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第1話 一目惚れ

 その日の午後は予報外の雨が降った。もう七月末というのに、季節外れの寒雨だった。  橘花彩真(たちばなしま)は、取引先の会社に傘を持参しなかったのを後悔した。ロッカーに常備していても、持ち歩かなければ意味は無い。  駅も近くに見当たらず、仕方なくタクシーで帰る事にした。痛い出費だとため息を吐く。  タクシーは程なくして捕まえられたが、既にびしょ濡れである。このまま座るのを躊躇うくらいに……。  しかし運転手は彩真にタオルをすっと差し出した。 「迷惑な雨ですね」朗らかに言う。 「本当に。もう、人と会わなくていいのだけが救いです」 「営業さん?」 「えぇ、まだ新人なんですけど」  運良く契約が取れたのは良かったものの、突然のトラブル対応に駆り出された帰りだった。会社からは直帰してもいいと言われたが、どうしても戻って片付けなくてはいけない仕事があり辟易する。  ここからだとアパートに帰る方が近いから余計にだ。 「本当に、今日はツイてないですよ」  タクシーの運転手に愚痴を溢しても仕方ないのに、なぜか喋る途中で止められなかった。  後部座席から見たその人は、自分の父親よりは若いのだろうが髪には少し白いものが混ざっている。野暮ったく見えないのはナチュラルに整えられているからだろう。  あまりタクシーを利用しない彩真だけど、なんとなくタクシーの運転手というのはぶっきらぼうでタバコ臭いイメージがあった。子供の頃に乗った時の記憶で、そんな印象が植え付けられているのだろうと思われた。  しかしこの人は全くその反対に位置する人だった。  タバコの匂いがしないどころか、物腰柔らかく、口振りも運転も穏やかだ。  突然の雨に備えて、タオルはいつでも数枚乗せているのだと言った。そのタオルは柔軟剤の香りがふわりと漂い、湿気の生臭さから解放してくれる。顔を拭きながら気配りのプロだと感心した。  会社に到着するまでに渋滞に捕まり、四十分もかかったことが僥倖だと思えるほど運転手と会話が弾んだ。 「流石は営業さんは話が上手いね。私はこの仕事も長いけど、お客さんと喋るのはあまり得意ではないんだ」 「そんなふうには思えませんし、今は沢山話してくれるじゃないですか」 「あなたが話しやすく誘導してくれているからですよ。誰とでもこんなに喋っているわけではありません」 「すみません、つい。黙った方がいいですか?」 「いいえ、久しぶりに楽しいんです。沈黙って気まずいじゃないですか。でも運転手から話かけられるのを嫌がる人って想像以上に多いですからね。こうして、以前からの知人だったみたいに話してくれるのが新鮮で。  今日、仕事に来て良かったとさえ思ってます」 「実は運転手さんに同じようなことを考えていました。僕はまだ仕事も未熟で失敗もするし、不安の方が多くて。今、人から言って欲しい一番の言葉をもらいました。ありがとうございます」  この人のタクシーなら、何度でも乗りたいと彩真は思った。現実的にはその機会が殆どなくて残念なのだが。  彩真はタクシーから降りる間際に名刺をもらった。 「あまりタクシーは使わないんですけど、もし利用する機会があれば指名してもいいですか?」 「それは私も助かります」眉を下げ、ぺこりと頭を下げる。  しかし夕方の六時までしかタクシーの運転手としては働いていないのだと付け加えた。  受け取った名刺には『加賀美雅彦(かがみまさひこ)』と書かれてある。名前を確認し、大切に名刺ケースにしまった。  このまま会えなくなるのはどことなく寂しい気がしてタクシーを見送る。  まだほのかに胸が暖かい。タオルを貸してくれたおかげで、髪も乾いている。 「って、タオル返すの忘れてた」  カバンに引っ掛けたまま降りてしまったと、今になって気付いた。  直ぐに名刺の番号に電話をかけようとスマホを取り出したがやめた。なんとなく、まだこのタオルを持っていたかった。  ちゃんと洗濯をしてから返したいのもあるが、もう一度会えるチャンスを残していたい。  丁寧に畳み、カバンにしまう。  残業は予定より一時間近くかかってしまったが、視界の隅にこのタオルを置いておくだけで疲労が和らいだ。加賀美との会話を思い出すと自然と口許が緩む。 「さて、帰ろ」  雨は止んでいた。濡れた歩道に街の光が反射して綺麗だった。今日は気分がいい。いつもと違う行動を取ったのが幸いし、加賀美と出会えた。  最寄りのスーパーで半額になった寿司とだし巻き卵を買った。普段は適当に油の回った惣菜を選んでしまうが今日は違う。久しぶりに気持ちが浮ついているのを無視できない。  アパートに帰ると冷蔵庫からビールを取り出し、加賀美とのひと時を思い出しながらのんびりと食事をとる。    彩真は学生の頃から歳の離れた大人の男性に惹かれることが多かった。早くに父親を亡くしたけれど、決してそれが理由ではないと感じる。  というのも、彩真は父親には懐いていなかった。病弱だったこともあり入退院を繰り返し、一緒に遊んだ記憶もない。母があまり面会に連れて行きたがらなかったのもあるが、家で祖母と過ごしていた時間の方が長かった。  その頃は、近所に住んでいた歳の離れたお兄さんが好きだった。もちろん恋愛感情なんてものは知らなかった。でもお兄さんは優しかったし、たまに家に呼んでゲームをさせてくれたり、宿題を教えてくれたりした。  当時すでに高校生だったその人は、卒業と共に引っ越してしまったけれど、彩真にとっては『子供の頃の思い出』と言えば、近所のお兄さんと遊んだ記憶が一番多い。  そんなだから、何故、大人の男性に惚れるのかは自分でも良く分からない。偶々、好きになった人がそうだったとしか言いようがない。  とは言え、誰でもいいわけではなく、今の会社にだって歳の離れた男性は沢山いるが、その誰にも好意は持てないでいた。尊敬と恋愛は全くの別物だ。  加賀美さんを、きっと好きになる。  謎の自信だけはあった。 「でもなぁ。また会いたいなんて思ったところでタクシーなんて早々乗れるもんじゃないし……」  最後の寿司を飲み込み、呟く。確実に加賀美と会うにはタクシーで指名するほかないが、それでは毎日の食費を随分削らないといけなくなる。  なかなか会えないと思うと余計に会いたくなるのが人間の性だ。考え始めると頭の中はそれ一色に染まる。流石に夢にまでは出てこないが、出てきてくれてもいいのに……とも思う。  貸してもらったタオルを握り締め、鼻をすり寄せると今も柔軟剤の匂いが残っている。彩真はゆっくりと吸い込み体内に充満させていく。  こうして全身に匂いが染み込んだ頃、深い眠りについたのだった。

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