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第1話
幕舎には、もはや、死臭が満ちていた。
眼下に広がる、神凪(かんなぎ)の国を包囲する、朽木 の大軍勢。その数、およそ二万。
対する、神凪の兵力は、二千足らず。
絶望的な、数字だった。
「―――我が君。ご再考を!」
筆頭家老・石動 の、その、絞り出すような声が、重い沈黙を破った。
「籠城 し、援軍を待つ。それしか、道は…」
「援軍? どこから来るというのだ、石動殿」
その言葉を、冷たく遮(さえぎ)ったのは、軍師として、新参の、朱鷺田 だった。
その、あまりにも冷静な、そして、残酷な分析に、誰もが、言葉を失う。
死。
その、絶対的な現実が、部屋の隅々にまで、満ち満ちていた。
その時、玉座の上で、ずっと黙っていた暁斗 が、静かに、顔を上げた。
「…朱鷺田」
「はっ」
「そなたに、策は、あるか」
その、最後の望みを懸けたような問いに、朱鷺田は、静かに、頷 いた。
そして、彼は、誰もが、予想だにしなかった、話を、始めた。
「――御君(みきみ)様。我らが今、対峙しておるのは、ただの人の軍勢ではありませぬ」
彼は、古の書物から、彼だけが、読み解いた、恐るべき「真実」を、語り始めた。
朽木が、その祖を「常世 の蟲 」に持つ物の怪 の血族であること。その兵士たちは、魂なき、ただの抜け殻であること。
そして、その蟲の王が、「極度の低温」と「聖なる音色」を、何よりも忌 み嫌うことを。
「――故に、我が策は、一つ。冬を待ち、最も冷え込む、新月の夜。我が神凪家に伝わる、神聖な鈴の音と共に、敵の本陣を奇襲すれば、必ずや、勝利は、我らに…」
その、あまりにも壮大で、そして、あまりにも、非現実的な策。
それを、聞いている家臣たちの顔に、絶望と、そして、かすかな嘲笑 の色が浮かぶ。
(この男は、狂ったのか…)と。
その、空気を、叩き斬ったのは、神月 迅 の、その、不遜 な、一言だった。
「――そんな、悠長 なこと、言ってられるかよ! 冬を待つ前に、城が落ちるわ!」
彼は、地図の上に、あの、誰もが不可能だと思う、「鴉返 しの谷」を越える、奇襲ルートを、指し示す。
「明日、夜明け。俺と、若と、そして、死ぬ覚悟のできた奴らだけで、ここから、敵の大将の首を、獲 りに行く。それだけだ」
『理性』の朱鷺田と、『狂気』の迅。
その、全く異なる、二つの「答え」を前に、暁斗が、どちらを選ぶのか。
全ての視線が、玉座の上の、若き王へと、注がれた。
暁斗は、しばらく、何も言わなかった。
やがて、彼は、ゆっくりと、その瞼 を開いた。
その瞳に、もはや迷いはなかった。ただ、全てを自らが背負うと決めた、王の、あまりにも深い「覚悟」だけが宿っていた。
「――迅の言う通りだ。この戦、余の、全てを、神月迅という『剣 』に、賭ける」
「異論は、認めぬ。各自、準備に戻れ」
家臣たちが、絶望と、そして、僅かな、狂気じみた興奮と共に、部屋を去っていく。
幕舎に、二人だけが残される。
天幕の中で、静かに火をみつめる暁斗が話しかけた。
「……迅 。お前にだけ、打ち明けたいことがある」
暁斗 は、そう言って、紫水晶のような瞳で、じっと迅を見つめた。
「俺は本当のことを話す。でも信じるかどうかはお前次第だ。不愉快に思うかもしれない。理解できないかもしれない。それならこの手の話をお前に二度としないから、ひとまず話を聞いてくれ」
「わ、かった」
どんなに恐ろしい話をされるのか、迅は気構えてしまう。
「俺は、敵の指揮官に、妖 が憑いているのが見える」
暁斗の言葉に、迅は、一瞬、戸惑った。
「……妖?」
「……そうだ。妖 というのは大きくわけて『物の怪 』と『魂氣 』の二種類がある。さっき朱鷺田が言っていた常世の蟲は『物の怪』だ。目で見えて刀で斬ることができる」
「物の怪…」
「そうだ。『物の怪』であればお前にも見える。でも『魂氣』はお前には見えないし、多分刀で斬れない」
