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第43話

神凪(かんなぎ)の国が、東の強国・朽木(くちき)を、奇跡的な奇襲によって退けてから、一年。 若き城主・神凪暁斗(あきと)の名は、畏怖(いふ)と、そして、侮蔑(ぶべつ)の、全く異なる二つの色合いをもって、周辺諸国へと広まっていた。 そして、その懐刀(ふところがたな)である、神月迅(みかげじん)の名は、「神凪の狂犬」として、それ以上に、恐れられていた。 神凪耀(かんなぎのきみ)の称号を持つ神子として京に在る暁斗は、最高位の祭壇で、煌帝(きらめきのおおきみ)より「天命の拝受」の儀式を受けた。 暁斗は、煌胤(ひかりのすえ)という称号を神凪耀として拝受したことで、王としての権威を神聖な領域にまで高めた。 そして、その五日後の天月 1289年10月10日夕刻。 暁斗の執務室に、一通の書状が届いた。 送り主は、西国を支配する大領主、西園寺(さいおんじ)だった。 西園寺の使者は、神凪将軍である迅の前で、傲慢な言葉を王に突きつけた。 「煌胤(ひかりのすえ)の称号、心よりお喜び申し上げます。神凪輝としては年若く、治める領地も塀の数が少ないと聞く。西園寺が後見人(こうけんにん)になって指南して差し上げましょう」 暁斗は、書状に目を通すと、無言で傍らの燭台(しょくだい)の火に書状をそっとあてた。 「これが返事だ」 気高く、冷ややかに答えた暁斗の言葉に、西園寺の使者は平伏したまま退室した。 _____ その日の評定(ひょうじょう)の間は、張り詰めていた。 議題は、北の大国、西園寺(さいおんじ)からの、一通の書状。 その内容は、あまりにも、傲慢(ごうまん)だった。事実上の、降伏勧告にも等しい、脅迫。 玉座に座る暁斗が、その、紫水晶の瞳で、家臣たちを見渡す。 「―――皆の、意見を聞きたい」 その、静かな問いに、最初に答えたのは、軍師・朱鷺田清十郎(ときたせいじゅうろう)だった。 彼は、広げられた地図を、優雅な仕草で指し示しながら、その、理路整然とした、完璧な策を、披露する。 「―――御意(ぎょい)。西園寺の軍勢は、確かに強大。しかし、その生命線は、この、ただ一つの補給路にございます。我らが、別動隊を以て、この補給路の根元にある、『(かすみ)の砦』を、先に落とせば。大蛇(おろち)は、自ずと、その身を、飢えさせて、枯れることになりましょう」 それは、あまりにも合理的で、そして、誰もが納得する「正論」だった。 石動(いするぎ)や、朝倉(あさくら)ですら、その見事な分析に深、(うなず)いている。 ―――その、完璧な調和を、破壊したのは。 部屋の隅で、退屈そうに腕を組んでいた、迅の不遜(ふそん)な一言だった。 「……回りくどい、そして、俺という宝を、安全な鳥籠に繋ぎたがる、狐のやり方だな」 その挑発的で核心を突く言葉に、朱鷺田の青石(あおいし)の瞳の奥が、冷たい怒りと抑え難い熱で僅かに揺らめいた。迅が、自分の独占的な意図をこうも平然と公の場で看破したことに、彼は激しい興奮を覚えた。 迅は、立ち上がると、朱鷺田が広げた地図の上を、指でとんと叩いた。朱鷺田が示した「砦」ではない。敵の本陣、まさに中央を。 「―――(かしら)がいるのは、ここだ。こんな、遠回りな真似、する必要はねえ」 「俺と、暁斗と、猿飛衆(さるとびしゅう)だけで、西園寺の大将の首を、直接、()りに行く。それで、戦は終わりだ」 その、あまりにも「狂犬」らしい、そして、あまりにも、これまでの神凪にはなかった「本能」。 「馬鹿を申すな! 若様を危険に晒すなど、断じてならん!」 筆頭家老の石動が怒りに顔を歪ませ、長谷部と朝倉も固い表情で玉座の暁斗を見つめた。 「御君(みきみ)。神月殿の策は、まことに、一か八かの博打(ばくち)にございます。勝てば早いが、敗れれば、我が君の命が!」 家臣たちの猛反対を受け、朱鷺田は静かに一歩進み出た。彼は、迅の命を賭した策を否定せず、ただ、暁斗の安全という論理で、その狂気を制御しようとした。 「神月殿の策、奇を以て正を制すという点では、実に合理的。我が君の血筋が持つ、理性を破壊する狂気でございます」 朱鷺田は、まず迅の策を評価することで、その狂気の価値を認めた。