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第6話 秘密と予感

 作戦通り、猫の姿になった百八をリュックに詰め込んだまま、いくつかの電車を乗り継ぎ、自宅へ向かう。やがて辿り着いた実家の門は、何故かいつもよりも敷居が高く感じられた。  ——家に帰るだけでこんなに緊張したのは生まれて初めてだ…  晴人はそんなことを考えながら、古い木造りの扉を開けて、母屋までの道を歩き続けた。百八は、思いの外行儀良く、きちんと言いつけを守ったまま大人しくしている。このままいけば、まずバレることはないだろう。  晴人の自室である離れの小屋は、残念なことに母屋の裏手にあり、まずは家族と顔を合わせなければならない。それでなくても、すでに夕飯時をとっくに過ぎており、母親からは帰宅を促すLINEが何度も送られてきていた。  ——誰とも会わずに部屋にこもるのはまず難しいだろうな。  そんなことを考えながら、ガラリと戸を開け、「ただいま」と小さな声で呟く。昔から、もっと大きな声を出しなさいと言われているのだが、どうしてもハキハキとした態度は自分の性に合わない。 「あらようやくお帰りね」  靴を脱いで顔を上げた瞬間、待ち構えていたかのようにその場に立っていた母親と目が合い、思わずぎくりとする。しかし、リュックの中で百八が大人しくしている限り、問題はないはずだ。このまま彼女をやり過ごし、まずは自室へ向かって、リュックを置いてくること。それから夕餉の席に着けば、怪しまれることはない。  恐らく、二人の兄も、まだこの時間なら「仕事」をしているはずだ。それに、何と言っても一族の中で最も勘の鋭い父親は、九州まで「大物」を祓いに出張に出ており、明日まで帰ってこない。 「あ、遅くなってごめん…」  俯き加減に、一言そう答える。晴人が彼女と目を合わせて喋らないのは、いつものことだから特別おかしなことではない。思春期というには少し遅いが、彼は昔からこの母親という存在が苦手だ。 「一体何してたのよ、何度もLINEしたのに、いつも既読スルーなんだから。夕飯できてるからさっさと食べてちょうだい」 「分かった、その前に荷物置いてくる」  そう言って通り過ぎようとした瞬間—— 「ちょっと待ちなさい晴人」  意外なほど鋭い声で、母親が彼を呼び止めた。晴人は再びぎくりとしながら、振り返らずに足だけを止める。そのまま、背中を向けて「…何?」と呟くと、母親がこちらに向かってゆっくりと近づいてくるのが分かった。 「あんた…もしかして…」  ——何だ?まさかもうバレたのか?  内心で冷や汗をかきながら、晴人は身を固くした。確かに、母親というのは子供の悪事を見抜くことに長けた生き物だ。二人の兄はどちらかというと大らかで気の置けないタイプだが、この母は昔から父親に続いて妙な勘が働く。  晴人が、「淫」の属性を持つ式神と誓約を交わしたとバレたら一体どうなってしまうのだろう。不可抗力とはいえ、息子がまさか自分の肉体を代償にして力を得たと知ったとしたら?ある意味、晴人にとって、母親は父親よりも恐ろしい存在だ。そんな彼女に、この秘密がバレたら——  そんな晴人の葛藤を射抜くように鋭い声で、母親はこう言葉を続けた。 「彼女できたでしょ?」  その瞬間、全身から力が抜けていくのを晴人は感じた。思わずホッと胸を撫で下ろしながら、作り笑いを浮かべて母親の方を振り返る。 「で、できたわけないじゃんそんなもん。俺そういうの興味ないから。ただ美容院が混んでただけだよ」  咄嗟にそう言い訳をしながら、晴人はしかし、不思議な気持ちになった。確かに彼女ができたわけではない。しかし、本来なら彼女とするようなことを、自分は式神としてしまったのだ。しかも、多分今夜、それ以上のこともしようとしている…  急に胸が高鳴り出すのを誤魔化すように、晴人は「じゃあ、荷物置いてくる」と言って、まだ何か言いたげにしている母親を後に、離れの自室へと向かった。母親が、小さく「何だ、つまんないの」と呟くのを聞きながら。  ——母さんごめん。俺、あなたが思うよりもっと不道徳な息子です…  自室へ入ると、不意に疲労を覚え、晴人はどさっとリュックをその場に置いて、ベッドに倒れ込んだ。しかし、その中で暴れ回る音を聞いて、ハッと我に帰る。そうだ、そういやこいつが入ってたんだ。  恐る恐るジッパーを開けて中を覗き込むと、つぶらな瞳と目が合った。 「にゃあ」  猫らしく鳴くその声に、思わず頬が緩むのを感じる。しかし、次の瞬間—— 「ああ、疲れた」  百八はそう言って、あっという間に元の姿、白い着物を身につけた筋骨隆々の青年の姿に戻っていた。三毛猫の姿と、本来の容姿とのギャップに、晴人はまだ慣れない。百八は、全身の凝りをほぐすように体を動かすと、腕を組み、ニヤリと笑いながら、晴人の方へにじり寄るように近づいてきた。その笑みには、獲物を追い詰めた獣のような、ぎらついた色気が宿っている。 「ここがお前の言っていた『離れ』というやつか。なかなか趣のある良い場所じゃないか。それに——」  晴人が先ほど倒れ込んでいたベッドを指差しながら、「淫」の属性を持つ式神は言った。 「都合の良いことに寝床もある。さあ晴人、俺はもう待ちきれん。お前も陰陽師の端くれならば分かっているだろうが、誓約は絶対だ。早速さっきの続きをしよう——」

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