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第45話

夜半(よわん)。降り続いていた雨は上がり、国境近くの九頭城(くずのしろ)一帯は、濃い霧に包まれていた。 東の街道では、朱鷺田清十郎率いる蒼家(そうけ)の兵が、計画通りに激しい(とき)の声を上げ、西園寺軍の注意を引きつけていた。朱鷺田の策は巧妙で、敵の本隊は完全に東への迎撃に気を取られていた。 その頃、西園寺の本陣、九頭城の奥。 神月迅(みかげ じん)は、猿飛衆を率い、霧と闇に紛れて、城内深くへと潜入していた。迅の動きは、水が流れるように淀みがない。彼は、王の(いと)という名の狂気を、自らの本能に変えて、獲物の首筋へと一直線に向かっていた。 迅が、斥候の(きば)(からす)の誘導を受け、大将の天幕へと突入したとき、朱鷺田の情報は正確だった。しかし、大将の寝台にいたのは、身代わりの影武者。 「―――くそっ!」 迅が舌打ちした瞬間、周囲の天幕の裏から、伏兵が一斉に飛び出した。 「(かしら)!」 猿飛衆の一人が、迅に向かって振り下ろされた敵兵の太刀を、己の背中で受け止めた。鈍い音と共に、その若者は血を噴き、霧の中の地面に崩れ落ちる。 熊樫(くまかし)は、その光景に目を見開いた。血の匂いと、倒れた仲間の姿。彼の足が、一瞬、縫い付けられたように動かなくなった。 だが、迅は振り返らない。琥珀の瞳は、目の前の影武者と、その奥に見える、逃げようとする本物の気配だけを捉えていた。 「小雀(すけ)、予定通り城を抑えろ! 熊樫、牙! 行くぞ!」 その声は冷酷だった。倒れた仲間への哀悼の念など、微塵も感じさせない。迅にとって、犠牲は「王の命令」を果たすための、ただの対価でしかなかった。 (……あんなにも、懸命に迅を慕っている仲間だというのに) 熊樫の心に、不信感が、鉛のように重く沈み込む。しかし、その不信が、今は命令を拒む理由にはならない。彼は、倒れた仲間を後に、迅の背中を追った。 大将は、密かに城外へと繋がる隠し通路の入口へと、まさに身を滑り込ませようとしていた。 「遅い!」 迅は、一瞬で距離を詰めると、流れるような動作で、その腰に差した太刀を抜き放った。銀閃一閃、大将の首は胴から離れ、冷たい石畳を転がった。 「(おわ)りだ」 迅が、血の滴る太刀を払った、その勝利の安堵が訪れた瞬間。 大将を守っていた、最後の老衛兵が、死に瀕しながら、呻き声を上げた。彼は、全ての力を振り絞り、渾身の力を込めて、手にした長槍を迅の背中目掛けて突き出した。 ドン! 甲高い音と共に、槍は鎧の隙間、脇腹の、最も深い部分に突き刺さった。 迅の視界が、一瞬で白く燃え上がった。体内の熱が、まるで冷たい氷に置き換えられたかのような激痛。迅は、その場で大きく咳き込み、口から血の(あわ)を吐き出した。 (―――この程度の、雑兵に……!) 彼は、その場で膝をついた。太刀を握る力すら、急激に失われていく。琥珀の瞳が、血の膜で霞んでいく。 「(かしら)!」 熊樫が、牙と共に駆けつける。迅の背中に突き刺さった槍、そして地面に広がる鮮血を見て、熊樫の顔は、血の気を失った。 「小雀(すけ)、合図を上げろ! 狼煙(のろし)を上げろ!」 熊樫は、呻く迅を抱き上げると、その場で叫んだ。 小雀(こがら)は、その命令を聞き入れ、直ちに城の天守から狼煙を上げた。城が落ちた、という勝利の合図。 その狼煙を、遠く東の街道で見た朱鷺田清十郎は、笑みを浮かべた。 (やったか、狂犬) 朱鷺田は、直ちに兵をまとめ、北方の西園寺の逃げ道を囲うように追撃を開始した。その進路は、事前に読み切っていた補給路と水路を押さえるための、冷徹な理に適ったものだった。 その水路を抑え、敵を完全に包囲網へと追い込んだところで、朱鷺田は、冷たい青石の瞳を、夜闇に輝く狼煙へと向けた。 (さあ、(いと)。あなたの命懸けの狂気が、この朱鷺田の理性をどれほど喜ばせてくれるか、楽しみに待つとしよう) 神凪軍本陣。玉座の天幕で、夜襲の行方を見守っていた暁斗のもとへ、早馬が飛び込んできた。 「御君(みきみ)! 九頭城、落ちました! 我らが勝ちにございます!」 歓喜の報せ。だが、その直後、近習は顔を青ざめさせた。 「しかし、神月殿が、討伐の際に、槍を受けて重傷。瀕死にて、今、熊樫らがこちらへ向かっております!」 暁斗の紫水晶の瞳が、一瞬で血の色に変わった。先ほどまで感じていた胸騒ぎの正体が、これだったのか。 「―――馬を、用意しろ」 彼の声は、もはや震えすらせず、凍てついていた。 「お待ちください、御君!」 警護の任についていた石動玄頼(いするぎ げんらい)が、必死に玉座の前で跪く。 「いけません! 我が君、この本陣を離れるなど、言語道断にございます! 北には朱鷺田の兵しかおらず、ここを空ければ…」 暁斗は、玄頼の言葉を、耳に入れていなかった。 「退け、玄頼。俺の『(いと)』が、死ぬかもしれないのだ」 彼は、玉座から立ち上がると、そのまま天幕を飛び出し、馬を飛ばした。その狂気の速度は、誰も止められない。 「玄忠(くろただ)!」 残された玄頼は、血相を変えて叫んだ。 「お前は、御君を追って護衛を!」 「伝令! 白鷺城の 長谷部(はせべ)へ直ちに早馬を手配せよ!」 「本陣は動かぬ! ここでこのまま朱鷺田(ときた)の報を待つ!」 必要な指示をしながら、石動玄頼の頭の中には、勝利の歓喜も、戦略の展望もない。あるのは、「王の理性の崩壊」と、「神凪の未来の喪失」という、ただ二つの絶望だけだった。 _____ 九頭城から撤退した熊樫(くまかし)は、瀕死の(じん)を背負い、(からす)の誘導で、野営地(本陣からほど近い野戦用の医療天幕)へと、泥と血に塗れながらたどり着いた。 迅の銀の髪は汗と雨に濡れ、脇腹から背中に貫通しかけた槍の傷からは、血が止まらない。軍医が駆けつけ、天幕の中に寝かせようとした、その時だった。 ゴオオォ…… 地を這うような、尋常ではない馬の(いなな)きが、夜の闇を切り裂いた。 神凪暁斗(かんなぎ あきと)だった。彼は、神氣(かむけ)によって一時的に駿馬(しゅんめ)と化した愛馬を、粗野なほどに止めると、その場に飛び降りた。 熊樫は、天幕の入口で、全身の血の気が引くのを感じた。王の紫水晶の瞳は、普段の理知的な輝きを完全に失い、狂気の熱を帯びていた。 「(じん)は、どこだ」 その声は、冷たい命令であり、誰も、それに逆らうことはできない。 暁斗は、天幕の中に寝かされた迅を見るなり、呼吸を止めた。脇腹から腹部にかけての、激しい血の広がり。顔の青ざめた、生気の失われた様子。 「―――退け」 暁斗は、軍医と熊樫に向かって、ただ一言、命じた。その絶対的な支配の響きに、軍医も猿飛衆も、ただひれ伏し、天幕の外へと退いた。 暁斗は、迅の横に(ひざまず)いた。その震える手で、迅の頬に触れる。冷たい。まるで、彼の神氣と同じ、氷のような冷たさだった。 「…迅」 暁斗は、その場で、迅の身体を抱き寄せた。傷口から血が滲み出るのも構わない。 そして、彼は、迅の冷たくなった唇に、自身の唇を重ねた。 ヒュン…… 暁くと迅の間に、微かな風が生まれたかのように、神氣が、暁斗の体から迅へと逆流していく。それは、単なる情交の熱ではない。命の譲渡。王の生命を、臣鬼の魂へと叩きつける、荒々しいまでの愛の儀式だった。 暁斗は、何度も、何度も、口付けを繰り返す。その瞳は、迅の顔から離れない。 「迅、俺だ」 「きこえているか、迅」 神氣を送り込みながら、暁斗は、囁く。それは、愛の言葉ではなく、王の命令だった。 「俺は此処だ。戻ってこい」 「迅、勝手は許さない」 「お前は、俺の(いと)だ。