44 / 45

第44話

西園寺の治める岐神領(くなどのかみりょう)に攻めいるための移動中のことだった。 神凪領最後の土地で野営のために天幕を貼った。 夜には雨が降っていた。 暁斗(あきと)は、専用につくられた簡素な天幕の中に、一人でいた。外では、夜襲に備える兵士たちのざわめきが、遠くから聞こえてくる。 その天幕の入り口が、静かに開いた。 そこにいたのは、(じん)だった。 「遅くなってすまない」 迅の声は、いつものように平坦だった。 暁斗は、迅の言葉に、何も言わなかった。ただ、その顔を、じっと見つめるだけだった。 「……何だよ」 迅が、不機嫌そうに、呟いた。 「俺は、お前が無事に帰ってきてくれるのか心配なのだ」 暁斗の声は、震えていた。 迅は、その言葉に、息をのんだ。 (……心配、など) 迅は、暁斗の、その、言葉に、胸が締め付けられるような、痛みを感じた。 「……俺は、お前を大切に思っている」 暁斗は、そう言って、迅の腕を、掴んだ。 「お前を失いたくない。この愛(いと)を、永遠に繋ぎ止めたい」 迅は、暁斗の言葉に、何も言わなかった。ただ、その、琥珀色の瞳を、じっと、暁斗に向けた。 「……加護として神氣を与える。儀式をしよう」 暁斗は、そう言って、迅の着物を、ゆっくりと、脱がせた。 「おい、……ここでは、人目が」 迅の声は、かすれていた。 「いいや」 暁斗は、迅の言葉を、遮った。 「誰も、見てはいない。たとえ、神でさえも」 暁斗は、そう言って、迅の、その、身体を、抱きしめた。迅は、暁斗の、温かい温もりに、身を委ねる。 「……なぜだ。なにをそんなに不安がっているんだ暁斗」 迅の声は、震えていた。 「ここは、西園寺の首を獲るための戦場だ。我の命と、そなたの命を懸けた、最も重要な儀式の場でもある。迅、国務に勝るのだ。ためらうな」 「……分かってる。分かってるよ、暁斗。けど、俺、湯あみもままならなくて汚ねぇし、こんなところで、誰かに見られたら……」 「なにを言う。お前はこの世で、最も、清浄(きよ)い」 暁斗は、そう言って、迅の唇を、優しく、塞いだ。 そして、暁斗は、その、儀式を、行った。その儀式は、誰にも、見られることなく、二人の間で、静かに、行われた。 _____ 雨が上がった翌朝。陣中には湿った土の匂いと、朝餉(あさげ)の準備の煙が立ち込めていた。友衛(ともえ)は、昨夜、猿飛衆(さるとびしゅう)の天幕に戻らなかった迅のことが気になり、暁斗の天幕の方へと足を向けていた。 天幕に近づくと、ちょうど中から迅が出てくるところだった。 友衛は、咄嗟に物陰に身を隠す。 「……っ」 息を呑んだ。 朝の光に晒された迅の姿は、普段の彼とは明らかに違っていた。 いつもより乱れた銀の髪。気怠げに細められた琥珀(こはく)色の瞳。そして何より―― わずかに火照り、上気した頬。 常よりも色濃く、微かに腫れているようにも見える唇。 緩んだ襟元から覗く首筋には、そこだけ肌の色が変わったような、紅い鬱血(うっけつ)の痕が、生々しく残っていた。 昨夜、あの(とばり)の奥で何が行われていたのか。 友衛は、その痕跡を見て、すべてを悟った。 迅は、気怠げに肩を一度すくめると、深いため息をつき、猿飛衆の天幕の方へと歩き出した。その背中には、疲労と、どこか諦念(ていねん)にも似た色香(いろか)が漂っていた。 友衛は、物陰から出られない。 全身が、激しい怒りと嫉妬で震えていた。 (……あんな顔をあの王にみせているなんて…!) (あの王が、迅を毎晩のように…!) だが、同時に、あの仄暗(ほのぐら)い確信が、より強く心を支配し始めていた。 (迅は…受け入れている) (あんな顔をして…、あんな痕をつけられても、拒絶はしていない) (ならば―――) 友衛の瞳の奥に、暗く粘つく光が灯る。 (俺でも、いいはずだ) (俺の方が、もっと、あいつの身体を…) 迅の姿が見えなくなるまで、友衛はその場で立ち尽くしていた。 彼の中で、迅への執着は、もはや友情とは呼べない、危険な熱へと変貌(へんぼう)を遂げていた。 _____ 翌晩にはさらに移動していた。 岐神領(くなどのかみりょう)との国境近くに張られた神凪軍の本陣。夜も更け、雨音だけが冷たく響いていた。