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第44話
西園寺の治める岐神領 に攻めいるための移動中のことだった。
神凪領最後の土地で野営のために天幕を貼った。
夜には雨が降っていた。
暁斗 は、専用につくられた簡素な天幕の中に、一人でいた。外では、夜襲に備える兵士たちのざわめきが、遠くから聞こえてくる。
その天幕の入り口が、静かに開いた。
そこにいたのは、迅 だった。
「遅くなってすまない」
迅の声は、いつものように平坦だった。
暁斗は、迅の言葉に、何も言わなかった。ただ、その顔を、じっと見つめるだけだった。
「……何だよ」
迅が、不機嫌そうに、呟いた。
「俺は、お前が無事に帰ってきてくれるのか心配なのだ」
暁斗の声は、震えていた。
迅は、その言葉に、息をのんだ。
(……心配、など)
迅は、暁斗の、その、言葉に、胸が締め付けられるような、痛みを感じた。
「……俺は、お前を大切に思っている」
暁斗は、そう言って、迅の腕を、掴んだ。
「お前を失いたくない。この愛(いと)を、永遠に繋ぎ止めたい」
迅は、暁斗の言葉に、何も言わなかった。ただ、その、琥珀色の瞳を、じっと、暁斗に向けた。
「……加護として神氣を与える。儀式をしよう」
暁斗は、そう言って、迅の着物を、ゆっくりと、脱がせた。
「おい、……ここでは、人目が」
迅の声は、かすれていた。
「いいや」
暁斗は、迅の言葉を、遮った。
「誰も、見てはいない。たとえ、神でさえも」
暁斗は、そう言って、迅の、その、身体を、抱きしめた。迅は、暁斗の、温かい温もりに、身を委ねる。
「……なぜだ。なにをそんなに不安がっているんだ暁斗」
迅の声は、震えていた。
「ここは、西園寺の首を獲るための戦場だ。我の命と、そなたの命を懸けた、最も重要な儀式の場でもある。迅、国務に勝るのだ。ためらうな」
「……分かってる。分かってるよ、暁斗。けど、俺、湯あみもままならなくて汚ねぇし、こんなところで、誰かに見られたら……」
「なにを言う。お前はこの世で、最も、清浄 い」
暁斗は、そう言って、迅の唇を、優しく、塞いだ。
そして、暁斗は、その、儀式を、行った。その儀式は、誰にも、見られることなく、二人の間で、静かに、行われた。
_____
雨が上がった翌朝。陣中には湿った土の匂いと、朝餉 の準備の煙が立ち込めていた。友衛 は、昨夜、猿飛衆 の天幕に戻らなかった迅のことが気になり、暁斗の天幕の方へと足を向けていた。
天幕に近づくと、ちょうど中から迅が出てくるところだった。 友衛は、咄嗟に物陰に身を隠す。
「……っ」
息を呑んだ。
朝の光に晒された迅の姿は、普段の彼とは明らかに違っていた。
いつもより乱れた銀の髪。気怠げに細められた琥珀 色の瞳。そして何より――
わずかに火照り、上気した頬。
常よりも色濃く、微かに腫れているようにも見える唇。
緩んだ襟元から覗く首筋には、そこだけ肌の色が変わったような、紅い鬱血 の痕が、生々しく残っていた。
昨夜、あの帳 の奥で何が行われていたのか。 友衛は、その痕跡を見て、すべてを悟った。
迅は、気怠げに肩を一度すくめると、深いため息をつき、猿飛衆の天幕の方へと歩き出した。その背中には、疲労と、どこか諦念 にも似た色香 が漂っていた。
友衛は、物陰から出られない。 全身が、激しい怒りと嫉妬で震えていた。
(……あんな顔をあの王にみせているなんて…!)
(あの王が、迅を毎晩のように…!)