此処に来い」 彼の唇は、「失う恐怖」と「独占の狂気*に歪んでいた。神氣の奔流(ほんりゅう)が、迅の体内に流れ込むことで、迅の肌に、微かな温かみが戻り始める。 暁斗は、ただひたすらに、その儀式を続けた。外では、熊樫らが、雨上がりの冷たい地面に、ただ跪いて待っている。 その頃、朱鷺田清十郎は、北方の追撃戦で、西園寺の残党を完全に包囲殲滅しつつあった。 早馬から「迅の瀕死」の報を聞いたとき、朱鷺田は、冷たい夜風の中で、ただ静かに頷いただけだった。 「…そうか。予想はしていた」 彼は、一瞬、北の山奥にいるはずの、王の狂気に思いを馳せた。王の愛が、どれほど暴走しているか。そして、その愛が、迅の命を繋ぎ止めるだろうという確信があった。 ((いと)は、ときに論理を超越する) (だが、その(いと)も、この戦の勝利という盤石な理性の上にあってこそだ) 朱鷺田は、一切の動揺を見せず、目の前の殲滅戦の指揮に集中した。彼の優先順位は、戦略の完遂が最上位であり、私情はその次だった。彼は、全てが終わるまで、王のもとへは戻らないと、冷徹に割り切っていた。 くるくると風車が回る ゆらゆらと風に吹かれた焔炎に煽られ まるで凶器ででもあるかのように削ぎすまされていた 氷に閉ざされた湖の底、月の落とした影が沈む 水底を穿(うが)つ、蔓(つる)草の先 水面を這(は)い、ただ一輪の花を待つ 誰がために、赤く染まって 誰がために、黄に染まって 誰がために、翠に染まって 誰がために、蒼に染まって 誰がために、紫紺に染まって 誰がために、すべてを晒すのか 揺らめくのは空蝉の幻 赤黒く塗らめいて満たされぬ空虚(から)を、打たれたように跳ねさせ 渇ききったそれが、熱(ひ)を求めて、夜の淵に震える 風車は回る ゆらりゆらりと躍るように揺らめき まるで驚喜でもしたかのように、 誰かの息吹に萌えだす花が蕾を開く 星々は、天に輝き 渇きは、満たされる 満ちては欠ける月の下、 永遠に、この鎖から、逃れ得ぬ明日なき花が咲く どれほどの時が流れただろうか。 夜半の闇は、既に東の空の群青色に溶け始めていた。 暁斗は、繰り返し神氣を送り込み、迅の体に、王の狂気という名の生命を刻みつけていた。 疲労が、彼の体から全ての力を奪い、唇を離したとき、暁斗は不意に、天幕の入口から差し込む篝火の揺らぎに目をやった。 その瞳は、もはや何の感情も映していない、疲弊しきった紫水晶だった。 暁斗は、「戻ってこい」という最後の呪いを、迅の額に口付けと共に刻むと、そのまま、迅の傍らで、深い眠りに落ちた。 東の空が白み、雨上がりの湿った空気が野営地を包む頃。 石動玄忠(いするぎくろただ)は、祖父・玄頼(げんらい)の命を受け、本陣から馬を飛ばし、野営地に到着した。 彼が、人払いが解かれた暁斗の天幕を覗いたとき、目に入ったのは、血の海の中で、横たわる二人の姿だった。 暁斗は、迅の隣で眠っており、迅は相変わらず蒼白で意識はない。しかし、玄忠は、すぐに異変に気づいた。 「……っ」 脇腹の傷口からの出血は、既に止まっている。そして、何よりも、迅の肌に、死体のような冷たさはない。微かに、神氣の余韻が漂い、容態は、昨夜の「瀕死」から、「重傷だが、命は繋がった状態へと劇的に回復していた。 玄忠の全身に、怒りと畏怖が走った。 (あの王が、自らの命を削ってまで……!) それは、王の忠誠心という「理」から見れば背徳であり、「(いと)」という狂気から見れば絶対的な証明だった。 玄忠は、跪き、その場に立ち尽くした。迅の命は繋がった。だが、王の(狂気)もまた、この戦の勝利と共に、確固たるものとなってしまったことを、玄忠は、この瞬間に悟った。

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