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第15話
山霧は春陽の部屋の窓を開けた。優しい秋の空が広がっていて、澄んだ空気が部屋の中を循環していく。
「よいしょ、っと」
ベッドに横たわる、大きなカンガルーのぬいぐるみを持ち上げる。山霧の身長程もあるサイズのそれは、先日翔から贈られてきたものだ。部屋の隅に戻して、サッサッと毛並みを整える。
今日はちゃんとベッドに居させてもらえたのね、と山霧は呟く。可哀想に、床にごろりと放置されていることもある。
もちろん、春陽はそんなことをしない。するのは、彼氏のどちらかだ。抱き心地が良いからと、一人で眠る時には、このぬいぐるみと一緒に眠っている。
朝起こしに来た二人に見つかると、「春陽のベッドで一緒に寝るなんて、ぬいぐるみの分際で図々しい」と、床に投げ捨てられてしまうらしい。
「何でそんな可哀想なことするの? って聞いても、気に入らないから! って怒っちゃうんだよ」
ねえ、酷いよね!? と春陽が愚痴をこぼした。山霧はそれを聞いて、しょうがないでしょう、と思った。
正直、これを初めて見た時には、山霧もそのリアルさに驚いたものだ。
「本物のカンガルーをあげたかったけど、どうしても送れなかったんだって」
春陽はぬいぐるみのカンガルーに、ぎゅう、と抱きついてそう言った。
「……はぁ」
とんでもなく間抜けな声を上げてしまったのを覚えている。本物のカンガルーの代わりに、等身大のぬいぐるみを送ってきた、と? ……いや、送ることが可能だったら、本物のカンガルーが送られてきたということか……?
お金持ちの考えることは、ちょっと分からない……。
「可愛いよね〜! 大っきくて、抱き心地良いんだよ!」
えへへ、と上機嫌で春陽は頬を擦り寄せる。
「可愛いのは、ぬいぐるみじゃなくてお前だけどな」
テーブルに頬杖をつく陽月が言った。
「それな」
と、ついノリで同意を返してしまって、山霧は口元を手で覆った。陽月は山霧の方をちらりと見て、「ほら、山霧もそう言ってる」と春陽に投げる。
「もぉ〜、二人とも、何でこの可愛さがわかんないの? ……加谷さんは分かってくれますよね?」
春陽に同意を求められ、加谷は落ち着いたように、にこり、と笑う。
「左様ですね。春陽様が可愛いと思われるのならば、それでよろしいかと思います。ただ、陽太様の前では、あまりお褒めにならないで下さいね」
「何で?」
「今度はライオンの等身大のぬいぐるみが来るからです」
加谷の言葉に、今度は陽月が「それな」と同意した。
「……ライオンも可愛いかも?」
少し考えて春陽が返すと「そうじゃないだろ」と、三人の声が揃った。
正直、いつライオンのぬいぐるみが来てもおかしくないな、と思いながら山霧は仕事をしている。
そうなると、陽月様は何のぬいぐるみを贈られるのだろうか、とか……そんなことも思ったり。
鼻歌を歌いながら、改めてベッドに向き直る。現在、春陽は用事のために部屋を外しているが、終わればすぐに戻って来るだろう。
「よし、春陽様が不在の間に終わらせちゃうぞ!」
山霧は気合を入れ直して、シーツを掴んだ。
「はるに紹介したい人がいるんだよ」
陽太に呼ばれ、執務室に顔を出す。部屋へはよく行くけれど、執務室の方にはほとんど入った事がなく、春陽は少しばかり緊張した。室内には、陽月をはじめ、達臣や颯真も集められていた。
指示されるままソファーに向かい、陽月の隣に座る。
「えっと…………俺、何かした……?」
ただ事ではなさそうな雰囲気に、春陽は思わず縮こまって聞いた。
「はるは何もしてないよ。言ったでしょ? 紹介したい人がいるって」
陽太の言葉に頷くと、雅明が迎え入れるように執務室の扉を開けた。
ピンと背筋を伸ばして、一人の女性が入って来る。上品な身のこなしと服装から、執事の一人だと分かった。
女性は陽太の横に立つと、春陽に向かって深々と頭を下げた。
「紹介するね。春陽の執事の碧生だよ」
「……えっ!?」
思わず春陽は声を上げる。今、陽太は何と言った? 自分の執事と、そう言わなかっただろうか。
「初めまして、春陽様。執事の加谷碧生と申します」
顔を上げて、柔らかな笑顔で自己紹介される。凛とした声と自信あふれる瞳に、一目で女性型のαだと、春陽にも分かった。
「あっ、はっ、はじめまして! 瀬野春陽と申します!」
春陽も立ち上がってペコペコと頭を下げた。はるが立つ必要ないって、と陽月に諭される。
「えっ! あ、そ! そっか!」
「急にびっくりさせたよね。とりあえず落ち着こうか」
陽太に着席を促され、春陽はしおしおと座った。
「改めて、碧生は、はるの執事だよ。そろそろ、はるにも執事が必要だなと思って。父さんと、陽月と、三人で相談して決めたんだよ」
陽太がふわりと微笑んで言った。驚きが大きくて、いつまでも心臓がドキドキと遊んでいる。
「加谷の妹。だから、安心して」