だが、同時に、あの仄暗 い確信が、より強く心を支配し始めていた。
(迅は…受け入れている)
(あんな顔をして…、あんな痕をつけられても、拒絶はしていない)
(ならば―――)
友衛の瞳の奥に、暗く粘つく光が灯る。
(俺でも、いいはずだ)
(俺の方が、もっと、あいつの身体を…)
迅の姿が見えなくなるまで、友衛はその場で立ち尽くしていた。 彼の中で、迅への執着は、もはや友情とは呼べない、危険な熱へと変貌(へんぼう)を遂げていた。
_____
翌晩にはさらに移動していた。
岐神領 との国境近くに張られた神凪軍の本陣。夜も更け、雨音だけが冷たく響いていた。軍議を終え、朱鷺田 や玄忠 ら側近を退けた後、暁斗は天幕の中で一人、地図を睨んでいた。だが、その意識は目前の戦よりも、間近に迫る別離 ――迅を遊軍 として送り出すことへの、言い知れぬ不安に囚 われていた。
(…行かせるしかないのだ。あいつを)
戦が終われば、必ず手元に戻る。そう信じてはいても、胸騒ぎが止まらない。あの火事(かじ)の夜のように、この手をすり抜けて消えてしまうのではないかという、根拠のない恐怖。
(繋ぎ止めておかねば)
(神氣を、新月が来ても枯れないように)
(迅が受け入れられるぎりぎりまで与えなければならない)
暁斗は立ち上がり、天幕の入口に控えていた近習 に低く命じた。
「迅を呼べ」
_____
近習の使いを受け、猿飛衆の陣から御君の天幕へと向かう途中の迅を、警護配置についていた玄忠 が呼び止めた。玄忠は、祖父・石動 玄頼 と同じく迅への敵意を持つ若き忠義者だ。
「神月殿」
雨音を裂く、硬質な呼び声だった。迅は立ち止まらず、ただ顔だけを横に向けた。
「なんだ、石動の坊ちゃん。急いでいる」
「我が君がお呼びと聞いている。貴殿が、この戦の鍵だと。―――故に問う」
玄忠は、全身を覆う鎧を雨に濡らしながら、冷たい目を迅に向けた。
「貴殿の命は、神凪の理 に懸けられているのか。それとも、我が君の激情 に踊らされているだけか」
それは、筆頭家老(玄頼)の王への不安を、より若く、純粋な形で突きつける言葉だった。
迅は、嘲笑 うように口角を上げた。
「俺は、俺自身に懸けられている。俺の命は、王の心そのものだ。理屈で測るな」
「ならば、命を惜しめ」
玄忠の言葉は、氷のように冷たかった。
「貴殿を失うことは、王の理性を失うことに等しい。我ら家臣団は、王の狂気に、もう二度と付き合うつもりはない。王を正しく導くために、生きて戻れ。それが、貴殿に課せられた、唯一の忠節だ」
玄忠は、迅の答えを待たずに、頭 を垂れた。
「失礼した。ご命令を果たされよ」
迅は、その場に立ち尽くす玄忠の背を、琥珀の瞳で睨みつけると、舌打ちをし、再び御君の天幕へと急いだ。彼の足取りは、先ほどの軽口のせいで、わずかに重くなっていた。
_____
ほどなくして、雨に濡れた外套を脱ぎながら、迅が姿を現した。その琥珀 色の瞳が、灯火の揺れる中、怪訝 そうに暁斗を見る。
「…呼んだか、暁斗」
「ああ」
暁斗は、近習に目配せして人払いをすると、迅に向き直った。
「来い、迅」
手招きし、天幕の奥、簡素な寝台が置かれた私的な空間へと促す。迅は訝 しみながらも、黙って従った。
暁斗は、寝台に腰掛けると、隣を示した。
「座れ」
「……」
「迅」
促され、迅は仕方なく腰を下ろす。布一枚隔てた外には、雨音に混じり、見張りの兵の気配や、遠く猿飛衆 の天幕から漏れる話声すら感じられる。
「…いったいどうしたんだってんだよ、こんな時に」
「…不安なのだ」
唐突な暁斗の言葉に、迅はわずかに目を見開いた。
「不安?」
「ああ。戦がどうなるか分からぬ。お前を行かせた後、俺は…」
暁斗は言葉を切り、そっと迅の肩に手を置いた。そして首筋をなでるその感触には色があった。びくり、と迅の身体が強張る。
「おい…、待てよ、暁斗」
迅の声が、無意識に低くなる。
「昨日、儀式は済ませただろう。ここは…」
「分かっている。だが…今、触れてたいのだお前に」
暁斗の手が、迅の湿った髪を梳き、冷えた頬に触れる。その紫の瞳には、常の冷徹さとは違う、縋 るような熱が宿っていた。
「お前が、ここにいることを確かめたい。俺だけのものだと…感じていたい。戦に出る前に…」
それは、王の命令ではなく、ただ一人の少年の、どうしようもない我儘 と不安の吐露 だった。迅には、そう聞こえた。
「だとしても…、外には、皆が…、俺の、奴らが…」
猿飛衆の手前、頭目である自分が、御君の不安のために抱かれているなど、知られたくはない。
