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第5話 新たなる影

 晴人たちがその場を去って数分後——  結界が張られたはずの路地裏に、何故か一人の青年が姿を見せた。年齢は、晴人と同じくらい。黒いストレートの髪と、今時珍しい白い和傘のコントラストが眩しい。ブルーのシャツが、徐々に強くなり始めた風になびいて膨らむ。吹き付ける雨にも動じず、微動だにしないその姿は、どこか神秘的なオーラを放っている。  青年は、そっと狐のもののけに近づき、「赤い眼」に刺さった二本の矢を抜くと、まじまじと眺めた。顔には何の表情も浮かんでいないが、その瞳は真剣だ。 「先に狩られたね。ずっと狙ってたのに」  突然そんな声がして、青年の背中に覆い被さるように異形のものが姿を見せた。「それ」は、彼よりも二回りほど大きい骸骨の形をしている。 「ああ、ちょっと残念だな。なかなかの大物だったから、多分協会に申請してから祓えばそこそこの報酬が得られた」  青年は、しばらく矢を見つめていたが、やがて興味を失ったかのようにその場に放り投げると、つまらなそうな顔で目の前に横たわる狐のもののけの遺骸を見上げた。 「だけど仕方ない。ここに駆けつけた時、既にあの式神が戦ってた。陰陽師はもののけが張った結界を突破できるけど、『飛び入り参加』は規則に反してる。狩りは早い者勝ちだから。蘭丸、あいつの情報、何か持ってる?」 「あいつってどっち?棒立ちになってた陰陽師の方?それとも、やけに自信満々だった式神のこと?」  骸骨が口を開くと、黒い炎がじわりとその全身を包んだ。 「…両方」 「式神の方は見たことある。百八っていう変わり者だ。けど、陰陽師の坊やは初めて見る顔だった。多分あれが最初の狩りだったんじゃないかな?式神を制御できてる感じもしなかったし」 「そっか、また新しいライバルが増えたのかな…」    少し苛立ちの色が混じったその言葉を聞いて、骸骨が地の底から響くような低い笑い声を上げる。 「大丈夫。安心して良いよ。君と僕の誓約の方がもっと古くて深い。今回はたまたま、あっちの運が良かっただけだ」  巨大な骸骨は、そう言うと青年の体を背後から抱きしめた。その抱擁に身を任せながら、青年は何も言わずに目を閉じ、手を合わせると、一言だけ、「南無」と唱えた。その瞬間、倒れていた狐のもののけの姿が小さくなる。小型犬ぐらいのサイズになったそれに、骸骨がスッと手を伸ばす。 「いただきます」  そう言って、骸骨は狐のもののけを掴み、口に放り込んだ。ゆっくり味わうように咀嚼してから飲み込むと、「ごちそうさま」と呟き、青年の頬にくちづけをする。骸骨の体を包む炎が、さらにその黒さを増す。 「美味かったよ、ありがとう」 「…どういたしまして」  青年は、一言だけそう返事をすると、不意に真剣な顔つきになり、和傘を差したまま小走りにその場から姿を消した。その直後、現実の音が世界に戻ってきたかのように、パトカーのサイレンが鳴り響いた—— *** 「あのさ…」  百八と並んで歩きながら、晴人は静かに口を開いた。その横を、数台のパトカーが通り過ぎていく。恐らく、もののけの遺骸が消え、結界が解かれたのだろう。 「ん?何だ?もしかしてもうヤリたくなってきたか?」  百八が相変わらずの好色そうな笑みを浮かべながら、晴人の肩を抱く。その馴れ馴れしい仕草に思わず顔をしかめながら、晴人は言った。 「お前を連れて帰るのは仕方ないとして…」 「として?」 「その格好、どうにかならないかな?」 「格好って?」  その呑気な返事に、晴人は小さくため息をつく。 「だからその白い着物。はっきり言って目立ちまくりなんだよ。今は誰もいないから良いけど、これから大通りに出るし、何より家族にバレたら困るだろ?」  晴人が目を吊り上げてそう言うと、百八は、「何だそんなことか」と、再び快活な笑い声を上げた。 「心配するな、お前、さっき俺と出会った時のことをもう忘れたのか?」 「出会った時…?」 「何だよ、意外と間が抜けてるなぁお前。まあ良い。じゃあ見てろよ」  そう言うが早いか、霧のようなものが百八の体を包み込み…数秒も経たないうちに、彼はあの、「出会った時」の姿、小さな三毛猫に戻っていた。そのまま、まるで媚を売るかのように晴人の足に擦り寄り、「にゃあ」と小さく鳴き声を上げる。  ——そうだった。こいつ最初は猫の姿をしてやがったんだ…それで俺はすっかり騙されて… 「どうだ?これで良いだろ晴人。この姿なら誰にも怪しまれないぜ」 「…ああ、その代わり人がいるところでは絶対に喋んなよ」  ——今はこのままで良いとして、電車に乗る時とか、家に帰る時とかはリュックの中に詰め込まないとな。まあ、そのまま離れに連れ込めば問題ないか。  そう考えた瞬間、さっきの口づけが頭をよぎり、晴人は思わず赤面した。離れに連れ込むということは、あの続きをするということで、つまりそれは…。無意識に「それ」をしている自分を想像し、晴人は頭に浮かんだその妄想を振り切るように、小さく頭を横に振った。  ——いけない、これじゃ何か期待してるみたいじゃないか。違う、違うぞ。誓約だから仕方なくするだけで、俺は決してそういう展開を望んでいるわけじゃない。 「にゃあ」  三毛猫の姿に戻った百八が、晴人の顔を見上げながら、もう一度鳴き声を上げる。晴人は、思わずその可愛さに騙されそうになりながらも、心の中に暗雲が立ち込めるのを感じていた——

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