迅は暁斗の顔を見る。
「俺は『魂氣』を見ることができる。そして今、朽木一族の戦神 となっている『魂氣』がみえている。戦を仕掛けようとしている朽木の怨念や敵意が、魂氣という塊になって、俺のところまで妖を連れてくるのだ。此度の戦も、おそらく朽木が神凪へ仕掛けることを決めたであろうころから、俺には見えていて、それを祓ってきた」
暁斗は、そう言って、自分の頭 を、指差した。黒髪に炎を映し、金色に艶めいていた。
「俺の父親は名のある陰陽師 だったそうだが、父が亡くなってすぐに謀反が起きたから、俺はこの国の結界をきちんと張れないのだ。そのせいで朽木の戦神が結界の要所を隠してしまったのだ。俺は、この戦で、神氣をつかって、朽木の魂氣を払わなければならない。だが、魂氣は、実体がないのだ。俺が魂氣を祓っても、この戦を終わらせることはできぬ。だから、」
迅は、暁斗の言葉を、ただ静かに聞いていた。その瞳には、暁斗を心配する色が浮かんでいる。
「俺が、魂氣を払っている間に、お前は、敵の指揮官を討て」
暁斗は、迅の肩に、そっと、手を置いた。
「朽木の軍を率いる指揮官が倒れれば、魂氣は、兵士たちの不安で統率が取れなくなって、霧散 する。指揮官を倒さなければ、一時的に払うことができても、また来る。いたちごっこだ」
暁斗は、そう言って、迅の顔を、じっと見つめた。
「俺は、お前の力を信じている。お前は、必ず、敵将の首を取ってくれる。やってくれるな?」
迅は、その、あまりにも重い言葉に、戸惑いを隠せないでいた。
(……魂氣? 怨念? 妖? 物の怪……?)
迅の頭の中は、混乱していた。しかし、暁斗の言葉の裏にある、「俺を信じてくれ」という、切ないほどの願いは、痛いほどに伝わってきた。
「……分かった」
迅は、そう言って、暁斗の瞳を、まっすぐに見つめた。
「要するに、俺が、敵将の首、とってくりゃあいいんだな」
迅の言葉は、まるで、子供が、難しい言葉を、自分なりに噛み砕いたようだった。
「ああ。頼む」
暁斗は、そう言って、迅を、強く、強く抱きしめた。
ただ、「愛」と「信頼」という、強い絆だけが、そこに、存在していた。
「暁斗、俺からも、お前に証を渡したい」
迅は、暁斗の前にひざまずくと、その懐から、濃紫(ふかむらさき)と深紅 の、小さなふたつの硝子 の小瓶を、取り出した。
「これは、もしもの時のためにのむ『毒』だ」
「毒?」
「ああ。俺はこれを御守りとしてお前と二人で分かち合いたい」
「毒が、御守り……?」
「そうだ。俺は勝つ。でも、もしも、万が一、俺たちの運が、尽きたなら…これを」
迅は、暁斗に、縁が濃紫の小瓶を捧げるように差し出した。
暁斗は、迷いなく、それを受け取った。
その指が、迅の手甲から覗く指に、一瞬だけ、触れる。
ガラスの小瓶は硬いけれど、迅の体温で暖かった。
「……敵に捕まって、辱 めを受けるくらいなら、この毒薬で潔 く……ということか」
「そうだ。もちろん、俺も、すぐに、後を追う。同じもので、同じ場所へ、二人でいられるように」
迅が告げるそれは、共に死ぬという、覚悟の証。
暁斗は小瓶の中の、朝顔の種のような黒い丸薬をみつめて嬉しくなって笑った。
「気に入った」
迅はその笑顔をみて目頭を潤ませた。
「迅、お前は、俺の宝剣だ。お前は必ず勝つ」
暁斗は自分よりも背が高い迅の前髪に手を伸ばすと、迅は首を傾けてくれた。暁斗は月の光をあつめたような迅の髪を上げて、太陽を閉じ込めたみたいな琥珀の瞳を覗き込む。
「この御守りは、お前がその気高い魂を、俺に捧げた証として受け取る。俺はお前をひとりにはしない。お前も俺をひとりにするな。…頼むぞ、迅」
若き王は、ただ、静かに、そう答えた。
外では、夜の闇を洗い流すように、冷たい雨が、降り始めていた。
伝説が生まれる夜明けは、もうすぐ、そこまで来ていた。
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