その上で、冷静に首を振る。 「しかし、この策は、『神速と隠密』が命。煌胤(ひかりのすえ)たる我が君が動かれるには、あまりに荷が重い。護衛と撤退路の確保に、必要以上の兵力を割くことになる」 朱鷺田は、地図上の補給路ではなく、迅の顔、そして暁斗の顔を交互に見た。 「朱鷺田の案としては、神月殿と猿飛衆のみが動くべき。その方が、敵の眼を欺き、本陣を突くには、身軽でしょう」 朱鷺田の言葉は、完璧な正論だった。暁斗を愛する家臣たちにとっては、これ以上ない安全策の提案であり、彼自身にとっては、自分の宝を最も輝く場所へ送り出す、独占的な指南だった。 暁斗は、しばしの沈黙の後、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。その紫の瞳に、わずかな悔恨の色が宿る。 「……分かった。朱鷺田の言う通りだ」 暁斗は、玉座の上から、迅をまっすぐに見つめ、命じた。 「迅、お前と猿飛衆だけで行け。必ず、生きて帰ってこい」 迅は、短く「御意」と返すと、一度だけ朱鷺田を見やった。その琥珀の瞳は、朱鷺田の「安全と独占」という二重の意図を正確に読み取りながらも、静かに、その指示に従うことを選んだ。 その瞬間、朱鷺田の瞳の奥で、冷たい、そして、沸騰するような「所有欲」の光が、宿った。 それは、「この男は、己の理性を、己の狂気でしか制御できない。故に、私の独占に値する」という、究極の愛の肯定だった。 二つの、あまりにも強大な太陽の、その、どうしようもない戦いが、今、まさに、始まろうとしていた。 その声は、静かだったが、その場の、全ての音を、飲み込んだ。 彼は、ゆっくりと立ち上がると、家臣団を見下ろした。 その顔は、もはや、子供のそれではない。 彼ら臣鬼たちを完全にその手綱(たづな)の下に置く、「王」の顔だった。 「―――朱鷺田」 「はっ」 「そなたは、蒼家の兵を率い敵の注意を九頭城の東の街道に引きつけよ。ただし、深追いはするな。目的は、迅の率いる遊軍のための 時間稼ぎだ。二日以上長引く場合は補給路の攻撃に回れ」 「―――石動」 「…はっ」 「そなたの舞台は、玄忠と共に我を警護し、本陣に待機せよ。長谷部は白鷺城に残って、朽木の襲撃に備えて全ての守りを固めよ。我が、そして迅が帰る場所を、失わせるな。良いな」 そして、最後に、彼は、迅を見た。 その、紫水晶の瞳には、絶対的な「信頼」と、そして、どうしようもない「共犯者」への、哀しい光が、宿っていた。 「―――そして、迅」 「御意」 「―――お前は、俺に、勝利をもたらせ」 その、あまりにも単純で、そして、あまりにも、絶対的な命令。 その言葉の前では、もはや、誰一人として、異を唱えることは、できなかった。 迅は、その、生涯で、最も、美しい命令を聞いて、満足げに、そして、獰猛(どうもう)に、笑った。 朱鷺田は、自らの、完璧な論理が、ただの「陽動」という駒にされたことに、その、氷の仮面の下で、静かに、屈辱(くつじょく)を噛み殺した。 そして、石動は。 自らが育て上げたはずの、若き主君が、もはや、自分の手の届かない、恐るべき「王」へと、変貌(へんぼう)を遂げてしまった、その事実に、ただ、呆然(ぼうぜん)と、立ち尽くすしかなかった。 三者三様の、魂の形が、今、確かに、決まった。 物語は、こうして、あの、伝説の「奇襲の前夜」へと、その、最後の駒を、進めるのである。 評定(ひょうじょう)の間から、三人の男が、それぞれの思いを胸に、別々の闇へと消えていった。 _____ 神月(みかげ)(じん)は、歓喜の渦に、笑いが、止まらなかった。 自らが率いる、猿飛衆の荒々しい陣営に戻るなり、彼は、腹の底から、獣のように、笑い続けた。腹心である小雀(こがら)が、(いぶか)しげに、その主君を見つめている。 「―――見たか、小雀」 迅は、焚火(たきび)の炎を、その、琥珀(こはく)の瞳に映しながら、言った。 「あの、熱に焼かれた狐野郎(ときた)の、(つら)をよ」 彼の脳裏に、焼き付いて離れないのは、自らの命を守るという「(ことわり)」が、王の「(いと)」の前に、脇役という名の首輪を与えられた、あの瞬間の、朱鷺田の、冷たい仮面の下で燃え上がった顔。 