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第2話

時は、遡る。 暁斗が、まだ五つの頃。彼の世界は、ひどく狭く、そして、完璧なまでに満ち足りていた。 彼の神氣は、生まれながらにしてあまりに強すぎた。乳母は、その清浄すぎる気に当てられ、心を狂わせた。父である神凪の王は、神氣を持たぬがゆえに、息子に近づくことすら恐れた。傅役(もりやく)である石動(いするぎ)たちもまた、常に三歩の距離を保ち、決して彼に触れようとはしなかった。 そんな暁斗の世界で、唯一の例外があった。 祖父、遥月(はるつき)。 乳母の事件をきっかけに王の座を退いた彼は、自ら、この恐るべき孫の養育係となった。同じ神氣をその身に宿す祖父だけが、何の隔てもなく、暁斗の傍にいることを許された、唯一の人間だった。 「―――暁斗。今日は、城の外の話をしてやろうか」 隠居した祖父の部屋は、暁斗にとって、世界でただ一つの「天国」だった。 祖父は、書物を読む合間に、穏やかな声で、外の世界の物語を語ってくれた。祭りの夜の賑わい。子供たちが興じるという、ザリガニ釣りという奇妙な遊び。父が知らない、母の、都での思い出。 暁斗は、その話に、夢中になって耳を傾けた。祖父の温かい膝の上で、彼の語る言葉の一つ一つが、暁斗の心に、きらきらと輝く宝物のように積もっていった。 それは、誰にも脅かされず、ただ一人、自分を理解してくれる存在と過ごした、完璧な時間。 彼にとっての「幸福」とは、「安全な場所で、大切な人と、二人きりでいること」だと、この時に、その魂に深く刻まれたのだ。 しかし、その「天国」は、彼が七つになった冬、あまりにも突然に、終わりを告げる。 祖父が、静かに息を引き取ったのだ。 祖父の亡骸が冷たくなっていく傍らで、暁斗は、一粒の涙も流さなかった。ただ、自らの世界から、全ての「音」と「温もり」が消え去っていくのを、呆然と感じていた。 祖父は、逝く前に、石動と共に、一つの仕組みを作り上げていた。自らの死後、この強大すぎる孫が誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりしないように、彼を完全に隔離するための、冷徹な「鳥かご」を。 祖父の最後の愛情は、皮肉にも、暁斗を完全な沈黙と孤独の世界に、閉じ込めた。 父との、年に二度の、冷たい食事。 石動が施す、心を殺すための教育。 彼の世界から、対話は消えた。 そして、一年が過ぎた。 八つになった年の、夏。盆の入りの夕餉の席で、彼は、父と異母弟が、楽しげに語り合うのを聞いた。 「―――父上! この間、ザリガニ釣りに連れて行ってくださったでしょう!」 その、何でもない一言が、暁斗の心に突き刺さった。 ザリガニ釣り。 それは、かつて祖父が語ってくれた、失われた「天国」のかけら。 一年間、沈黙の鳥かごの中で、彼が焦がれ続けた、外の世界の、具体的な一片。 (―――見たい) その、あまりにも純粋な衝動が、初めて、彼を、鳥かごの外へと突き動かした。 祖父が遺した、最後の愛情である「鳥かご」を、自らの意志で食い破り、失われた光を探しにいく。 それが、彼が初めて犯した「裏切り」であり、そして、運命の相手と出会うための、最初の咆哮だった。 暁斗が七歳になった誕生日を過ぎて数日後、祖父が亡くなった。 それから一年と半年がたった。 暁斗が八つになった年の七月十五日。 夏の陽は高く、城下の外れを流れる小川は、子供たちの歓声で満ちていた。 その中心にいたのは、(じん)だった。泥水も厭わず魚を追い、仲間たちに指示を飛ばす。まだ十歳とはいえ、その長く伸びた手足としなやかな筋肉は、彼がこの場所の、そして仲間たちの揺るぎない王であることを示していた。太陽に焼かれた肌が、汗で光っている。 その時だった。 まるで、その場の空気が陽炎(かげろう)のように揺らめき、裂けたかのようだった。 仲間たちの声が、ぴたりと止む。 川上へと続く、田んぼのあぜ道に、一人の少年が立っていた。 