陽月に言われて、後ろに立つ加谷に視線を向けた。はい、と返事をするように加谷は頭を下げた。
「あ……妹さん」
「はい。加谷緋津希の実妹になります」
兄にそっと視線を送りながら、碧生は言った。
一瞬、春陽の思考が止まる。今、初めて加谷のフルネームを聞いた気がする。けれど、よく聞く響きだった気もする。
ん?……ん? と声には出さずに疑問符を浮かべると、陽月が笑った。
「名前。一緒なんだ」
「……は、い?」
「だから、加谷と俺。ひづきって名前、一緒なんだ」
さらりと言われたけれど、春陽は思わず大声を上げてしまう。
「えっ!? ええっ!! そうだったの!?」
春陽の反応に、その場にいた全員が、笑うように表情を崩す。緊張感のあった空気が一気に緩んだ。
「ほらぁー、だから言ったじゃないですか! 主と同じ名前なんておかしいんですって! 改名しますよ俺!」
加谷が頭を抱えながら苦悩を吐く。
「何で? 俺は気に入ってるけど」
陽月が言うと、「いや、駄目ですってやっぱり」と否定する。
「ひいが良いって言ってるんだから、気にしなくていいのに。大体、同じ名前付けたのはこっちなんだから、改名するならひいの方だよね?」
にこにこ、と笑いながら陽太がそう口にする。「左様ですね」と達臣が続いた。
陽月と春陽の生まれた時のことは、陽太もよく覚えている。
翔と達臣と一緒に病院へ行って、優実の隣で眠る二人を見つめた。素直に、小さいな、と思った。
「ひなの弟たちだよ」
「うん。……触ってもいい?」
聞く必要はなかったかもしれない。けれど、聞いてからでないと、触れてはいけない気がした。あまりにも弱かったから。
「抱っこしますか……?」
優実が聞いてくれた。
「良いの?」
「はい。もちろん。私の隣へ座って……ゆっくりで良いですよ」
ベッドに上がって、達臣の腕から弟を受け取る。優実がそっと手を添えてくれて、初めて春陽を腕に収めた。
「……あったかいね」
あたたかくて、小さくて、かわいい。
「名前どうしようか? 何個か考えてたよね」
陽月を抱いて、翔は優実に聞く。
「そうですね……荷物の中に名付け辞典、持って来ていますよ」
優実が鞄を指さして言った。うーん、と翔は陽月の顔を見て、執事の寿津彦に視線を送る。
「寿津の長男て、ひづきくんだっけ?」
「はい、左様です。緋色の緋に、さんずいの津に、希望の希ですね」
寿津彦が丁寧に説明した。
「じゃあ、この子も“ひづき”にしようか! ひなと同じ陽に、月! 主と同じって、面白くていいじゃん?」
翔の提案に、誰も、否定も肯定も返さなかった。いや、言葉を返せなかったというのが正しい。
恐らく全員が「良いのかな……?」と思っていたと思う。そして、誰も否定を口にしないので「良いのか」と肯定してしまった。
「この子は……?」
まだ名前の決まっていない、腕の中の弟の名前を尋ねる。
「うーん……春陽とか? 春生まれだから!」
なんて単純な理由だろう、とは思った。けれど、自分の口は「はるひ」と名前を呼んでいた。
「陽太と、陽月と、春陽。ね、良いでしょ?」
翔は一人一人を大切に見ながら名前を呼ぶ。
名前を呼ばれた事で、そうか、自分は兄になったんだ……と、陽太はしっかりと理解した。
思い返せば、あの時に翔は、加谷を陽月の執事にすると決めていたのだ。まだ、加谷が執事の道へ進むとは、決まってもいないのに……。
「うわぁ……何か“運命”みたいだね……」
ほっこりと、春陽が口にする。
「いやいや、何で誰も否定しなかったんですか……?」
まだ納得がいかないように、加谷は陽太と達臣に聞いた。
「何でかなぁ?」
「なぜでしょう?」
「僕は達臣たちが否定しなかったから、じゃあ良いのかなー……って」
「私は、寿津彦くんが否定しなかったからかな……?」
「……加谷くん、諦めましょう。あの二人なら、しょうがないです」
二人とも、楽しい事が好きなので。と颯真が言う。つい先日まで二人と居た颯真が言うのだから、なるほど説得力がある。
「もちろん、“まさあき”って付けるとか言い出したら否定してたよ」
それは僕のでしょ? ね? と、陽太が雅明を見ながら言った。はい、と返事をする代わりに、雅明は陽太の視線を穏やかに受け止める。
「加谷が嫌なら、俺が改名しようか?」
「何言ってるんですか陽月様! 絶対駄目ですよ!」
「じゃあ良いじゃん。お揃いで我慢して」
陽月が、少しだけ甘えるように加谷に笑いかけた。
温かな信頼関係がそこにはあって、春陽は、羨ましいな、と思う。
改めて、碧生へと視線を向ける。それに気付いた碧生が、にこ、と笑みを返した。
春陽も照れながら笑みを返す。
陽太と雅明、陽月と加谷のように、自分たちもそうなれたらいい。
「よろしくお願いします、碧生さん」
新たな期待を胸に、春陽は碧生に声をかけた。
――END
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