「気にするな」
暁斗は、迅の抗議を、しかし有無を言わさぬ響きで遮った。
「お前は俺のものだ。誰に遠慮がいる」
有無を言わさず、暁斗は迅の顎を捉え、無理やりに顔を上げさせた。雨に濡れて冷たくなった唇に、自身のそれを重ねる。
「ん…っ!」
迅が抵抗しようと身を捩るが、暁斗は構わず深く口づけ、細い腕で迅の背に腕を回して引き寄せた。それは力任せではない。相手の抵抗を封じ込める、絶対的な支配者の動きだった。
(…クソ…っ)
迅は内心で悪態をついた。この状況、この場所。屈辱以外の何物でもない。だが、暁斗の必死さが、その唇を通して伝わってくる。離したくないのだという、切実さが。 それは、かつて自分を弄んだ男たちの、汚れた欲望とは違う。
(……仕方ねえ)
迅は、ゆっくりと体の力を抜いた。諦めにも似た、しかしどこか甘い受容。 暁斗は、迅の抵抗が消えたのを感じ取り、わずかに唇を離すと、その紫の瞳でじっと迅を見つめた。
「…それでいい」
囁きながら、暁斗の手は迅の濡れた衣の合わせへと滑り込んでいく。冷えた肌に、暁斗のひやりとした指先が触れ、迅は小さく息を呑んだ。 雨音が、二人だけの天幕を包み込んでいく。外の世界の喧騒も、戦の気配も、この帳の内側までは届かないかのように。 迅は、ただ目を閉じ、この孤独な王の不安を受け止めるための「熱」を待った。
_____
岐神領 との国境近くに張られた神凪(かんなぎ)軍の前線基地。夜も更(ふ)け、雨音だけが冷たく響いていた。猿飛衆(さるとびしゅう)の若者たちが身を寄せ合う粗末な天幕(てんまく)の中で、友衛は眠れずにいた。
(迅 は…また、あの王といるのだろうか)
頭目 として、そして御君 の懐刀 として、迅は御耀 の天幕近くにいるはずだ。昼間の顔とは違う。あの御君と二人きりの時、迅はどんな顔をしているのだろう。今朝見かけたあの赤い唇が、朽木の出陣前に、御君が迅の腰を抱いた光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
(確かめたい。迅は、あの御君に無理やり…)
衝動に駆られ、友衛は音もなく天幕を抜け出した。雨に紛れ、警備の兵士の目を盗み、ひときわ大きく設 えられた御君の天幕へと近づく。
明かりは最小限に落とされている。だが、布一枚隔てた向こうから、微かな人の気配がした。友衛は息を殺し、雨水が滴る天幕の合わせ目に、そっと耳を寄せた。
「…っ、ぁ…」
迅の声だ。苦痛を押し殺したような、それでいて、どこか甘さを含んだ、微かな呻 き。
友衛の全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
(やはり…!)
怒りに震える拳を握りしめ、合わせ目をわずかに指で押し開く。
隙間から見えたのは、揺れる灯火に照らされた、二つの影だった。
寝台の上で、組み敷かれるように横たわる迅の、苦悶 とも陶酔 ともつかぬ表情。そして、その上に覆いかぶさるようにして、迅の髪を掴み、何かを囁 きながら深く口づけている、暁斗の姿。それは、情交 の最中 であると、疑う余地もなかった。
友衛の頭の中で、何かが音を立てて切れた。
激しい嫉妬。独占欲。そして、裏切られたような絶望。
(俺の迅に…! あの気高い迅が、あんな小僧の下で…!)
だが、同時に、出陣前の記憶が蘇る。暁斗に抱かれ、拒むようでいて、最終的にはそれを受け入れていた迅の姿。そして、友衛自身の、あの仄暗 い確信。
(やっぱり迅は…男 を受け入れることに抵抗がないのだ)
怒りと絶望の中に、ぞっとするような甘い疼(うず)きが混じり始める。
(御君だから、受け入れているのか? それとも…)
(ならば、俺でも…?)
(迅の体ならば、俺のほうが、もっと好くしてやれる…)
歪んだ欲望が鎌首をもたげる。
迅の赤い唇。乱れた髪。体を開いて男を受け入れているその姿。視線は、帳の奥の光景に釘付 けになったまま。
どれほどの時間が経ったか。
ハッと我に返った友衛は、誰かに見られる前に、音もなくその場を離れた。雨の中を自らの天幕へと戻りながら、彼の心は激しく揺れていた。
暁斗への憎悪。
迅への狂おしいほどの執着。
そして、決して口にしてはならない、危険な願望。
(許さない。あんな奴に、迅を渡してたまるか)
(迅は、俺のものだ)
雨音は、彼の内に燃え始めた暗い炎を、かき消すことはできなかった。
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