「理屈じゃねえんだよ、あいつ(朱鷺田)(いと)は」 彼は、吐き捨てるように言った。 「あの狐は、俺を、玉座(あきと)の傍から引き離せぬと悟った。だからこそ、最も輝く方法で、俺を独占しようとした。……だが、暁斗(あきと)は、あいつをただの『陽動の駒』とした」 彼の心は、もはや、完全に、暁斗の絶対的な信頼という熱で、満たされていた。 暁斗は、朱鷺田の『理性』ではなく、俺の『本能』を、信じて『(いと)』のために、俺を戦場へ放った。 その、あまりにも甘美な、絶対的な「共犯」の感覚が彼の魂をこれ以上ないほど、高揚させていた。 「俺たちが、風になる。夜になる。(いかづち)になる。ただ、それだけだ」 彼は、これから始まる、血塗られた戦いを、まるで最高の「愛の証」のように、心待ちにしていた。 _____ 朱鷺田(ときた)清十郎(せいじゅうろう)は、自らの、完璧に整えられた天幕の中で、一人、静かに、碁盤(ごばん)と、向き合っていた。 その、氷のような仮面の下で、彼の魂がどれほどの屈辱と、そして、歓喜の炎に焼かれていたのか、知る者はいない。 (……(ことわり)では、勝てぬ) 彼は、静かにその事実を(いと)の証として認めた。 自分の、その、完璧だったはずの論理は、『陽動』という、あの男の狂気を守るための盾にされた。この屈辱は、自分の理知的な完璧さを穢したが、同時に、王の愛が、どれほど絶対的かを証明した。 (…御耀(みかが)は選ばれたのだな) (この、朱鷺田の『理性』ではなく。あの、神月の『本能』を) (そして、その本能を最も必要とする己の愛を) 彼は、自らが仕えるべき王が自分が支配しようと狙う()を、己の孤独な情熱で、最も危険な場所へと解き放った。その事実を、この日、初めてその魂に刻みつけた。 あの王は、迅という賽の目を、国という盤に投げつけ、愛という名の賭けに、自らの全てを、懸けたのだ。 (―――ならば、良いだろう) 彼は、一つの、白い碁石(ごいし)を、手に取った。 (あの狂犬は、私の理性の檻には収まらぬ) (だが、王の『愛』という名の鎖には、自ら繋がれた) 彼は、その白い石を盤上の最も重要な一点に、力強く打ち下ろした。 盤上の白は、神月迅。そして、王の愛。 (その愛の鎖そのものを、この私が、理をもって制御する) (この朱鷺田が王が振るう妖刀の、その(さや)になるまで…) 彼の、本当の『独占』という名の戦いは、今、まさに、始まろうとしていた。 _____ 石動(いるすぎ)玄頼(げんらい)は、城の、最も古い武具庫の中に、一人、(たたず)んでいた。 ひやりとした、鉄と、油の匂い。 彼は、その壁に掛けられた、自らの祖父が、かつて、使っていたという、古びた、しかし、手入れの行き届いた(よろい)を、その、(しわ)だらけの手で、そっと、()でていた。 (―――我が君は、もう、わしの手の届かぬ、場所へ…) 彼の心にあったのは、怒りですらない。 ただ、どうしようもないほどの、喪失感と、そして、畏怖だった。 自らが、その生涯を懸けて、育て上げたはずの、若き主君。 その主君が、もはや、自分の、その、正しいはずの「道理(どうり)」など、聞き入れようともしない、恐るべき「王」へと、変貌(へんぼう)を遂げてしまった。 そして、その王が、自らの命を、あの獣()の手に委ねたという、その事実に、石動の魂は、深い悲鳴を上げた。 (王は、(ことわり)を捨てた。そして、(なさけ)と、狂気を選んだ。……このままでは、神凪の国が、滅びる…) 彼は、その古い鎧に誓った。 王のその心を、直接変えることができぬ。 ならば、その王が、振るう、あの、あまりにも危険な『妖刀(ようとう)』そのものを、この手で、制するしかない、と。 (そのためには…) (あの、朱鷺田ごとき狐の独占を許すわけにはいかぬ) (あの獣の、全てを、この私が、王の理の代行者として、制さねばならぬ…) 三者三様の、魂の形が、今、確かに、決まった。 物語は、こうして、西園寺との、血塗られた戦いへと、その駒を、進めるのである。

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