迅は、目を奪われた。 自分たちとは、何もかもが違った。 泥や汗とは無縁の、月光を思わせる、複雑な刺繍が施された(きぬ)(ころも)。日に焼けたことなどないのだろう、透けるように白い肌。そして、自分たちのようにがむしゃらに生きる者の瞳とは違う、あまりにも静かで、どこか遠くを見ているような、濃い紫の寂しげな瞳。 仲間の一人、熊樫(くまかし)が、ごくりと喉を鳴らした。 「……ばけもん?」 違う、と迅は即座に思った。 (あんなに美しい化け物がいるものか) (じゃあ、貴族の子供か?) (いや、供も連れずに、一人でこんな場所に来るはずがない) 少年――暁斗(あきと)は、ただ静かに立っていた。 八歳そこそこの、華奢な身体。黒々とした髪は前髪を短く切りそろえて、後ろ髪を借り上げている冠者(かぶろ)髪は二日に一度は手入れされていなければその美しさを保てないだろう。その彼が、ゆっくりと視線を動かし、やがて、その高貴な視線が迅の上でぴたりと止まった。 迅は、その視線に射抜かれた。 不思議な感覚だった。 値踏みするでもなく、怯えるでもない。 その静かな瞳は、まるで初めて見る生き物を、ただ純粋な好奇心で見つめているようだった。 そして迅は、その少年の視線が、自分の顔や、汚れた服ではなく、自分の身体の「形」そのもの――肩の幅や、腕のつき方、その骨格の全てを、まるで美しい美術品でも見るかのように、じっと見つめていることに気づいた。 (――なんだ、こいつ) 迅の、子供ながらに鋭い勘が、答えを探して悲鳴を上げる。 人ではない。 しかし、化け物でも、幽霊でもない。 ならば、答えは一つしかない。 昔、物知りの婆さんが、おとぎ話で語ってくれた。天から降りてくる、神の使い。 (――天人(てんにん)だ) そう確信した瞬間、迅は、自分が今まで感じたことのない、畏れと、そしてどうしようもないほどの高揚感に、心臓を鷲掴みにされていた。 仲間たちが後ずさる中、迅は、まるで何かに導かれるように、泥だらけの足で、一歩、天人の方へと踏み出した。 ガキ大将としてのプライドか、あるいは、ただもっと近くで見たかったのか。 彼は、乾いた唇で、声を絞り出した。 「…お前、誰だ?」 「名前のことか? 我は暁斗と申す」 「われはあきとともす?」 「名は、暁斗」 迅の問いに、少年 ―― 暁斗は、ただ静かに自分の名を告げた。 その声は、まるで古楽器の響きのように澄んでいた。ガキ大将である迅は、生まれて初めて、自分より年下の、それも華奢な少年に気圧されるという経験をしていた。 「お前、天から来たのか?」 「天? あそこからだ」 少年は山の上に立つ白い壁の城を指さした。 「お前は城の若宮(わかみや)様か!」 少年がうなずく。 「俺は迅だ」 「迅?」 天人に名を呼ばれたという興奮が、迅の鼓動を早めた。 暁斗の視線が、仲間が持っていた桶の中、赤黒い甲殻を蠢かせる生き物に向けられる。その瞳には、恐怖ではなく、書物でしか見たことのないものに対する、純粋で、燃えるような好奇心が宿っていた。 「そなたたちは、その、ザリガニ……釣り、をしていたのか」 迅の仲間たちは、きょとんとして顔を見合わせてる。 「そなた…?」 「なんだそりゃ」 その声に少年が驚いて硬直するのを見て、迅は仲間を振り返って「お前ら黙れよ」とにらみを利かせて黙らせた。誰かを笑うことを迅が怒って、逆らう奴とは一緒に遊んでない。 仲間を黙らせた迅は、改めて暁斗に向き直った。 太陽を背にして立つ彼の姿は、まるで後光が差しているかのように神々しい。その長く伸びた影は、まるで運命そのもののように、足元の暁斗の小さな身体を、すっぽりと飲み込んでいた。 「若…いや、暁斗、お前、ザリガニ釣りを見てえんだな?」 迅の声が上ずる。彼は、この神聖な存在に、自分の世界の素晴らしさを見せてやりたいと、心の底から思った。 「見せてやる! でも、暁斗、お前はその着物、汚すんじゃねえぞ!」 迅は、暁斗の、月光のような絹の衣を指さす。