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第1話 田中、転生する
今は……はて、何連勤目だったか。残業日数も覚えていない。どうせサビ残なんだから覚えていても意味はないのだが。
どうにも頭に靄がかかったようにはっきりとしない。エナドリ切れたか。
軽い頭痛は常時だからいいとして、体が少し痛い。筋肉痛か、関節痛か……風邪を引いている暇もないんだ、勘弁してくれ。
「……?」
軽く頭を振って、辺りを見回す。そしてふと、「ここは何処だ?」という疑問が頭に浮かんだ。
真っ白い世界は前後左右、上下すらも分からなくなりそうな具合の悪い感覚に陥る。音もない。会社なら色は闇色で、液晶の青白い光りがあり、パソコンのモーター音がしているはずだ。
「……まぁ、いいか」
『よくない!』
どうせ一瞬気絶でもしたんだろうと軽く考えて、心の中で「起きろ」と自分に命令していると不意に知らない声がした。子供のような……とにかく若い男の声だ。
白い世界が不意に揺らぎ、そこに人影が差し込む……が、顔などは分からない。逆光で影は分かるけれど姿は判然としない感じだが……。
「あの、目に痛いので光量落としていただけますか?」
『淡々と処理するな! 少しは慌てろ!』
「はぁ」
それよりも、明日のプレゼン資料と明後日の資料、プロジェクトのまとめと、納期の調整。そういえば、イベントブースを押さえられたのでそれについてもコンセプトの確認と展示品の選定、イメージなども練らないと。
『だから! 死んでまで仕事の事考えるなよ!』
「……は?」
影が告げる事に一瞬遅れて、俺は反応した。ただ、これという感情は湧かないままだ。事実を告げられ、そのままに受けとめた。そんな感覚だ。
それが、自身の死であっても。
影は呆れた様子でいる。表情こそ分からないが伝わってくるものが脱力している。
『死んだのにそのリアクションって、生き物としてどうなの?』
「どう、と言われましても……実感がありませんね。ちなみに、どのように死にましたか?」
『心臓発作。過労状態で立ち上がった時に発作を起こして倒れたの』
「そうですか」
そうなると、会社に迷惑をかけたな。悪い噂にならなければいいが。あと、天涯孤独で誰も遺体を引き取ってくれないんだ。その場合、葬儀などはどうなるのだろう?
『もう、その辺は気にしなくていいよ。君には何も出来ないし』
「……そうですね」
確かに、死んだ本人があちこちに連絡をして自分の葬儀を手配することはできない。
……いや、気力で出来ない事もないように思うが。
『やめて。変なホラーが生まれる』
影の主は思いきり脱力してそう言った。
そうなると、この白い空間は死後の世界という事になる。よく「綺麗な花畑がある」とか言うが、実際は無機質な感じだ。
「あの、地獄とか天国とかを伝えに来たなにかしらですか?」
目の前の影に問うと今度はエグエグ泣き始めた。おそらく人知を越えたなにかだろうに、随分人間くさいものだ。
『君が人間辞めすぎてるだけだよ!』
「……ですか」
まぁ、言われすぎているセリフなのでスルーしておこう。
『僕は一応神的な存在です。田中聖、君は生前あまりに会社と社会に使い潰され、この状況になっても感情の起伏もなく淡々と処理をしている。こんな疲弊しきった魂はあまりに可哀想なので、異世界転生の道を用意しました!』
「あっ、別に普通に処理してください」
『そこは喜んでよ!』
だって、異世界転生とか面倒くさいと思ってしまったんだ。
別に、やり残した事とかはない。沢山寝たいとか、たまには美味しいものが食べたいとか、温泉行きたかったな程度の事だ。何も残していないのと大差はない。
だが、影改めて神様は困り顔だった。
『正直、こんなに執着がないと普通に転生は無理なんだよ。君の魂、思ってる以上にボロボロなんだよ? 疲弊しきって希望の光がこぼれ落ちて、楽しいとか、幸せとか、そういう喜びを溜められないんだ』
「それでは、ダメなんですか?」
『そうだね。このまま死後の世界に連れていったら、君は間違いなく消えて無くなっちゃうから』
消えてなくなる……それはおそらく、とても重大な事なのに、俺はそれすら怖いと思えなかった。「あぁ、そうなんだ」と受けとめて終わっている。
これが神様の言う『異常』なんだろうと、自覚はできた。
だが、自覚できただけで何かが変わるのだろうか?
「質問なのですが、異世界に転生すると何か現状が変わるのでしょうか?」
手を上げて問うと、神様はちょっと嬉しそうな感じになった。そして、多分頷いている。
『変わるよ! 君を転生させる世界はまだ文明とかも未発達な部分があって、人との関わりがとても濃いし、深いんだ』
「面倒ですね」
『その面倒な部分をどうにかして、君の魂の穴を塞がないといけないの! それにはこの地球は少し淡泊すぎるし、正直ブラック企業多すぎて僕吐きそう』
「我慢して飲み込んでください。胃がひっくり返るほど吐く事になるので」
『経験者じゃん! もぉ、嫌だこの世界!』
神様がエグエグと泣き出した。少し面白い。
ただ、胃が空っぽのまま吐き気が止まないと本当に口から胃が出るんじゃないかと思うほど嘔吐くから苦しいのは本当だ。何度か経験している。
『とーにーかーく! 君を異世界に転生させるのは決定事項です!』
「分かりやすくていいと思います。遙か上で決まった事を俺如きが覆せるとは思っておりませんので」
上司の言葉を借りれば「虫が何を喚こうと人間様には聞こえない」そうだ。まぁ、分からなくもないのでスルーしている。実際、動かしようもない事案を動かす気力がないのだ。
ここでようやく神様が「よろしい!」と言って、何やら地球儀のようなものを取り出す。見慣れない、ルーン文字のような角張った直線的な文字が書かれている。おそらくアルファベットに近いが。
『これは君が転生する世界バルモントだよ。人族、獣人族、エルフ、ドワーフ、竜人族なんかが住んでる。他に魔人族もいるけれど、彼らはちょっと危険だから魔人の領域に隔離してある。でも、ちょいちょい出てきて何かしら問題起こすんだよね』
「見たところ、森林や山岳地帯といった自然の地形が多いようですが」
『そうそう。人間の国同士でもそれなりに離れてる所が多いね。魔物とかも多いから、地球ほど人口爆発してないのもお気に入りポイント。あっ、勿論インターネットとかないよ』
「それはまぁ、そうでしょうね」
中世くらいの感じだろうか。大きな町はそれなりに発達し、人の住んでいる区域とその外を高い壁で区切っている。中世ヨーロッパに見られる形式だ。
おそらく、このような環境のほうが心身としてはいいのだろう。だが、仕事のやりやすさで言えば電子機器が無い事はマイナスでもある。
『……異世界でも仕事漬けになるつもり?』
「仕事は日々の糧を得る為に必要な事であり、生活の基盤でもあると思っていますが?」
『もうさ、無双系チートあげるから心のままに生きなよぉ』
「不要ですね。そうした生き方は俺の選択肢にはありません」
きっぱりと伝えると、神様はまた深い深い溜息をついた。
『まぁ、もういいや。えっと、世界の説明とスキルの説明してもいい?』
「よろしくお願いします」
異世界転生は既に決定事項。ならば生きる為の予備知識は欲しいものだ。
そもそも、スキルなどあるのだろうか?
どうにも初めての事は苦手意識を持ってしまう。これからこんな事が続くのだろうと思うと、やや気が滅入る感じがあって俺は溜息をついた。
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