軍議を終え、朱鷺田(ときた)玄忠(くろただ)ら側近を退けた後、暁斗は天幕の中で一人、地図を睨んでいた。だが、その意識は目前の戦よりも、間近に迫る別離(べつり)――迅を遊軍(ゆうぐん)として送り出すことへの、言い知れぬ不安に(とら)われていた。 (…行かせるしかないのだ。あいつを) 戦が終われば、必ず手元に戻る。そう信じてはいても、胸騒ぎが止まらない。あの火事(かじ)の夜のように、この手をすり抜けて消えてしまうのではないかという、根拠のない恐怖。 (繋ぎ止めておかねば) (神氣を、新月が来ても枯れないように) (迅が受け入れられるぎりぎりまで与えなければならない) 暁斗は立ち上がり、天幕の入口に控えていた近習(きんじゅう)に低く命じた。 「迅を呼べ」 _____ 近習の使いを受け、猿飛衆の陣から御君の天幕へと向かう途中の迅を、警護配置についていた玄忠(くろただ)が呼び止めた。玄忠は、祖父・石動(いするぎ)玄頼(げんらい)と同じく迅への敵意を持つ若き忠義者だ。 「神月殿」 雨音を裂く、硬質な呼び声だった。迅は立ち止まらず、ただ顔だけを横に向けた。 「なんだ、石動の坊ちゃん。急いでいる」 「我が君がお呼びと聞いている。貴殿が、この戦の鍵だと。―――故に問う」 玄忠は、全身を覆う鎧を雨に濡らしながら、冷たい目を迅に向けた。 「貴殿の命は、神凪の(ことわり)に懸けられているのか。それとも、我が君の激情(きょうき)に踊らされているだけか」 それは、筆頭家老(玄頼)の王への不安を、より若く、純粋な形で突きつける言葉だった。 迅は、嘲笑(あざわら)うように口角を上げた。 「俺は、俺自身に懸けられている。俺の命は、王の心そのものだ。理屈で測るな」 「ならば、命を惜しめ」 玄忠の言葉は、氷のように冷たかった。 「貴殿を失うことは、王の理性を失うことに等しい。我ら家臣団は、王の狂気に、もう二度と付き合うつもりはない。王を正しく導くために、生きて戻れ。それが、貴殿に課せられた、唯一の忠節だ」 玄忠は、迅の答えを待たずに、(こうべ)を垂れた。 「失礼した。ご命令を果たされよ」 迅は、その場に立ち尽くす玄忠の背を、琥珀の瞳で睨みつけると、舌打ちをし、再び御君の天幕へと急いだ。彼の足取りは、先ほどの軽口のせいで、わずかに重くなっていた。 _____ ほどなくして、雨に濡れた外套を脱ぎながら、迅が姿を現した。その琥珀(こはく)色の瞳が、灯火の揺れる中、怪訝(けげん)そうに暁斗を見る。 「…呼んだか、暁斗」 「ああ」 暁斗は、近習に目配せして人払いをすると、迅に向き直った。 「来い、迅」 手招きし、天幕の奥、簡素な寝台が置かれた私的な空間へと促す。迅は(いぶか)しみながらも、黙って従った。 暁斗は、寝台に腰掛けると、隣を示した。 「座れ」 「……」 「迅」 促され、迅は仕方なく腰を下ろす。布一枚隔てた外には、雨音に混じり、見張りの兵の気配や、遠く猿飛衆(さるとびしゅう)の天幕から漏れる話声すら感じられる。 「…いったいどうしたんだってんだよ、こんな時に」 「…不安なのだ」 唐突な暁斗の言葉に、迅はわずかに目を見開いた。 「不安?」 「ああ。戦がどうなるか分からぬ。お前を行かせた後、俺は…」 暁斗は言葉を切り、そっと迅の肩に手を置いた。そして首筋をなでるその感触には色があった。びくり、と迅の身体が強張る。 「おい…、待てよ、暁斗」 迅の声が、無意識に低くなる。 「昨日、儀式は済ませただろう。ここは…」 「分かっている。だが…今、触れてたいのだお前に」 暁斗の手が、迅の湿った髪を梳き、冷えた頬に触れる。その紫の瞳には、常の冷徹さとは違う、(すが)るような熱が宿っていた。 「お前が、ここにいることを確かめたい。俺だけのものだと…感じていたい。戦に出る前に…」 それは、王の命令ではなく、ただ一人の少年の、どうしようもない我儘(わがまま)と不安の吐露(とろ)だった。迅には、そう聞こえた。 「だとしても…、外には、皆が…、俺の、奴らが…」 猿飛衆の手前、頭目である自分が、御君の不安のために抱かれているなど、知られたくはない。 「気にするな」 暁斗は、迅の抗議を、しかし有無を言わさぬ響きで遮った。 「お前は俺のものだ。誰に遠慮がいる」 有無を言わさず、暁斗は迅の顎を捉え、無理やりに顔を上げさせた。