泥一つ付いていないその着物が汚れることなど、彼にとっては神の像を汚すにも等しい冒涜に思えた。 彼は、腹心の小雀(こがら)に目配せする。 「小雀!蛙、捕ってこい!」 「へいへい」 小雀が素早く蛙を捕らえ、迅に渡す。迅は、慣れた手つきで蛙の足の一部をちぎり取ると、それを糸に結びつけた。残酷な行為のはずなのに、彼の動きには、生きるための術を知る者だけが持つ、無駄のない美しさがあった。 彼は、その糸をそっと水辺の石の影に垂らす。 「こうやって待ってると、腹を空かせた奴が、食いついてくるんだ」 言葉通り、すぐに糸がぐっと引かれ、迅は素早くそれを引き上げる。糸の先には、赤いハサミを振りかざす、立派なザリガニがぶら下がっていた。 「すごい…」 暁斗の口から、感嘆のため息が漏れた。 「迅は、なぜこんなに川のことに詳しいのだ?」 「へへっ、親父が城の石垣を直す仕事をしててよ。この辺の地理は、遊びながら全部頭に入れたんだ」 誇らしげに語る迅の横顔を見ていたら、その視線が流れるように暁斗をみて、はつらつとした笑顔を向けてくる。彼の腕を濡らす水滴が陽の光を反射して、光の化身のようだった。 「ほら見てみろ。暁斗の足元にもいるぞ」 迅の言葉に、足元を見るとザリガニが水の中で顔と逆のほうに動いたのが見えた。 「こやつはなぜ、後ろに歩くのだ?」 「敵から逃げる時は、こうやって後ろに跳ねるんだよ。常識だろ?」と小雀が答える。 「常識なのか!」 暁斗は全く知らない世界の存在をもっともっと知りたいと思った。 「では、これは、虫の仲間か?それとも、魚の?」 「さあな。食えるってことしか知らねえ」と迅が笑う。 次から次へと繰り出される、暁斗の質問の数々。それは、まるで世界の全てを知りたがる、生まれたての雛鳥のようだった。迅や小雀は、その一つ一つに、彼らなりの言葉で答えてやった。暁斗にとっては、城で見た書物のどのページにも書かれていなかった、生きた知識だった。 一匹のザリガニが、暁斗の足元から逃げ出し、ちょろちょろと水の中へ帰っていく。暁斗は、それを名残惜しそうに、じっと見つめていた。その瞳には、自分もそちら側へ行きたい、という渇望の色が浮かんでいた。 その顔を見て、迅の中で、何かが決まった。 彼は、泥だらけの自分の手を、暁人の前に、ずいっと差し出した。 「―― おい、暁斗。お前も来いよ」 暁斗の視線が、その差し出された手に注がれた。 泥に汚れてはいるが、指は長く、力強い。 そこから伸びる腕は、しなやかで、城の護衛兵たちの武骨なそれとは全く違う種類のものだった。 夏の日差しをたっぷりと吸い込んだ健康的な肌の下で、薄い筋肉が滑らかに動いている。 それは、厳しい鍛錬で作り上げられたというより、野生の獣のように、生きるために最も合理的で、最も美しい形に進化した肉体に見えた。 自分自身の、白く、筋肉のつきにくい身体とは、何もかもが違った。 暁斗は、一瞬、戸惑ったように、迅の泥だらけの手と、自分の清浄な着物とを見比べる。 二代前からの家臣である石動(いするぎ)の「(けが)れに近づいてはなりませぬ」という、耳にタコができるほど聞かされた言葉が、脳裏をよぎった。 しかし、彼の目は、迅の顔を見つめていた。 太陽の下で、悪戯っぽく笑う、年上の友。その瞳は、「大丈夫だ、こっちの世界は、面白いぞ」と、雄弁に語っていた。 暁斗は、ゆっくりと、その白い、小さな手を伸ばした。 そして、迅の泥だらけの手を、ためらいがちに、しかし、確かに握った。 迅は、力強くその手を引いた。握った暁斗の手は、夏の陽射しを浴びていたはずなのに、まるで井戸の底から汲み上げた水のように、ひやりと冷たかった。 迅は、一瞬だけ、その人間離れした冷たさに心臓を掴まれたような気がしたが、すぐに暁斗の上げた歓声に、その違和感を忘れてしまった。 暁斗の身体が、初めて小川の冷たい水しぶきを浴びた。 驚いたような顔をした暁斗。しかし、その口から漏れたのは、悲鳴ではなかった。 「――あははっ」 泥だらけのまま、暁斗は笑っていた。 