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第9話 嵐の前触れ

 百八が完全に隠れたことを確認してから、ドアをゆっくりと開ける。    そこには、心配そうな顔をした母親と、二人のスーツを着た男たちが立っていた。三十代後半から四十代前半ぐらいだろうか?一人は身長がやけに高く、もう一人は逆に身長が低い。  彼らはどちらも無表情で、揃って警察手帳を見せながら、「安倍晴人君だね」と確認するように尋ねてきた。 「あ、はい。そうですけど…」  晴人は答えながら、二人の様子にどこか引っ掛かりを覚えた。上手く説明できないが、何故だか妙な感じがする。ビー玉を嵌め込んだような、冷たい目のせいだろうか。  ——いや、違う。そう、これは… 「あの…」  晴人がじっと考えていると、母親が横から口を開いた。 「うちの息子が何かしたんですか?この子は無愛想だけど、決して悪いことをするような子じゃ…」 「いえ、そういうわけじゃありません」  母親の言葉を遮るように、身長の高い方の男がぴしゃりと言った。 「ただ、二、三伺いたいことがありましてね。ニュースでご覧になったかと思いますが、例のもののけ騒ぎの件で…」  それを聞いた瞬間、晴人の胸に暗雲が立ち込める。  ——まさか、あの狐を祓ったのが俺だともう気づかれたのか。いや、それにしても昨日の今日だ。あまりにも早過ぎやしないだろうか? 「確認だけど、君は公的な『陰陽師』の資格を有していないね?」  表情の読み取れない四つの瞳が、晴人を縛り付けるように捉える。何とも言えない嫌な匂いが、鼻をつく。 「え、ええ…」  黙りこくった晴人の代わりに、母親が答えた。 「この子は昔から『そっち方面』には全く興味がなくて、ろくに修業もしていないものですから。お恥ずかしながら…」  母親の存在を無視するかのように、男が言葉を続ける。 「民間の『陰陽師』がもののけを祓うことは禁じられていないが、その際は陰陽庁に登録を行った上で、協会に所属することが義務付けられている。それは学校でも習ったよね?」  喋るのは身長の高い方ばかりで、低い方は専ら、まるで晴人の動きを監視するように視線を注ぎ続けている。  ——こいつら、やっぱり何かおかしい…。それにこの瞳、どこかで見覚えが…  晴人はベッドの後ろに隠した百八の存在を確認するように、ちらりと背後に目をやると、「はい」と短く答えた。 「でも俺…特に何もしてません」 「そ、そうよね晴人。あんたに何かできるわけないわ、陰陽術の勉強だってろくにしてないのに」  母親が、援護するように余計な言葉を被せる。しかし、二人の男は彼女の声が聞こえないかのように、じっと晴人だけを見つめ続けている。  その時、晴人の頭の中で声が聞こえた。 (おい、こいつら人間じゃないぞ。)  ——え?  思わず返事しそうになるのを必死に抑えながら、晴人は再び、ちらりと背後を振り返った。しかし、そこにはただベッドがあるだけだ。 (生臭い匂いがする——もののけだ。しかも昨日のやつよりやばい)  間違いなく、それは百八の声だった。晴人は、その声に答えるように、心の中で念じてみた。 (どうして喋れるんだ?) (誓約を交わしたからだよ。言っただろ、俺はいつでもお前のそばにいるって) (そばにいるって、俺の中にいるってことかよ?) (そりゃあそうさ。まあとにかく、厄介なものが来ちまったな。どうする?祓うか?また『あれ』ができるなら俺は大歓迎だぜ?)  そう言うと、百八はククッと獣じみた声で笑った。 (…一気にやる気が失せた)  晴人は冷たい声で応える。 (じゃあ俺は何もしない。お前が八つ裂きにされるのを黙って見てることにしよう)  しかし、晴人はそこでふっと「彼女」の存在に気づいた。 (でも、横に母さんが…) (関係ないね。それに…あの女はとっくに気づいてる) (…え?)  思わず母親の顔を見る。すると、さっきまで青ざめていたその表情が、妙に凛々しいものに変わっていた。何かを察したかのように、晴人を見てこくり、と頷く。  ——そう言えば、昨日百八が言っていたっけ。母さんも陰陽師だって——  その瞬間、スーツの男たちがスッと一歩前に歩み出た。途端に部屋の空気が冷たくなり、梅雨時だと言うのに晴人の皮膚が粟立つ。 「困るんだよね、最近野良の陰陽師が多くなって。でも違反は違反だ。『ルール』はちゃんと守らないと…」  長身の男が、相変わらずのビー玉のような目で晴人を見たまま、口元だけでニヤリと不気味な笑みを見せた。  ——分かった。こいつらの目が何に似ているか。 「悪いけど、こっちもこれが『仕事』なんだね——」  そう言うが早いか、男の首がスッと伸びて晴人の方へと向かってきた。口元から、二つに分かれた朱色の舌が飛び出し、こちらを挑発するように不気味な動きを繰り返す。  ——蛇だ。  その時、背後のベッドの下から、三毛猫の姿をした百八が勢いよく飛び出し、晴人の左肩に乗った。そのまま毛を逆立てて、威嚇するような鳴き声を出す。その声が波のように部屋中に広がり、無表情だった男たちの目が一瞬だけ見開かれるのが分かった。 「百八!奴を狩れ」  晴人がそう叫ぶと、百八はさっとジャンプして、伸びてきた男の顔に噛み付いた。思わず、男が伸ばした首を引っ込める。その隙を狙って、百八は本来の姿——筋骨隆々の青年の姿に戻っていた。 「でかい狐の次は、もののけ二体かよ」  百八はこちらに背を向けながら言った。 「晴人、この代償は高くつくぜ——」

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