏やかに笑った。 「さて、いつもの定期カウンセリングの時間だよ。部屋へ入ろうか」  扉の前に立つ悟志を押し退けるようにして、倫は春陽を部屋へ入れる。じゃあね、と悟志に手を振って、倫も一緒に部屋へと消えた。  扉が閉まると、春陽は安心したように息を吐く。今更ながら、指先が震えていたのに気付いた。思った以上に緊張していたみたいだ。 「……全く。冷たい奴だなぁ。ま、昔からあんな風に、融通の利かない人だったけどね」  悪態をつきながら、倫は春陽の顔を覗き込む。大丈夫? と声をかけられて、春陽はゆっくり頷いた。視界に映る部屋の中が何だか暗い。明かりを……つけなければ……。 「その髪飾り、可愛いね」   何を思ったのか、突然倫はそう言った。え? と春陽は髪飾りに触れる。今日はどんな髪飾りをしていただろうか。確か、蝶と花があしらわれたものだったと思う。 「ひなからの贈り物? ひいちゃんの趣味じゃなさそうだよね」 「あ……はい。ひな兄がプレゼントしてくれて……たくさんある中から、今日はこれって、陽月が……」  もう日課と化した朝のやり取りを思い出す。加谷が髪を結い、陽月が髪飾りを決めて、雅明の差し出す鏡で仕上がりを確認し、可愛いねと陽太が褒めてくれる。……そんな幸せな時間を思い出して、心の中がふんわりと温かくなった。 「そっか。本当にはるちゃんは愛されてるね」  そう倫に言われ、何だか恥ずかしくもなる。  と、コンコン、とノックの音がした。どうぞ、と春陽が声を掛けると、メイドがお茶を持ってやってきた。 「あ……」  顔を見て、思わず春陽は声を上げる。先程、庭でプリントを拾ってくれたメイドだった。  失礼致します、と丁寧に頭を下げて、テーブルにお茶とお菓子を並べて行く。 「……見慣れない顔だね。新人さん?」  倫がメイドに聞く。メイドは、手を止めて「はい」と会釈した。 「山霧もも、と申します」  山霧、と春陽は彼女の名字を心の中で復唱した。ももちゃん、と倫が気安く呼ぶ。 「良い子そうじゃない。ね、はるちゃん」  急に話を振られて、春陽は戸惑った。けれどすぐに「は、はい」と同意を返す。 「いい人ですよ。さっき俺が飛ばしたプリント、拾ってくれたんです」 「ああ、いえ……私は何も。ただそこにいただけで。むしろお届けに上がれば良かったのですが……失礼いたしました」  深々とまた頭を下げられて、春陽は慌てた。 「そんなことないです。俺の不注意のせいだから」 「しかし、私がお届けしていれば、悟志様に春陽様がお叱りを受けることもなかったかと」 「それとこれとは別問題でっ……」  お互いに、自分が悪いと言い合う二人を見て、思わず倫は吹き出した。 「気が合うなぁ〜。良かったねはるちゃん。ももちゃんとは、もう友達だね」 「えっ!? そ、そんな、滅相もございませんっ」 「良いじゃない。年も近そうだし。はるちゃんと仲良くしてあげてよ」  にこにこ、と倫は山霧にそう勧める。 「はるちゃんも、気兼ねなく話が出来るメイドがいたほうがいいでしょ?」  一瞬、悟志の言葉を思い出して返答に困った。メイドは明らかに春陽よりも目下だ。仲良くして怒られないだろうか……。  でも――。 「はい。……俺も、仲良くしてもらえると嬉しいです……」  怖い、という気持ちは確かにある。けれど、そんなことで自分に嘘をつきたくはなかった。春陽も、仲良くしてくれる人がいるのは嬉しい。それは目上だろうと目下だろうと関係ない。 「じゃあこれから二人はお友達ね。ももちゃんは、俺がはるちゃんに会いに来たときの、お茶係に任命しちゃうよ」  戯けた口調で倫が言う。山霧は思わず笑って「かしこまりました」と返事をした。つられて春陽も「よろしくお願いします」と笑った。  ※※※※※  仕事の商談を終えて車に乗り込む。思った以上に時間を押してしまった。本当は夕暮れを待たずに帰れる予定だったのに。  陽太はプライベート用の携帯を取り出し、着信履歴を確認した。高橋倫と表示された番号に折り返す。  数コールのあと、電話が取られた。 「……もしもし、どうだった?」  