その鈴が鳴るような笑い声を聞いたとき、迅の全身に歓喜の衝撃が走った。 (この笑い声は宝物だ。俺が笑わせた。俺が見せた世界で喜ばせた。俺だけの宝物……) 迅に手を引かれて小川に入った時の、ともすれば暁斗にとっては生まれて初めてかもしれない笑い声は、遠巻きに見ていた仲間たちの心も溶かした。 自分たちとは明らかに違う「天人」が、自分たちと同じように水を掛け合い、笑っている姿を見て、すっかり打ち解けていた。 太陽が西に傾き始め、川面が金色に輝く。それは、永遠に続いてほしいと誰もが願う、完璧な午後の終わりだった。 その時、彼らの背後から、草を踏む音と共に、冷たい空気が流れ込んだ。 子供たちの笑い声が、ぴたりと止む。 振り返った迅の目に映ったのは、この場にあまりにも不似合いな、数人の男たちの姿だった。寸分の乱れもない武家の装束。その腰には、冷たい光を放つ刀。 そして、その先頭に立つ男の顔を、迅は知っていた。城で何度か見かけたことがある、譜代の家臣筆頭、石動と常に共にいる、あの武骨な男。―― 長谷部(はせべ)武玄(ぶげん)だった。 長谷部は、泥だらけの迅たちには目もくれなかった。まるで、道端の石ころでも見るかのように、その視線は彼らを通り過ぎ、ただ一人、川の中に立ち尽くす暁斗にだけ注がれていた。 その瞳には、何の感情もなかった。それが、かえって迅の背筋を凍らせた。 「――若」 長谷部の、低く、硬い声が響く。 その一言で、暁斗の身体から、子供の時間が魔法のように消え去った。 彼の顔から笑みが消え、その瞳からは光が失せる。彼は、びしょ濡れのまま、ただ黙って、「城の皇子」の顔に戻っていた。 「お城へ、お戻りくだされ」 長谷部は、そう淡々と告げると、側にいた護衛兵に、顎でしゃくってみせた。 護衛兵たちが、ためらいなく川の中へ進み、暁斗の両脇を固める。そして、まるで貴重な美術品でも運ぶかのように、その濡れた小さな身体を、ひょいと抱きかかえた。 「あっ…!」 迅が、思わず声を上げる。やめろ、と叫びたかった。暁斗に触るな、と。 しかし、長谷部の、氷のような一瞥(いちべつ)が、彼の動きを縫い止めた。 それは、言葉すらなかった。ただ、「身の程を知れ、虫けら共が」という、絶対的な侮蔑だけが、その視線には込められていた。 護衛兵たちは、抱きかかえた暁斗を、あぜ道で待たせていた、窓に御簾(みす)がかかった小さな駕籠(かご)の中へと、静かに入れる。 迅は、暁斗が最後に、何か言いたそうにこちらを見たのを、見逃さなかった。 しかし、その声が発せられる前に、駕籠の戸は、無慈悲に、そして完全に閉じられた。 迅の目には、その光景が、お偉い武士たちが、自分の宝物(暁斗)の自由を奪い、鳥かごへと連れ戻していくようにしか見えなかった。 彼は、その場に立ち尽くすしかなかった。 駕籠が、そして武士たちの一団が、丘の向こうへと消えていく。 仲間たちの、不安そうな視線が自分に集まる。 さっきまでの、あの輝くような時間は、全て夢だったのだろうか。 (あんなに笑っていたのに、城ではあんな風に笑ったりしないんだな) 迅の脳裏にはあの涼やかな暁斗の笑い声が浮かぶ。 (あの城の連中は皆本当の暁斗を知らないんだ。それなら、あの笑い声は、俺だけのものだ。他の誰にも聞かせるもんか。あいつは、俺が、この川原で見つけた、俺だけの宝物なんだ) 迅は、泥に汚れた自分の拳を、血が滲むほど、強く、強く握りしめた。 城に戻った暁斗が、この後、石動にどれほど厳しく叱責されることになるのか。 この時の彼には、まだ知る由もなかった。 それは、彼が生まれてから、おそらく初めて心の底から笑った、子供の声だった。 その笑い声を聞いた迅は、この天人のためなら、自分の全てを捧げようと、この時、固く心に誓ったのかもしれない。 その誓いが、二人の、そして一つの国の運命を動かす、最初の歯車が回った音だった。

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