雨に濡れて冷たくなった唇に、自身のそれを重ねる。 「ん…っ!」 迅が抵抗しようと身を捩るが、暁斗は構わず深く口づけ、細い腕で迅の背に腕を回して引き寄せた。それは力任せではない。相手の抵抗を封じ込める、絶対的な支配者の動きだった。 (…クソ…っ) 迅は内心で悪態をついた。この状況、この場所。屈辱以外の何物でもない。だが、暁斗の必死さが、その唇を通して伝わってくる。離したくないのだという、切実さが。 それは、かつて自分を弄んだ男たちの、汚れた欲望とは違う。 (……仕方ねえ) 迅は、ゆっくりと体の力を抜いた。諦めにも似た、しかしどこか甘い受容。 暁斗は、迅の抵抗が消えたのを感じ取り、わずかに唇を離すと、その紫の瞳でじっと迅を見つめた。 「…それでいい」 囁きながら、暁斗の手は迅の濡れた衣の合わせへと滑り込んでいく。冷えた肌に、暁斗のひやりとした指先が触れ、迅は小さく息を呑んだ。 雨音が、二人だけの天幕を包み込んでいく。外の世界の喧騒も、戦の気配も、この帳の内側までは届かないかのように。 迅は、ただ目を閉じ、この孤独な王の不安を受け止めるための「熱」を待った。 _____ 岐神領(くなどのかみりょう)との国境近くに張られた神凪(かんなぎ)軍の前線基地。夜も更(ふ)け、雨音だけが冷たく響いていた。猿飛衆(さるとびしゅう)の若者たちが身を寄せ合う粗末な天幕(てんまく)の中で、友衛は眠れずにいた。 ((じん)は…また、あの王といるのだろうか) 頭目(かしら)として、そして御君(みきみ)懐刀(ふところがたな)として、迅は御耀(みかが)の天幕近くにいるはずだ。昼間の顔とは違う。あの御君と二人きりの時、迅はどんな顔をしているのだろう。今朝見かけたあの赤い唇が、朽木の出陣前に、御君が迅の腰を抱いた光景が、脳裏に焼き付いて離れない。 (確かめたい。迅は、あの御君に無理やり…) 衝動に駆られ、友衛は音もなく天幕を抜け出した。雨に紛れ、警備の兵士の目を盗み、ひときわ大きく(しつら)えられた御君の天幕へと近づく。 明かりは最小限に落とされている。だが、布一枚隔てた向こうから、微かな人の気配がした。友衛は息を殺し、雨水が滴る天幕の合わせ目に、そっと耳を寄せた。 「…っ、ぁ…」 迅の声だ。苦痛を押し殺したような、それでいて、どこか甘さを含んだ、微かな(うめ)き。 友衛の全身の血が逆流するような感覚に襲われた。 (やはり…!) 怒りに震える拳を握りしめ、合わせ目をわずかに指で押し開く。 隙間から見えたのは、揺れる灯火に照らされた、二つの影だった。 寝台の上で、組み敷かれるように横たわる迅の、苦悶(くもん)とも陶酔(とうすい)ともつかぬ表情。そして、その上に覆いかぶさるようにして、迅の髪を掴み、何かを(ささや)きながら深く口づけている、暁斗の姿。それは、情交(じょうこう)最中(さなか)であると、疑う余地もなかった。 友衛の頭の中で、何かが音を立てて切れた。 激しい嫉妬。独占欲。そして、裏切られたような絶望。 (俺の迅に…! あの気高い迅が、あんな小僧の下で…!) だが、同時に、出陣前の記憶が蘇る。暁斗に抱かれ、拒むようでいて、最終的にはそれを受け入れていた迅の姿。そして、友衛自身の、あの仄暗(ほのぐら)い確信。 (やっぱり迅は…(おとこ)を受け入れることに抵抗がないのだ) 怒りと絶望の中に、ぞっとするような甘い疼(うず)きが混じり始める。 (御君だから、受け入れているのか? それとも…) (ならば、俺でも…?) (迅の体ならば、俺のほうが、もっと好くしてやれる…) 歪んだ欲望が鎌首をもたげる。 迅の赤い唇。乱れた髪。体を開いて男を受け入れているその姿。視線は、帳の奥の光景に釘付(くぎづ)けになったまま。 どれほどの時間が経ったか。 ハッと我に返った友衛は、誰かに見られる前に、音もなくその場を離れた。雨の中を自らの天幕へと戻りながら、彼の心は激しく揺れていた。 暁斗への憎悪。 迅への狂おしいほどの執着。 そして、決して口にしてはならない、危険な願望。 (許さない。あんな奴に、迅を渡してたまるか) (迅は、俺のものだ) 雨音は、彼の内に燃え始めた暗い炎を、かき消すことはできなかった。

ともだちにシェアしよう!