単刀直入に陽太は聞いた。良い子だったよ、と倫は返す。 「はるちゃんと年も近いし、意外と気さくに話してたよ。はるちゃんの部屋付きのメイドに良いんじゃない?」  自室の窓から沈みゆく夕日を眺めて、倫はそう口にする。  今日の目的は、もちろん春陽の様子見もあるが、『山霧もも』という人物を確認するためでもあった。  そろそろ、春陽にも部屋付きのメイドを用意したい。一人、候補がいる。春陽に合うかどうか、判断してほしい――それが今回の、陽太の依頼だった。  聞いた時、倫は一瞬思考が止まった。陽太は昔から、己が下した決断には絶対の自信を持っていた。たとえ誰かに忠告されようと、自分が決めたら揺るがない、そんな男だ。結果、間違ったことはないと、倫も良く知っている。  その陽太が……自分に判断を委ねるとは……。  やっぱり、はるちゃんの事になると、冷静ではいられなくなるのかね? なんて。倫にとっては、陽太は生意気な幼なじみだけれど、案外可愛いところもあるものだ。だから 「さすが陽太。見る目があるね」  そう褒めれば、電話口の男は『当然』と笑った。自信あり気に、口角を上げている姿がはっきりと目に浮かぶ。……やっぱり、可愛くないかもしれない……。 「じゃあ、あの子ははる付きのメイドに決定するよ。ありがとう」 『お前、礼なんて言えたんだ』 「言えるよ。普段から言ってるじゃないか」 『いや、聞いたことないんだけど??』  向こうで倫が笑った気配がする。陽太も表情を緩ませた。  山霧の応募書類を見た時の直感は、間違っていなかったようだ。彼女の履歴書には、Ωである祖母との交流について書かれていた。  他の使用人たちの面接は、すべて雅明に任せたけれど、山霧だけは陽太が直接顔を合わせた。  祖父亡き後、陽太はすぐに春陽を探した。"高橋"として、春陽に会い、いつか必ず連れ帰る――そう心に決め、瀬野家の体制を一新した。  祖父に近い使用人は全員解雇して、春陽が安心して暮らせるよう、オメガ性に対して理解あるものだけを募った。  ゆくゆくは春陽付きのメイドや、執事も必要になる。今の春陽に合うような子を……優しくて、真面目で、春陽に寄り添えるようなメイドを、一人は取りたい……そのお眼鏡に叶ったのが山霧だ。  はるは喜んでくれるだろうか? 正式に紹介した時の、春陽の反応を想像して、笑みがこぼれた。  ――ああ、今のひな、めっちゃ機嫌良いな、と倫は思う。電話越しでもそれが分かってしまい、次いで話そうとした事を躊躇する。けれど、これははっきりと伝えておかなければならない。例え、陽太の機嫌が悪くなっても。 「それはそうと、悟志さんには気をつけた方がいいよ。あの人は、はるちゃんを傷つけるタイプだ」  正直、倫としはこちらの方が重要だったりする。倫が訪れた際、春陽はとても不安そうにしていた。それだけならまだしも、部屋に入った途端に、春陽は軽く落ちかけてしまったのだ。恐らく、悟志の前では気を張って、圧に耐えていたのだろう。  咄嗟に髪飾りの話を持ち出したのは、春陽を現実に呼び戻すためだった。陽月と陽太、大切な二人の事を思い出させて、心を落ち着かせるための手段。半ば賭けではあったけれど、上手くいって良かったと思う。 「確かに、将来的にお前たちの横に立つなら、今のはるちゃんは弱すぎる。もっとしっかりさせないといけないのは分かるし、そういう意味で、瀬野家の執事としての、あの人の指導は完璧だ。……だけど言葉が重すぎる」  もともと、春陽は強くない。吐かれた言葉を真正面から受け取ってしまうし、マイナスな言葉は刺さり過ぎる。  倫の忠告に、陽太は何も言わなかった。もしかしたら、それも想定内のことなのかもしれない……。 「まぁ、意地悪はひなちゃんの専売特許だからね〜。そこを横取りされないよーに、気をつけてねーん」  なんて、わざと戯けてみせた。『煩いよ』と、苦笑混じりな……少しだけ弱気な声が、倫の耳に届いた。

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